碧 空 (語り部として) 

2003年8月6日 記

 あの青い空を、どう言い表したらいいのだろうか。 戦争に負けた日のあの紺碧の色を。

  過日、日経新聞の「私の履歴書」に作詞家のA氏が、昭和20年8月15日を特別な青空と書かれていたのを読んで、まったく私も同じ感動でその空を受けとった。
「こんな見事な青空は66年間(A氏が)生きた中で、数度の記憶しかない。その数度の中でも特別でまさに再生の瞬間であった」と。

 きっと、その日は、日本国中が快晴だったのではなかったろうか、それも特別の。
私は、富山県で終戦の日を迎えた。2人の妹と父の郷里に疎開していたのだった。天皇陛下の玉音放送で、日本が無条件降伏をしたと知ったとき、真っ白になった頭の中で、その清澄な紺碧の空は対照的であった。私は、神秘な大いなる存在を知ったように思う。
(その日は、シーーンと妙にしずかだった。日本国中が。)

 昭和16年に日本が太平洋戦争に突入してからは、国民総動員の態勢が強化されて、私達女学生も勤労動員といって軍需工場で働いていた。
私達は大阪の天満にあるT紡績の工場でドラム缶を作っていた。紙と竹製だった。涙ぐましい努力をしながら、日本は戦っていた。
笑うなかれそのつたなさを。私達は、一生懸命だった。手バサミで模造紙を丸く切ってドラム缶の上下を作り、回りは模造紙に竹を張ったものだった。もう日本には、カネケの物は何も無かったのだろう。今でも、手バサミで紙を切るとその感触が甦ってくる。      

 本土空襲が頻繁になって、近鉄線を鶴橋で乗り換えて環状線(当時は城東線とか、省線といっていた)の天満までいくこの通勤の途上、幾多の惨劇を目にした。

 森ノ宮と、京橋の間は砲兵工廠という、大きな軍需工場であった。ここを狙って、毎日のように爆弾が投下された。1トン爆弾が投下された後は、すり鉢がたの巨大な穴ぼこがあくのだった。どれだけの人命が損傷されたことか、瞑目合掌の連続であった。


京橋付近に落とされた爆弾の跡
今ここはビジネスパークになっている

  京橋の駅も爆撃に遭ってたくさんの人が亡くなられた。たしか、同級生も亡くなったと思う。

 仕事の最中に空襲警報のサイレンが鳴ると、防空壕に入って待機している。焼夷弾が雨あられと降りそそぎ、あちこちで火の手があがり街は大火となる。昼間というのに夜のように暗くなって、真っ黒な雨が降ってくる。
 私は、黒い雨にかかりながら、煙の中を逃げるのに目が開けられなかった事をよくおぼえている。同じパターンを何回も経験した。


火傷をしてミイラのように
包帯をぐるぐる巻いている人。
目と口と鼻が空いていた。
そんな姿の人を何人も見た。

 ある時、大胆にも私は防空壕の奥の隙間から爆撃にきている敵機を見ていた、グラマンか、B29か分らないけれど、ガーーと超低空で近づいてきて、バリバリと爆弾や焼夷弾を投下して行くのだった。私をめがけて急降下してきたように感じたものだった。

 帰りは、もう交通機関が動かなくなっているから、堺筋か上町筋を歩いて帰ることになる。真っ暗な焼け跡の町は、まだあちこちに火がホトホトと燃えて、道路の脇には犠牲者がムシロの下に横たわっておられる状態だった。

 

 毎日が命の瀬戸際にありながら、そんなに不安や怖さを感じなかったのは、私の年齢が浅かったせいもあるが、人間は土壇場になれば開き直って強くなれるものらしい。国家が一丸となって戦っていたから「日本の国を守る」という大義名分が、どっしりと各自の胸にあったからだと思う。

 何回もの空襲のあと、大大阪は殆ど灰燼に帰してしまった。たくさんの死者を出し、負傷者、被災者は焼け跡に立って茫然自失した。

 本土での決戦が近づいたとのことで、私は富山県に疎開している妹たちの世話をすることになり、急遽、富山に行った。そして旬日のうちに終戦の日を迎えた。敗戦を知ってすぐに私の脳裏をよぎったのは、「戦地の兵隊さん」であった。その人達のご苦労は内地にいる者の比ではない。

 碧空に銀のツブのように見える飛行機がたった1機飛んでいた。すべてが空しく終わったこの戦いを象徴しているように、寂しげに西の彼方に飛んで行ったのは、とても印象的だった。