碧 空(語り部として−3)

2006年8月15日 記

 終戦の日から61年が経ちました。
今年の8月15日は、小泉首相が靖国神社に参拝されることで早朝のニュースが始まりました。
総理が参拝された時刻には、どうしたことか、かなり雨が降っていましたが、これから始まる中韓の攻勢を覚悟し、日本国の総理として自分の信念を通した行動は立派でした。

残念に思うのは、人それぞれの考えといっても、周りの国々の間違った圧力に屈したり、迎合したりして、およそ人間としての誇りはどこへという日本人がたくさんいて、それもトップクラスの政治家や、知識人がいることです。
げに、人間とは恐ろしいものです。御(ぎょ)(制御)しがたく、度(ど)(済度)しがたく、悲しいものだと思いました。

「生まれ故郷を後にして、俺もはるばるやって来た。ランの花咲く満州へ、男一匹、腕だめし。」
という歌がありました。
その頃(昭和12〜.3年以降ぐらい)は「満蒙開拓義勇団」というのがあって、広い満蒙の地の開拓に加わって一旗あげたいと、熱い夢を見た人たちが大勢いたのです。
私などまだ小さい子供でしたが、「満州」とは果てしなくつづく地平線に、真っ赤な夕日が沈む壮大な景色をイメージしていました。

国土の狭い日本から見ると、そこはあこがれの大地であったわけです。
野望とか侵略とか、敗戦後はそんな言葉で攻撃されますが、不毛の地を開拓するために行った移民であったわけですから、現地の人にとって悪いことばかりではなかったと思います。
日本はその地に満鉄といって大きな鉄道を敷設し、病院、学校などどれだけの設備を投与してきたか分かりません。移民団は荒野を開墾し田畑にしました。

それが、終戦とともにロシアが侵入してきて、兵隊さん達は、酷寒のシベリアで苛酷な労働を強いられました。
今、日経新聞の「私の履歴書」に掲載されている茶道小堀流の小堀宗慶さんが、その体験をきめ細かく書いておられます。何十万という人が餓死や病気で亡くなりました。
なきがらは凍土に穴を掘ることができないので、イゲタに組んで火葬にしたとのことです。満蒙開拓団で入植した一般の人たちも、すべてを失い、家族バラバラになって、たくさんの人が命を落とされました。
筆舌に尽くしがたい艱難辛苦に遭われたのです。
私は、満州や中国を思うとき「キューン」と胸が痛むのです。純粋な気持ちで新天地を求めて出発した人の意気軒昂な心根が哀しく思われます。

昭和の一桁ぐらいまでに生まれた人は感覚的に、日本がどんな状態で戦争に突入したのか、 戦いの苦しみを体験しながらも、それを理解し許容して、国家とともに努力したと思います。
戦後の教育は、「日本が侵略戦争をして、相手に多大な血を流させた。」これ一色に染められました。この教育の結果、我が身はカヤの外にいて、「政治が悪い、社会が悪い」と他罪主義の人間が多くなりました。「自分が大事、家族が大事」と利己主義の冷たい人間も多くなりました。国家も、自信と誇りを失くして、対外的には、いまだに低姿勢を続けて這いつくばっています。

先日、北洋海域で漁船が拿捕されて、北方領土の問題がおこりました。また、尖閣列島、竹島等じわじわと攻められてきています。日本は周りを海に囲まれた島国ですから、国境は広範囲です。わが国をどうして守るのですか。戦争はどんなことがあってもしてはなりません。絶対に。
しかし、日本の防衛はどうしたらいいのでしょうか。人任せでいいのですか。
「ひとごと」と思わずに一人ひとりが社会、国家を形成しているのです。真剣に考えなければと思っています。