立春夕月

2004.2.10 記

いくぶん北よりの東の空に
淡い月がかかった。
それは向こうが透いて見えるような薄い
黄色であった。ウサギの姿も鮮明に見えた。

 「だアーー」。 
まだ2月の初めぐらいで喜んでいられないが、立春、節分ぐらいになると確実に春の気配が漂いはじめて、陽射しはぐんと明るくなる。
しかし、どんなに春めいてきても、風は冷たいし気温は低い。だのに、この時期は人の心に希望を持たせてくれる。
心の奥底でじっとうれしいもの(確実に春がくるという)手応えを感じ取っているからだと思う。

 君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ」 

 百人一首の光孝天皇の歌で私の大好きな一つです。
第58代のこの帝は幼少より、賢明で思いやりの深いお人柄だったという。
なるほど、なるほど31文字の中にそれがよく表れていると思う。
 私は、この歌から天武天皇をイメージして、天智、持統両帝や、額田王を連想して万葉ロマンに夢をふくらませていた。

 まだ子供が小さい頃、早春の風の冷たいこの季節にどうしても飛鳥路に行ってみたいと、気の進まない夫や子供をムリヤリ連れて彼の地を散策した。
 下調べもいい加減にして早朝より飛び出したものだから、飛鳥路をやたらとさまよい歩いたように思う。
やっと天武、持統天皇陵へたどりついた頃には小雪がチラホラ散ってきて、私がイメージしたような光景になってきた。
 
 「ああーこれだ、これだ。」
底冷えのする飛鳥の里でちらつく雪を体感したかった。
道端の草も萌え出る時をじっと待っている気配が感じられ、もう春はそこまで来ているというこの季節に。

 「飛鳥」といえば、私にはもう一つ脳裏をかすめる事がある。
それは、60年以上もまえのことだけれど、太平洋戦争が始まって国内もなにか落ち着かない様子だった。
そんな社会情勢の中でも、父はよく私たちをハイキングに連れて行ってくれた。おもに大和路だった。
長谷寺、岡寺、多武峰、当麻寺、生駒山、二上山、橿原神宮など。きっと父は歴史探訪が好きだったのだろう。
 その時代の男性は、あまり子供のめんどうをみなかったと思う。男の沽券にかかわるとして体裁を保っていたに違いない。父はそんなことを気にもとめずひたすら家族を愛し、子供をかわいがってくれた。自然体というか自由の人であった。

 母は2年か3年おきに子供を産んでいたから、ずうーっと乳飲み子の世話をしていた。
父はその母のためにも子供をよくみていたのだと思う。
それでハイキングに行く時は何人かを連れていくのだった。
橘寺に行った時だと思うが、一番小さい妹が歩くのがイヤだと座り込んだ。
父が困ってリュックの中に入れてみたらとても喜んで顔だけ出してごきげんだった。

 飛鳥の田んぼ道を、背負ったリュックの中に小さい子供を入れて、楽しそうに歩いていた父の姿が思い出される。