立山連峰(父への手紙)

2002年10月13日 記

 お父さん、立山へ行って来ました。
「お父さんの立山」へ行って来ましたよ。


 私は、太平洋戦争の末期に富山のおばあさんの所に疎開していたでしょう。その時から立山を見たい、立山を見たいと思っていたのです。富山平野の西に位置するトナミ地方からでは、東のかなたに立山連山がそびえているものの、どれが主峰の立山か見定めることが出来なかったのです。

 去年に続いて2度目の立山(3015m)でした。去年はジパングのツアーでここにきましたが、もっと弥陀ヶ原でゆっくりしたいと心残りでおりました。今年こそはと思っていたら、娘の都合が良かったので二人で行く事にしました。ネットでホテルを予約したり、汽車の時間を調べたりして計画を立ててくれました。もう、三人の孫達が大きくなったので、携帯で交信しながら旅ができるようになったのです。

 「立山に行ったら、おじいさんが喜びはるよ」といいながら、その日を待ちました。
今では、3時間で富山に着くのですが、昔は随分かかったのでしょうね。大正の初め、お父さんが大阪へ就職する時は、たしか、高岡まで、父親に送ってもらったといっておられましたから、その高岡の駅も感無量で眺めました。私が、疎開していた時の景色がまだ残っていました。イネが黄色い穂をずっしりと垂れていましたし、杉の木に囲まれた大きな農家も所々で見られました。

 ローカル線や、ケーブルに乗り美女平につきました。そこからは、高原バスで左右に広がる景色を見ながら登っていきました。
だんだん雲が切れて3000メートル級の山々の姿が見え始めました。このあたりでは、もう、高い木が無いので紅葉したナナカマドや黄色のダケカンバが鮮やかな色で出迎えてくれました。ホテルに荷物を置いて、ナチュラリストと一緒に弥陀ヶ原(1930m)の湿原を歩きました。
 木道はよく整備されていて、尾瀬の湿原とよく似ているのですが、北の日本海、西の富山平野とその眺望の広がりはスケールが大きいように思いました。錦秋の秋という言葉がありますが、錦を織りなす見事な色彩は、神仏の賜物としかいいようのないものでした。
 夜は夕日の美しさに圧倒されましたし、富山湾の漁り火まで見えました。

  

 翌日は、早朝より立山直下の室堂へとバスに乗りました。少し雨が降っていましたが、景色はよく見えました。大日岳、奥大日は、手にとるようです。
そして、剱岳(2996m)が峻険な姿を現しました。
私はこの岩石の塊のような、男性的な山がとても好きなのです。
室堂平(2450m)に着いた後は、リックを背負ってみくりが池に向かいました。朝のみくりが池はコバルトブルーに鎮まっていました。この池は、お父さんが絵に描かれた所ですね。立山連峰をバックにして写生されたのですね。南画院に出展されたものは「山湖」という題でした。
確か、大賞を戴かれたと覚えています。あれは、何号と云うのでしょうか、畳2帖ぐらいの力作でした。
一人でこんな山奥に来て、写生しておられたのかと思うと「ふるさと」を愛して止まないお父さんの熱い血が伝わってくるようです。それも、かなりの老齢になられてからでした。

 お父さんは、富山からひとりで大阪に出てこられました。そして、大阪の人(母)と結婚し、子供がたくさん出来たけれど、みんな都会生まれの都会育ちですから、「ふるさと」と、云うものがあまり理解できてなかったように思います。
 「もう、最後になるかも分らない。」と云っては、富山に帰って行かれました。
 「また、あんな事を云って」と、家族は笑っているだけでしたから…。
この山をみんなに見て欲しかっただろうし、私たちが、今の感動をお父さんと一緒に味うことができたら、どんなに良かったでしょうか!
お父さん本当に立山はすばらしい山です。
 
 そうそう、うれしいニュースがあるのです。
この度のノーベル化学賞を田中耕一さんという人が受賞されました。その人は富山県の人なのですよ。
社会に役立つ立派な仕事をしながら、ジミで、ひかえめで、よく勉強されているそうです。
いかにも「富山人」というところで面目躍如ですね。こんな人を「すごい人」というのではないでしょうか。
 
 朝、少し降っていた雨も止み青空になったので、娘は一の越小屋(2700m)までひとりで登って行きました。元気なものですね。次に行った時は、立山カルデラ(くぼ地)をよく見たいと思っています。何万年か前の火山の爆発によってできたもので、そこから見る立山は、ひと味ちがった豪快な姿を見せてくれるそうですから。
 

 冠雪した立山連峰をみたい、鮮やかな新緑も見たい。さて、来年はいつ頃にしようかと
夢はふくらむばかりです。