碧 空 (語り部として) -2

2003年8月8日 記

 今日、8月6日は広島に原爆が投下された日です。
被爆された方をはじめ、太平洋戦争で命を失くされた多くの同胞、異国の人々に鎮魂の祈りを捧げたいと思います。

 最近、ある雑誌で「戦後60年にけじめをつける」という上坂冬子さんの文章を読んで、100パーセント共感しました。内容はすべてがもろ手をあげて、「イェース」と言えるものでした。

 先日、中国でサッカーの試合のとき、日本は強烈なブーイングを受けました。
その若者たちの反日感情は、本人たちが体験したことでもその目で見たことでもないのです。ひとえに教育によって植え付けられたものだと思うのです。それはわが国でも同じことだと思うのです。

 上坂さんは
「戦前の日本のすべてを否定するような愚をいつまでも犯していてはこの国に明るい未来はない」
と言っています。また、
「戦後の日本の政治、外交はずっと妥協点を求めて揺らぎ続け、その筋の通らない卑屈な姿勢が、国民の国家に対する誇りを失わせてきた。」
とも。

 昭和27年ごろだと思います。フィリッピンのモンテンルパ刑務所で戦犯として囚われている日本の軍人が、戦争裁判によって次々と死刑の宣告を受けました。
そして何人かは既に刑が執行されました。山下奉文大将も絞首刑になりました。
当時、大歌手の渡辺はま子さんは「モンテンルパの夜は更けて」という歌を熱唱して、その救出をアピールされていました。その作詞も作曲も元軍人のモンテンルパの死刑囚でした。

 私は、永い療養生活をつづけているときでしたが、マニラのモンテンルパ刑務所に手紙を出しました。万感の思いで激励と慰めを書きつらねたと思います。
しばらくして、予想もしなかった返事が来たのです。それは筆で書かれてありました。わたしへの体を見舞ってくださる言葉と希望をもって生きるようにということでした。十数名の署名がなされていました。墨痕新しく、なまなましいものでした。

 自分たちが、理不尽な戦争裁判の下で死刑判決を受け、その、執行が今日か明日かという時に、この立派な態度はどこからきたのでしょうか! 
その方たちは将校か下士官か私にはわかりません。
日本国家のために戦って、負けたらその責任を取るというのは軍人として覚悟の上だったのでしょうか。 しかし、ひとりひとりの苦しみはどれほどだったでしょうか!

 「戦争はいらない。」「絶対に」それが私のこころからの叫びでした。

 戦後60年近くなっても、まだ、その残滓は悪いほうに広がっていくばかりです。
先人が、たくさんたくさんの命を犠牲にして守ろうとした日本の国はこれからどうなるのでしょうか。

 私は「個」というものを考えます。国や社会が悪いのではありません。何故なら、一人ひとりが国家の、社会のひいては地球の一員であるのです。
「他」から何かしてもらうことを待っているのは大いなる錯覚ではないでしょうか。社会は「個」の集まりです。社会の外にいて見ているものではありません。昔は「世のため人のために」という言葉をよく耳にしました。
私のように歳を重ねた者でもそれを基準にして、日々ささやかな行いを累積したいと思っています。

追記 
(モンテンルパからの手紙は、私の宝物でした。それが阪神大震災で被災した時、他の大切なものといっしょに紛失してしまいました。)