駒ケ岳

2002年8 月25日 記

 木曾駒ケ岳(2956m)に行ってきた。

 駒ヶ根からバスでしらび平まで行けば、そこからロープウエイで一気に1000mも上ることが出来て、駒ケ岳や宝剣岳の頂上の真下に広がる標高2612mメートルの千畳敷カールに着く。
私のように足の弱いものにとって、高い山を味わうことの出きる絶好の場所なのだ。

 6月に予定していたのが台風の為延期され、7月のその日もまたまた台風によって8月に延期されたのだ。3度目の正直で待望の駒ケ岳に行くことができた。

  山が好きだといっても、それはただ「山を見るのが好き」というだけの単純なもので、人様の前で言えるものではないが、旅をした時は車窓から山を見る。姿が見えた時から、見え無くなるまでその姿を楽しむのだ。
 飛行機に乗っても眼下を見下ろして真上からの山を楽しむ。

 私が知っている「こまがたけ」は木曽駒、甲斐駒にはじまって会津、山形、北海道、箱根、新潟県にもあるし、全国ではまだまだあるだろう。

 北海道の大沼公園のそばにある駒ケ岳は長万部のほうから、内浦湾をはさんで良く見えるし、その美しい裾野は海に吸いこまれるように長く引いている。

 甲斐駒ケ岳は、ずっと以前に、東京から中央線に乗って松本に行く途中、甲府を過ぎてしばらくすると、左手に南アルプスの峻烈な山並みが見えてきた。真夏の強烈な太陽を浴びて、真っ青な空にそそり立っていた。それはものすごい美しさだった。夢か幻ではなかったかと今でも思う。何故なら、それから何度か同じ道を通ったが、そのすごさには遇っていない。

  千畳敷カールから、南アルプスが一望に見渡せた。
3000m級の山々が連なって、甲斐駒も北岳もよくわかったし、農鳥岳と塩見岳の間から富士山も勇姿をあらわしていた。私は俗に言う「晴れ女」で、いつも天気に恵まれるのだが、特に山を見に行った時は、山の方から「見て、見て」と叫んでいるように感じるのだ。そしてその美しい姿を余すことなく見せてくれるのだ。彼等は、私の心の琴線がどんなに感動で打ち震えているかをよく知っているのに違いない。

 

  登山の出来ないヤワな私でも、この高所から四方を眺めていい目を味わえるのは、バスが通れる道やロープウエイを人間が造ったからだと思う。それを利用した者が、こんな事をいうのはおかしいが、私はバスやロープウエイに乗っていても、本当のところ山が「痛い!」と悲鳴をあげているように感じてならないのだ。
 一方、この工事はどれぐらい大変だったかしらと、その労苦も思う。 人間は自分たちが便利なようにどんどん開発していく。自動車道やダムでどれだけの自然が形を変えていっただろうか。そして、こんな事はいつまで続くのだろう。

 NHKの番組で地球温暖化「大気の売買がはじまった」というのを見た。生きるのに必要な空気を確保しなければならない事態になってきているという。自分たちが豊かで、便利な生活をしょうと思ったら、それに見合うだけの事をしなければ、地球は滅びに至ってしまうのではないかと思う。

 私に出来る事?…「もったいない」ことはしないこと。
昔の日本人がそうであったように、ものを大切にすることを基盤とした生きかたをしっかりと反芻したいと思う。

 わたし達の山、六甲山は今日も青々と元気に輝いていた。