碧 空(語り部として−4)

2007年8月15日 記

 
  チリンチリンと風鈴の音が、夏の午後のしじまの中にかん高くひびいています。
終戦の日から62年。あの日と同じように紺碧の空がどこまでも深く澄んでいます。
そして、お盆と重なって、日本人にとっては心の奥底にジーンとこたえる日でございます。 自分が体験、見聞したことを拙い文章ですが残しておきたいと、PCの前に座りました。


草津水の森公園 睡蓮 2007.8.1 toshi

 先日、テレビドラマになった「はだしのゲン」を見ましたが、それは原作者である漫画家の中沢啓治さんの自伝とのこと。ご自分が被爆し、家族を失った生々しい体験を、マンガで描かれたので、とてもリアルで読者に訴える力があり、全国の小学校に置かれていて、よく読まれているらしいです。
野坂昭如さんの「火垂の墓」でもそうですが、子供たちが被る苛酷な状況は、つらく、悲しく見ていられない思いです。広島や長崎への原爆投下は核爆弾の実験台に供されたのですから、神も仏も許すまじき行為です。そして、東京や大阪などの大都会への攻撃もひどいものでした。何十万という人命と住居を灰燼にし、度重なる大空襲でことごとくを焼き尽くしてしまったのですから。

 私は女学生でしたから、勤労動員で大阪天満の軍需工場に行っていました。紙と竹でドラム缶を作っていたのです。学校とか勉強とかは忘却の彼方にありました。アメリカに勝つまではと、一億一心で頑張っていました。
しかし、深刻な状態になった頃は、毎日のように空襲警報が鳴り響いて、敵機が爆弾や焼夷弾を雨あられと降りそそぐのです。燃えさかる炎の中を友達同士で逃げまどうのでした。あたりは夜のような暗闇の中を、黒い雨にうたれて家路を急ぎましたが、交通機関はストップしていて、あちこちで燃え残る町なかを、トボトボ歩き続けて近鉄沿線の自宅に帰り着きました。家では、父や兄が心配して探し回ったらしいです。

 爆弾や焼夷弾を落としにくる飛行機はB29というのですが、機銃掃射をするのはグラマンという小型機です。低空でやってきて畑の中を歩いているのが女子供であっても執拗にバリバリと狙い撃ちするのです。そして倒れるまで追いかけるのです。私は、白い靴を持っていたのですが、危ないということで、わざと汚して履いていました。

 私が小さい頃住んでいた家の前に大きな公園がありました。
陸軍の兵隊さんがよく演習にきていました。
ザックザックと軍靴の音を鳴らして行軍している姿は、
重そうな鉄砲を肩に、背嚢(はいのう)、飯盒(はんごう)、水筒を背負い、帽子も、軍服も汗でズクズクに
なっていました。その列の外側を馬に乗った数人の
将校がパカパカと軽やかに進んできます。
それは決まって若い人でした。
きっと、士官学校を出た 将校でしょう。

 公園の中にはいって、鉄砲の先を上にして
何丁かを 円錐形に置き休憩されていると、
こちらもほっとする のですが、訓練がはじまると、
匍匐(ほふく)練習とか 鉄砲の構え方とか地面に
腹ばいになり砂埃のなかで、
厳しい指導を受けていた 兵隊さん達の様子が 目に
うかびます。 時には、ひどいビンタを張られている人もいます。それはいつもオジサンでした。
位階を表わす肩の肩章は星ひとつの3等兵。殴っているのは若い下士官です。「なんとひどいことを」何十年たっても、小さい胸に焼き付いたものは忘れることはありません。この出来事ひとつをとっても、軍隊生活の中身を垣間見たように思われます。

 今、わが国は、護憲か改憲かという大きな問題に直面しています。憲法9条を守ろうとする人は、それによって平和が維持できると主張しています。

 私は、70有余年を生きてきて、いろいろ体験してきましたが、改憲のほうに賛成です。
62年戦争が無かったからといって、これからもそれが持続できるとは考えられません。周りの様子も、世界の様子も、大きく変化しています。
自国の防衛をよその国に依存し、そして、その国の利害に追随して動くなんて、所詮、むりな話ではありませんか。
自分の国は、自分たちで守らなければと思っています。
軍隊即戦争ではありません。
軍隊はあくまで、防衛手段であって、 戦争は絶対にしてはなりません。
あらゆる外交手段をもちいて戦争を避け、そのためには、耐え難い屈辱をうけても、過大な経済負担を強いられても、じっと辛抱するのです。
そして、本当に「独立した日本」の平和を自分たちの手で維持したいと思っています。