赤色赤光(しゃくしきしゃっこう)

2004年11月20日 記

  穏やかな晩秋の日が続いています。一年中でいちばんこの季節が落ち着いているのではないでしょうか。朝日、夕日もすばらしい景観を見せてくれます。年の暮れが近づいているのを感じながら、この美しい自然のすがたを満喫しているこのごろです。
 
 二学期も、M女子大のオープンカレッジで「歎異抄」の講義をうけました。我が家からは足場がよくて通いやすいのがなによりです。はじめは、「平家物語」や「心理学」など、あれもこれもと欲張りましたが時間的に無理があって続かないので「歎異抄」に絞りました。
 私はこの齢になって何がしたいかといえば勉強がしたいのです。学校好きでしたから学校生活にも心残りがいっぱいです。その頃は太平洋戦争の戦中戦後で学問よりも大げさにいえば「いのち」の時代でしたから。

  

 おばあさんのウワゴトといわれそうですが、昨今の社会の状態をみていると、「どうして勉強ができる幸せがわからないの」と思います。物質にも恵まれ、ありあまる時間を持ちながら、近頃のお子さんは勉強をしないとききます。学力の低下は目を覆うばかりで、基礎的な知識もなくて、わが身のルックスばかりを気にしている若者たち。みんながそうではないでしょうが、そんな風潮が濃いようですね。

  「歎異抄」の講師F先生は、大阪の大きなお寺のご住職で、永い間オ−プンカレッジで講義をされています。お話し上手というか講義がとてもよくわかるのです。時事問題も必ず取り上げられて先生のお考えが出ます。これも楽しみの一つです。
 
 ある時、先生が「人間の品性には上品(じょうぼん)、中品(ちゅうぼん)、下品(げぼん)のそれぞれに上中下があって九品(くぼん)あります」と黒板に書かれて、「皆さん、自分はどこだと思いますか?」といわれた。
私はとっさにあつかましい位置を選びました。
が、次の瞬間、先生の「親鸞聖人はご自分のことを下品下性(げぼんげしょう)の泥凡夫(どろぼんぷ)といわれています」の言葉に恥ずかしい思いをしました。 

  私の家は浄土真宗の門徒で毎月ご命日には、檀那寺からお寺はんが来られて、阿弥陀経か正信偈をあげてくださいます。実家も同じ宗旨ですから生まれた時から浄土真宗の中に漬かっていて、正信偈は丸暗記だし阿弥陀経も聞きなれています。

しかし、中身はあまり分からないまま年も過ごしてきたのだから驚くほかはありません。
浄土真宗では聴聞(ちょうもん)といって講話をきくことを信徒の大切な勤めとされています。若い時から、聴聞にはよく行ったほうですが、今もって「めくら」です。何もわかりません。

 「いづれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」と歎異抄にあります。

本当に何もできない、なにも聞きとれない私をよくよく知ることができます。もうどうしょうもない自分を知った時、大いなるものに「南無」とたのむ、お任せする心になるのです。
「機法一体」といって、自分の値打ちを知ることと、自分はどんな時代に生きているのか知ることで、どこに拠りどころを得るのかを決めることだと教えていただきました。

 阿弥陀経に青色青光(しょうしきしょうこう)黄色黄光(おうしきおうこう)赤色赤光(しゃくしきしゃっこう)白色白光(びゃくしきびゃっこう)という言葉があります。
赤い色は赤い光を放ち、青い色は青い光を放って、それぞれが自分のできることをしっかり頑張ればいいのです。「自分らしい」光を放ってオンリーワンの人生を自由に臆することなく生きたらいいのだと思いました。
ラクになりました。それしかできないのですから。