如月寒冷

2008年2月15日 記


 きさらぎが寒冷なのは当たり前のことですが、今冬の寒さはこの数年では別格ではないかと思います。1月の中頃から、さすがは「大寒」だけあってと思うほどの厳しい寒さになりましたが、立春を過ぎても寒気は衰えることなく、2月9日は大雪になって温暖な土地に住むものを驚かせました。


ちょうどその日は夫の3回忌の法要の日で、お寺の本堂の冷え込みは、読経を神妙に聞く余裕を失わせるほどのものでした。
つぎの会場への移動も、私などは滑って怪我をしたくないとの思いから、積った雪の中を慎重に足元をたしかめて一歩ずつ動くような状態でした。

 近頃は、地球温暖化がマスコミに大きく取り上げられて、北極の氷山が溶けて崩れ落ちる画像などが何度も放映されて、CO2の削減問題が毎日のように報道されています。ついつい私たちもその気になって、暖冬が当たり前のように思って「寒さ」の防衛がなおざりになっていました。
私が寒がるのは年のセイかと思っていたのですがそうではないようです。街を歩いていても、ロングコートを着て分厚いマフラーをしている姿が多いのはやっぱり今年の寒さが半端でないことを物語っています。

 しかし、この寒さは覚えがあるのです。忘れていたものを思い出させてくれるような気がします。
庭においているバケツに薄氷が張っていたりして、久しく感じたことがなかった冬の懐かしさを甦らせてくれました。
そう、そう、私が、小学校の高学年であった昭和18年頃のことでした。太平洋戦争がたけなわでしたから、物資が不足していて裸足で登校していたのです。「靴が無い」というのも理由でしょうけれど、心身の鍛錬という大義名分がありました。「はだし」で冬の道を歩くってすごいことですよ。特に朝の朝礼で、校長先生の長談義のあいだ直立不動で立っているのですから、シンシンと足の底から冷たいものがあがって来て骨身に沁みていきました。もう、耐えられないとどれだけ思ったことでしょう。

 その話には少し救いがあるのです。「裸足は12月の末まで」ということになったのです。うれしかったですね。
やっと生き返りました。「そんな無茶な」と思われることでも生徒も父兄も受け入れていたのです。今の世の中では考えられないことですが、「甘く、やわらかく、」オブラートに包まれた子供たちが幸せかどうかわかりません。その時代、その時に生まれたものがその社会の教育のなかで育てられるのですから、アメと鞭はほどよいように使ってほしいものです。

 このところ、芥川賞作家であり、禅僧である玄侑宗久さんのホームページをよく開くのですが、「梅華」という本に「春が来たから梅が咲くわけではない。梅が咲くので春がくると書いておられます。
季節はまだあらかた冬、そのさなかに咲くことで、早春を呼び込んでしまう。これは、私たちの生き方でいうと、つらい境遇のなかにちょっとしたよい兆しを見つけてゆく。そのことで、よいことがどんどん膨らんでいくことでしょう。自分の振る舞いひとつで新しいものを作っていける。 そういう意味では、この寒冷の季節というのは、新しい季節であり、しかも清らかなんです。」とのこと。
「年をとれば、どうしても体は枯れていきます。枯れてはいくのですが、咲く花は常に新しい。中ががらんどうになったような梅の古木に、ばーっと花が咲くじゃないですか」とも。

 体が老いて不自由になるのは物理的に仕方のないこと。中身は新しいものを抱え込んで、この寒冷の季節にも、梅のように花を咲かす力を持ちたいものだと目からウロコの思いでした。
人は、思いがけないことに出会います。また、老いは必然といっても体験して初めて解かるものです。人間の愚かさ、悲しさ、空しさをどんなに感じても、なすすべは無く従容と受けるしかありません。その中で、自分の持てる力を精一杯そそいで、一生懸命に生きているのです。それでいいのではないかと思っています。

もうすぐ、暖かい日が訪れます。どんな酷寒の冬であっても、必ず春が来るのです。うれしいですね。