雛祭り

2007年3月18日 記

 今年は、特別な暖冬だったらしく、あまり寒さを感じないまま1月2月を過ごし、このまま春になるように思っていたのですが、やっぱりそうは問屋が卸してくれませんでした。
3 月に入ってからは「寒の戻り」とか冷たい日が続きます。それも、はんぱじゃなくてかなり厳しいのです。陽光は明るく春の到来を告げているのに。でも、私は、気持ちの悪い温暖な冬より、よっぽどましかと震えながら妙な理屈をつけています。

今から60年以上も前のことですが、太平洋戦争をはさんでの時期に、私たち兄妹は大きくなりました。8人兄妹で一番上が兄で、その下に女が4人つづきます。そして弟がいてそのあと妹が二人という兄妹構成です。女が6人いるのです。

今、そのおんな姉妹は70代が4人、60代が2人ですが、みんな元気でトレトレのピチピチです。体の弱い私でも、ひとりで遠くまで旅をするのですから、弱いなどとはいえません。姉妹は、いつも電話は掛け合っていますし、会合も新年宴会はもちろんのこと年に何回かは顔を合わせます。6人姉妹のうち、私は上から2番目です。

 私たちの家では、お雛祭りを4月3日にしました。春休みで時候もちょうどいいあんばいの頃です。
2階の大きい座敷の床の間にヒナ壇を組むのです。私はお雛さんが大好きだったものですから、よく飾るお手伝いをしました。毎年のことなのに、置く位置を忘れてしまうのです。さくらは「サこんのサくら」というふうに覚えて左におきました。お殿様の刀を抜いたり、五人囃子の楽器をいじったりしたものです。夜になるとぼんぼりに灯をともして、鼻筋の通った中高の顔にほほえみを浮かべている人形を飽かず眺めたものです。

 雛祭りの日はお友達もよびました。
母が毎年ばらずしを作ってくれるのです。わけぎのヌタや、ハマグリのお吸い物もありました。姉の友達と私の友達が仲良くなって、トランプをしたり歌をうたったりして賑やかに遊びました。
両親と姉妹でお雛様の前で写した写真があります。昭和15年頃でしょうか、小さい妹たちは袂の長いお正月の着物を着てうれしそうです。 私たちは幸せな家族でした。父は真面目な働き者で、子供たち一人ひとりをこよなく愛してくれました。母もたくさん子供を生んでよく働きました。「山よりも高く、海よりも深し」の言葉通り両親の恩愛をいっぱい受けて育てられました。

 太平洋戦争が激化して、家族が散らばりました。それは子を持つ親にはどれだけ試練の日々だったか、想像に難くありません。 終戦を迎え、疎開先から小さい者は帰ってきましたし、兄も軍隊から、無事に還ってきました。また、幸せな家庭生活が始まりました。 が、数年のうちに、兄や姉は結婚して家を離れましたから、もう、以前の姿に戻ることはありませんでした。 そのとき、「すべてのものは移り行く、」ことを体感し深く意識したのを覚えています。

 私は親不孝にも病を得て、永い間、療養生活を送りました。もう、その頃にはお雛さんは、どうしているのか考える余地はありませんでした。いちばん小さい妹が、私たちのように お友達を呼んで楽しんでいたのかもしれません。

 今でも私は、1日として両親のことを忘れることはありません。というより、いつも身近に感じています。 私が病気の間にこんなことがありました。「私がこのまま病気が治らないで、おかあちゃんが死んだらどうしょう」と言うと。母は「あんたが元気になるまで、お母さんは死にません。」ときっぱりといいました。
強く、どっしりとした態度でした。
それは、母が46歳、私が21歳の時でした。