子には子の

2001年3 月4日 記

子には子の幸せのあり菊薫る

  母の句である。母は、晩年ずっと俳句をたしなんでいた。というより、かなり苦吟していて、句会の前は「お父さん何とかしてください。」と父に助けを求めていたのを知っている。でも、たくさんの句ができて、父の絵と母の俳句で本を作った。父の77歳のことだったので、題は「喜寿」とした。
 父は、若い時から、絵(日本画)を習っていた。月に一度は先生が家に来てくださっていた。私は小さい時から、座敷に敷物をしいて、その上に紙をひろげて絵をかいている父の姿を見ていた。展覧会にもたくさん出品していたから、趣味ではあるが、それなりの域に達していたのかも知れない。

丸木橋妻いたわりて紅葉散る

父の作である。これは両親が二人で平湯温泉に行った時、写生した作品の画賛に入れた句である。父はお酒も飲まず、タバコも吸わなかったから、絵を書くことは無上の楽しみだったと思う。平素は仕事に精をだして大勢の人を使って事業を発展させながら、余暇を見つけて旅に出て、写生をし、温泉に入って極楽を味わっていたのだと思う。
老境に入っても、日本南画院に大作を出品したりして、かなりエネルギッシュな創作活動をしていた。母はその夫によく添っていたのだと思う。

絵の趣味に生くる夫に栗をむく

夫の絵の壁にかかれり暖炉燃ゆ

 平成3年3月4日、母は亡くなった。今日は祥月命日である。母の看病に病院通いをしていたのがなつかしく思われる。もう、命が旦夕に迫ってきて、目をつむり、ものもいわずにベッドに横たわる母に、なすすべも無く「何をしてあげてらいいのかしら、」と思案にくれて娘に聞いた、娘は、「俳句を読んであげたら」という。「きっと、おばあさんは分ると思う」とのこと。
 ピンクの蕾をたくさんつけた桃の枝に菜の花を添えて、母の枕頭を飾った。二人だけの静かな部屋で私は母のノートを広げて、万感をこめて朗読した。 

谷の水うまし老鶯ほしいまま

結願の生駒詣での雪に遇う

語ること語らざること火鉢抱く

手の甲の日焼けて孫の砂遊び

来るという短き便り冬日和

 そこには、たくさんの句が並んでいた。私の知らないものばかり、どんなに拙い句であっても、それは母そのものであり、母の生活があり、息づきがあった。そして、思い出があった。

会釈して桜の道を別れけり

新涼の大樹によりて絵筆とる

吹き競う口笛どれも早春賦

  私には8人の兄妹がある。その中で私は、とりわけ両親に心配をかけた。
小さい時から体が弱かったので、病気ばかりしていたし、成人してからも、親の心を安らかにさせることはできなかった。それは、私の願いとは正反対のものだった。「何故?…どうして?」神仏に問いただしたいことばかりだった。冒頭の句、「子には子のしあわせのあり、菊薫る」は私への母の心境を詠んだものだった。今、私は母と同じ境地にある。これが人間の業(ごう)というものなのだろうか。

句を作り菊をつくりて幸せに  マサエ  (母の名)