ひとりごと 

2003年12月25日 記

 いよいよ2003年も終わろうとしている。
クリスマスからお正月にかけてのこの忙しさ、どうして心が落ちつかないのだろう
デパートでも、スーパーでも二日には開くのだから、効率よくお正月の準備をしたいと思っている。

 私は、大阪の商家に生まれ育った。父も母も働き者だった。兄妹は8人、男2人女6人の割合で、その上、住み込みの従業員やお手伝いさんを合わせると数十人にはなっただろう。
 かっかっーと燃えるような活気に満ちた家だった。それは我家だけでなく、その時代の人は皆よく働いていたし、社会全体がいきいきしていたように思う。

 特に、年末はとても忙しかった。
煮しめ(おせちと言わなかった)の用意、お餅つき、大掃除等、すべて今年の汚れを落して新しい年を迎えるという、はっきりとそこに線がひかれてあって、大きな節目になっていたから掃除といっても簡単ではない。
畳、ふすま、障子の張り替えはそれぞれの業者にしてもらうのだが、畳を上げた後は、縁の下にもぐって箒で掃いてイシバイを撒いておく。といった具合に。

 私たち女姉妹は、お正月は着物を着ることになっていたから、母はその用意がたいへんだったろうと思われる。
みんなそれぞれ自分の好きな着物があって、四つ身を着る者、本身を着る者、肩上げに腰上げ、それに羽織、帯、長襦袢など子供の成長に合わせて準備をしていた母の労苦が偲ばれる。
ひょっとしたら、それを楽しんでいたのかも知れない。長い袖をひるがえして羽根付きをしている娘たちの姿を喜んで見ていたのだろう。

 母は、とても剛毅な人だったから、お餅つきも29日にした。
その当時は賃搗き(ちんつき)屋さんというのがいて、お餅は商売人に搗いてもらっていた。もち米を前日に洗っておくと、その人達が我家に来て大きなカマドに薪を燃やし、蒸して搗いてくれるのだった。
何斗ぐらい搗いていたか忘れたが、「九(苦)の餅をつく、」と言って人は29日を避けたらしいが、母は「そんなことはない、その日は餅屋さんが暇だからよう搗いてくれはる。」
と言っていた。

 

 

 

 賃搗き屋さんは、できあがったお餅を大きなお鏡餅、これは床の間に、あと神棚、仏さん、三宝さんとお鏡をいくつも手際よく作って、子餅は私たちに丸めさせてくれた。
黒豆、よもぎ、えびなどを入れた熨斗(のし)餅やナマコ餅を、いっぱい作るのだった。あかあかと燃えたかまど、勢いよく吹き出す湯気、頑丈な男の人のつく杵の音、これが、年末の風物詩であった。

 それに、お正月はお茶碗もお箸も新しいものにした。母と一緒に荒物屋さんに行って
好きなお茶碗とお箸を買ってもらうのだった。一年の途中でそれが割れると、去年の古いので我慢しなければならないようになっていた。
いよいよ、最後の日、大晦日の夜は、それぞれの、新しいお茶碗がピカピカに洗われて大きなざるに伏せてある姿がいまでも目に浮かぶ。

 年が明けてお正月の三が日は、たくさんのお客さんが年始の挨拶に来られるのだった。
 
 父は、「おかあちゃんを大事にしなさい。」と言うのが口癖だった。
 母が85歳で亡くなる少し前、私が「8人も子供を産んでたいへんやったね。」と云ったら「子供より、商売の方がずっとたいへんやったよ。」と言っていた。