
11月21日は母(姑)の誕生日である。
母は3年前、西暦2003年に亡くなった。生まれたのが1901年(明治34年)だから一世紀以上生きていたことになる。101歳と2ヶ月のいのちだった。
生来の頑健な体と磊落な性質でのんきというか神経の太い人だった。現在は長命の時代で90歳代の人はいっぱい、でも100歳を越すのはなかなからしい。
私の夫も、母親に似てカゼをひいたことがないような人だったが、阪神大震災のあと体調がすぐれず入退院を繰り返すようになった。私一人では、母と夫を見られない状態になったので、申し訳ないが母に介護施設に入ってもらうことになった。「おばあちゃんは私が看る」という娘の言葉に甘えて、娘の家の近くにある特養にお願いした。
母が満100歳になる少し前のことだった。
9月の敬老月間に県からお祝いの使者が、知事さんの代理として施設にこられた。私たち家族も同席して、表彰状やお祝いの出石焼きの白い花瓶を、内閣総理大臣からは金杯を頂戴した。
母は車椅子にすわってうれしそうにそれを受け取っていた。また、思いがけず家族にもお褒めの賞状をいただいた。
11月21日は施設で、100歳のお祝いをしてくださることになった。
お祝いのご馳走は、ばらずしだった。
大きなお皿に盛られたお寿司はかなりのボリュウムで、一人ひとりの前に置かれてあった。が、母の前にはいつものお粥と、質素なおかずだけだった。一瞬、「おかしい」「どうして?」と思ったが、「超高齢の母がいつもと違うものを食べておなかをこわしたらいけないという配慮だろう」と解釈して、私は黙っていた。
次に施設に行ったら、母は
「みんなには、こんな大きなお皿にまぜずしを山盛りによそってあったのに、私には出してくれなかった。」
と両手でお皿の形をつくって、いかにも残念そう。うん、うん、よくわかる。私もそう思ったのだから。
その次に行った時も、同じ話。両手のお皿がひとまわり大きくなっていた。
「よーし。とびきりのおすしを作ろう。」
もうすぐ来るお正月に母に食べてもらおうと心に決めた。「おせち」はいつものとおり、それとは別に、ばらずしをつくることにした。これは、私の十八番でよく作る料理だ。もう手馴れたもので中に入れる具や上に乗せるものはその時、その時でいろいろ工夫することにしている。
元旦の朝、母は、娘夫婦の車に乗せてもらって、わが家に帰ってきました。
夫も、小康を得ていたので、親子はよろこんでいる様子。みんなで、元旦のお祝いの席につきました。
恒例のお正月のお料理とともに、大きいお皿に盛られた豪華なばらずしを一人ひとりの前に置きました。
トンカツと、エビフライとカキフライも次々と揚げて出しました。母はフライものが大すきなのす。食べたかったおすしを、「おいしい、おいしい」と食べたのですからきっと満足したことと思います。
きれいに平らげました。
私は、母がおなかをこわさないかという心配がなかったわけではないのです。でも母がどれぐらい健啖な人か、また、人の思いの深さがどれほどのものか分かっていたのです。
それは一番いいお正月でした。家族にとっても最高のお正月でした。
その次の年のお正月は、また、みんなで同じことをしたのですが、夫の状態があまりよくなかったし、母も、なぜか元気がなかったのです。そして1月28日に急逝しました。
最後の日も普段のように、お昼ご飯を自分で食べて、その夕方、息を引き取ったのです。
それは驚くほどきれいな顔でした。
母の安らかな美しい顔を見て、これが私への大きなプレゼントであるということを感じ取りました。
「おかあさん。ありがとう」
まる47年間の深いご縁でした。 |