小春日和雑感

2007年11月25日 記


  穏やかな晩秋の日が続きます。
毎年、11月の下旬にはこんな落ち着いた日が訪れるのです。この静謐の時をとても大切に思って堪能しています。
やっぱり、この世は極楽浄土ではないかと思うのです。温かい光が、くまなく降り注いで、木々はじっとそれを受け取っています。小さな草花は、笑っているようにさえ見えるではありませんか。結構なことです。ありがたいことです。

 「第一腰椎圧迫骨折」と診断されてから1ヶ月。食事ごしらえ、洗濯、などの家事をしながら、家でじっとしています。こんなにゆっくり、贅沢な時間を持ったことなど無かったのではないでしょうか。
今までは、毎日のように外出して飛び回っていたのですから「じゃぁ、何がそんなに忙しかったの」と不思議に思います。
「忙」という字はリッシンベンに亡びるだから、心が亡びることと言いますが「ふんふん、そうだったのか」と合点しています。

行き着くところ、私の思い違いというか、融通無碍に動かない心の狭さではないかと思うのです。
「あれもしたい」「これもしたい」とやりたいことが一杯あるのです。それに、好奇心が旺盛なものですから、何事も体験しないと納得できないのです。そんな性格がいつも忙しい忙しいと用事を多くしていたのだと思います。
働いていると安心の状態ですが、グータラな時を過ごすと、落ち着かないのでストレスがたまります。努力が「善」であると決めてしまって、その枠から外れることはできないのです。

 私が育った昭和の前半は、勤勉努力、刻苦精励の時代で、それが美徳でありました。日本が貧しかったから必然的にそうなったのかもわかりませんが、みんなよく働いていました。
お釈迦様が一生をかけて修行されて、最後に残された言葉が「生あるものは必ず滅す、怠ることなく努力せよ」とのことですから、努力することは大切なことだし、人の命は短いものです。時を惜しんで勤め励むことは、誰しも心がけていることと思うのです。


 僧侶で芥川賞作家の玄侑宗久さんの「我が身の経営」というエッセイの中にある 「いざ、ここぞ」「さて、どこぞ」というのを読みました。
「ふだんは、60点でも、「いざ」となれば、必ず100点を取らなければならない時がある。問題はいつが「いざ」という時で、どこが「ここぞ」と見極めることがむずかしい。肝心かなめの「ここぞ」と決断する、その見極めは自分でするしかない。
「いざ、ここぞ」「さて、どこぞ」とふだんから自問自答だけは続けていて欲しい。」とありました。

なるほど、なるほど、そういうことだったのか。
来る日も来る日も、一生懸命に努力しても、それが良い結果を生むとは限らない。仏教でいわれるところの「慈悲と、智慧」の智慧が足らないのですね。「ここぞ」という時を見極められる、「チエ」がいるのです。今、何十年も歩いてきた越し方を考えると、私には、この「智慧」がいちばん足らなかったようです。つくづくそう思う昨今です。

 人間は、一生をかけて、「自分を知ること」だと、さる人に教えられました。知っただけではなにもなりませんので、この人生という修行の道場で、己の心ぐせや頑な考えを、解きほぐしたいと思っています。
残された余白を、ゆったりとした心で、自分に足らざるものを具えていけるよう、そんな日々を過ごしたいと思っています。