限りある

2007年5月1日 記

 我が家の小さい庭は、いま、百花繚乱そのもの。

したたる緑の中でモミジが真っ赤な葉っぱを勢いよく並べましたし、ヒラドツツジが咲き誇っています。これは蕾がいっぱいなので見事な姿になるでしょう。
地面に近いところでミヤコワスレが紫の可憐な姿で繁茂していますし、鉢植えでは、君子蘭が大きな赤い丸を形づくっています。
そして、何よりうれしいことは、今年初めて、カラーが咲きました。

そんな中でも、一番すごいのはパンジーではないかしら。年末の寒い日に買ってプランターに植えた5株が、今も衰えることなく咲き続けているのです。花は、黄色、紫、赤紫、オレンジと鮮やかな色で、芳香を辺りにただよわせて、次から次へと大輪の花を咲かせるのです。寒い時も、暖かくなっても、雨の日も、風の日もへこたれず、ずっと元気に咲き続けているのは、本当にけなげな姿です。

 私は、こんな美しい草花を見ると頭に浮かぶ言葉があるのです。
「野の百合は如何にして育つかを思え、労せず、紡がざるなり。されど汝らに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだに、その装いこの花の一つにも如かざりき。今日ありて明日、炉に投げ入れらるる野の草をも神はかく装い給えば、まして汝らをや」マタイ伝6章の有名な言葉です。
若い時、教会で、教えてもらった聖書の中でも、特に心に残っているものです。

 ずうっと以前、東大寺の管長さんに、「人間は何のために生きているのですか?」と問うたら、「そんなことわかりません。わからないまま死ぬのです。」と仏教界の泰斗が答えられました。 それから30年、私は、いまだに容赦なく過ぎ去る年月にうろたえながらの日暮らしです。「容赦なく」という言葉は大自然の運行に使われる言葉ではないかと思います。
グズでドジな私にも、きりきりと頭と体を動かせる人にも、また悲しみいっぱいの時も、幸せに満ち溢れている時も、年月は厳しく冷徹に過ぎ去っていきます。

 朝がきて、夜がきて一日が終わる。24時間寸分の狂いもなく。そうして、春夏秋冬がめぐって1年がすぎる。これほど公平で、非情なことはないでしょう。私もそうですが、人はみな、明日もまた同じ日が来ると思っているのです。
「限りあるいのち」がわかっているのに、どうして、この大きな問題と真剣に対峙しないのでしょうか。愚かしくも不思議なことですね。

 それは、人間の力では老いや死の問題を解明することができないのではないかと思うのです。「天命は人智の及ばぬところ」といいますから、平凡なことのようですが一日、一日を大切に感謝して生きるしか「手」はないと思うのです。それから、先人先達が教え遺してくださったものを、よく学ぶことが大事と思います。それは、宗教とか学問とか芸術であるかもしれませんが、人間が生きてきた何千年の知恵の集積であるに違いありません。

 もう、高齢の私は、あるがままを受け取って、静かに暮らしたいと思っています。