母は、とても剛毅な人だったから、お餅つきも29日にした。
その当時は賃搗き(ちんつき)屋さんというのがいて、お餅は商売人に搗いてもらっていた。もち米を前日に洗っておくと、その人達が我家に来て大きなカマドに薪を燃やし、蒸して搗いてくれるのだった。
何斗ぐらい搗いていたか忘れたが、「九(苦)の餅をつく、」と言って人は29日を避けたらしいが、母は「そんなことはない、その日は餅屋さんが暇だからよう搗いてくれはる。」
と言っていた。

賃搗き屋さんは、できあがったお餅を大きなお鏡餅、これは床の間に、あと神棚、仏さん、三宝さんとお鏡をいくつも手際よく作って、子餅は私たちに丸めさせてくれた。
黒豆、よもぎ、えびなどを入れた熨斗(のし)餅やナマコ餅を、いっぱい作るのだった。あかあかと燃えたかまど、勢いよく吹き出す湯気、頑丈な男の人のつく杵の音、これが、年末の風物詩であった。
 
それに、お正月はお茶碗もお箸も新しいものにした。母と一緒に荒物屋さんに行って
好きなお茶碗とお箸を買ってもらうのだった。一年の途中でそれが割れると、去年の古いので我慢しなければならないようになっていた。
いよいよ、最後の日、大晦日の夜は、それぞれの、新しいお茶碗がピカピカに洗われて大きなざるに伏せてある姿がいまでも目に浮かぶ。
年が明けてお正月の三が日は、たくさんのお客さんが年始の挨拶に来られるのだった。
父は、「おかあちゃんを大事にしなさい。」と言うのが口癖だった。
母が85歳で亡くなる少し前、私が「8人も子供を産んでたいへんやったね。」と云ったら「子供より、商売の方がずっとたいへんやったよ。」と言っていた。
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