み つ 豆

2006年6月23日 記

 先日、ホテルのロビーでお茶を飲む機会がありました。疲れていたので甘いものをとメニューを見ながらアレコレ迷いましたが、私はお汁粉を注文しました。
何を迷うのかって、あんみつとか、みつ豆の文字が目に入るし、寒天は体にいいとわかっているのですが、やっぱりみつ豆は敬遠してしまうのです。

Long Long Ago、
支那事変のさなかのことでした。
私は、小学校の1年生ぐらいの時でした。大阪の上六に大阪陸軍赤十字病院というとても大きな病院がありました。バスに乗って、「小橋西ノ町(おばせにしのちょう)赤十字病院前」と車掌さんがいわれるとそこで降りるのです。
その当時はバスの車掌さんは女の人でした。キップの入った黒い大きなカバンおなかの前に下げてドアを開けたり閉めたりしていましたね。

 支那事変は昭和12年に勃発しましたから、それは昭和13年頃だったのでしょうか?
赤十字病院には傷ついた兵隊さんがたくさん入院されていて、小学生はそのお見舞いによく行っていたようです。姉がお友達と一緒に行くのに私も連れて行ってもらったのです。姉は、いつも行く病室がきまっているようで、もう皆さんとは仲良しになっているのです。その中の一人を姉が「ハギハラサン」といっていたのを覚えています。

 中国での戦いは、鉄砲や大砲によるものでしたから、片方の目が潰れて頭に包帯をグルグル巻きにした兵隊さん、片足をなくした松葉杖の兵隊さん、真っ白な病衣に身を包んで横たわっている兵隊さん。
傷つき病に倒れて、内地に転送されてきた傷病兵さん達でした。
大陸での戦争には、私の叔父も出征して最前線で戦っていましたからよく話を聞きました。敵国の中で戦っているのですから、行軍を落伍したら忽ちやられてしまうのだそうです。クリーク(濠、水がたまっている)とか、トーチカ(壕、土で築いた小山)とか、今では、そんな言葉すら知っている人が少なくなりました。


その兵隊さん達が、私たちを病院の喫茶室につれて行ってくださるのです。

そして、みつ豆がでてきました。それは初めて行った時か、二度目のときか良く覚えていませんが、みつ豆を前にして私はシクシクシ泣きだしたのです。そして、兵隊さんが「どうしたの」と言ってくださった時に「わあー」と堰をきったように大声で泣きました。
思いっきり泣きました。寒天はあまり好きではなかったのですが、泣くほど嫌いなわけではないのに、なぜかそうなってしまいました。
「きらいだったら食べなくてもいいよ」ということになりました。

 お行儀のわるさと、兵隊さんへの申し訳なさで、私は小さくなっていました。
傷ついた兵隊さんのなまなましい姿がこわかったのが大きな理由だと思います。
また、今こじつけた理屈かもしれませんが、戦争の不条理を感じ取っていたのかもしれません。戦争ってほんとうに間尺に合わないものですね。
相手を傷つけ、自分も命をかけて何をしているのでしょうか?
切なく、むなしく、胸がしめつけられる思いがいたします。

 母が生きていた頃は、まだ実家のアルバムに兵隊さんを慰問に行った記念写真がありました。兵隊さんが何人かと姉と私がよそいきの服を着て写っていましたが、もう、すべてが忘却のかなたに消えてしまいました。