2005年、年の暮れ

2005年12月22日 記

 ことし一年、私は殆ど病院暮らしであった。病気の夫の介護のために、三ヶ所の病院に通った。
 私が夫と結婚したのは、昭和31年3月だったから、もうすぐ50年になる。金婚式というところだが。
 夫も姑も、のんきな性格でいたって頑健な人だった。2人の子供たちも元気ですくすく育ってくれた。本当に私たちの家族は永いあいだ病気には縁がなかった。
それが、阪神大震災のあと、夫の体調がすぐれず、とうとう5年ほど前から入退院を繰り返し、また老健や特養などの介護施設にもお世話になった。
 
 2004年の12月に大学病院に入院した。
体験した人でないとわからないが、急性期の病院は3ヶ月しか入院していられない。これは病人や家族にとって過酷で非情なことで、とうてい納得できない問題なのに、社会的に大きな声が出てこないのは、一体どういうことなのか。

 ともあれ、次に、有馬の近くにあるキリスト教系の病院に転院した。そこは、評判の良い落ち着いた病院だった。
副院長先生は
「ここも急性期の病院ですから、ゆっくり療養できるところを紹介しましょう」と手配してくださって、7月に今の病院に入院することができた。
そこは、私たち家族がいちばん望んでいたところで、夫の病気の専門病院である。
国立の長期療養型の病院なので、ずっと入院していることができる。
専門のドクターも大勢いらっしゃって心強いし、夫を安らかに療養させられることは、私にとってこの上もない喜びであった。
三田の丘陵地の広大な敷地に建つこの病院に入れたことは、私の人生のなかでの数少ない奇跡のひとつであった。

JR尼崎で福知山線に乗りかえて、丹波路快速で三田に向かう。
宝塚駅を出てトンネルをいくつも過ぎると、パアーッと視界がひろがる。もうそこは北摂の地、三田は目の前にある。車窓から毎日のように見る裏六甲や丹波の山々は、秋には黄色や赤に染まって美しい姿をみせてくれたが、今は冬木立となってちらつく雪の中ですっくと耐えている。

 仏教でいう四苦は「生老病死」のこと。
「生」は自分のわからないことだけれど、この世に生まれて来るのは本人の絶大なる渇望によるというから、きっと、そうだと私は思う。「老」と「死」は物理的にみて仕方がないことだから、従容と受け入れるしかない。
ただ、「病」だけはカンニンして欲しい。
ある朝、起きてこないので見にいったら、眠ったままで終焉をむかえていたというわけにはいかないだろうか。
 うーん、きっと病気にはそれだけの意味があるのにちがいない。人間がどれだけ力をつくしても、心をつくしてもどうにもならない事がいっぱいある。自分に来たものを受けて、一生懸命に生きるしか道はない。
 
 今年は、永い長い一年だった。夫の病気に一喜一憂しながらの365日だった。
そして、発見と、感動と、感謝の日々だった。娘も、息子も本当に良くしてくれた。今日一日を大切に生きていけるのは、なにより幸せなことだと思っている。