わかやま

H.12.8.15執筆

我は海の子白波の
さわぐ磯辺の松原に
煙たなびくとまやこそ
我がなつかしき住み家なれ

たしか、昭和15年だったと思う、私が小学校の3年生の時、そう、今日のように暑い 日だった。1学期の終業式がすむと、すぐ父とともに、天王寺の駅から阪和線に乗って 和歌山へと飛び立った。
 初島という駅でおりてすぐ海に向かったプーンと鼻をつく強烈 なウミの香り、ギラギラと海面を照らす真っ赤な夕日、その雄大な景色は今も脳裏に焼 きついてはなれない。
  浜辺の一軒家に母と妹や弟がいた。漁師の家を借りて避暑生活をしていたのだ。村の女の人をお手伝いさんにして世話をしてもらっていた。漁師の子供達は丸裸で走り回っていた。お風呂に入っているとハサミの赤い蟹がゾロゾロと出て来たりして、びっくりしたこともある。朝早く,地引き網が大きな掛け声と共に引き上げられて、サカナがいっぱい網のなかにはいっている、それを買ってきて「なあーん」が料理をしてくれるのだ。「なあ―ん」とはお手伝いさんの呼び名である。


 私の海水帽は白地に赤いイチゴのもようのお気に入りだった。水着はどんなんだったか忘れたのに帽子は余程のものだったんだろう。遠浅が沖まで続いて,毎日かなりの広い海の中を動いていた。
ある時、沖のほうにチラリと壁のようなものが目に入った、がそんなことを忘れて遊びに興じていたら、「ガアーツ」と大波のなかに吸いこまれ何がなんだかわからなくなってしまった。津波のようなものが襲ってきたのだった。どうして助かったのかわからない。あとで母がいってたのでは大波の中に赤いイチゴの帽子がみえかくれしたそうだ。
  沖に初島という島があった。おぼろげなんだが左手の岬をカルモといった。カルモは刈る藻と書くのだとおもう。その村の人がいうのには,ある時、都会から人がきて息子が中学校に入学したお祝いに家族で船にのって島に行く事になったが岬のところで遭難したらしい。全員助からなかったという。なんでもその都会の中学校は名門校でトップクラスの子しか入れなかったそうだ。、その悲しい話は、当時の私にはとても怖くって、こわくって、胸がいっぱいになった。

 初島駅の次が箕島という大きな駅で高校野球で有名なところだ。夏、高校野球が始まって箕島商業などという言葉を聞くと大きくなってからもなつかしく思われた.初島からずうっと北のほうに紀三井寺がある、西国2番の札所で、観音霊場として名高いところだ。

 ある日、母が行こうと言ってみんなを連れていってくれた。紀三井寺の駅を降りて、真夏のカンカン照りの道を歩いているとき、なぜか母を怒らせてしまった、兄や、姉がいうことをきかなかったからだと思う.母は一番小さい弟をおんぶして汗をいっぱいかきながらどんどんと歩いていってしまった。私達はおいてきぼりになったのだ。仕方なく母の後を追ってトボトボと歩いた、どうしたものかと不安の心一杯で。
(追記、兄や姉がいうことをきかなかったからだというのは、おぼろげな想像でしかない。)

子供達だけで母をさがして歩く心細さといったらそれはそれはたまったものではない。 しかし、そう感じていたのは私だけかもしれない。私は自分が心細いという以上に、母が心配だったのだ。日ごろの母の働き、精一杯の心遣い、私達へふりそそがれている愛情はいつも全身で感じとっていたから、その母がかわいそうでならなかった。

 しばらく行くと、茶店があった。そこで母は床机に腰をおろして、おダンゴをたべていた。 そして、涼やかな声でいった「この子らにも、おダンゴをくださーい。」。 真っ青な空、水平線からモクモク立ち上がる入道雲を眺めながら、松林の間にムシロを敷いて宿題をした。それがすむと、たちまち水着に着替えて、海で戯れる。そうして、お昼寝、行水、西瓜を食べて花火をする。ありきたりの夏の風物詩だが、私の思い出は、夜寝るときもずうーと間断なく頭の上をザブーン、ザブンと、波の音、海の響きがとどろき渡ることであった。

  和歌山での生活が、どれぐらいの日数だったのかわからない。殆ど夏休みをそこで過ごしたようにおもう。父は仕事があるので時々来ては、子供達が喜んでいる姿をみて、また帰って行った。 こんな夏休みを毎年持ちたいと、皆、心のうちで思っていたから、暗黙のうちで約束はなされていた。 しかし、それはその年だけの思い出だった。次の年、太平洋戦争が始まって日本は激動の時代に、突入していった。

夏休み、子供達に避暑生活をさせたことが、父や母にはとてもうれしかったことだったし、生涯を通じて、一番盛んな時ではなかっただろうか。父や母のことを思うと、悔いを伴ないながらも、自分の幸せの深さをしみじみと感じるのである。

その時、父は43才,母は35才であった。