色即是空

2001年12月5日 記

 11月の終わり頃から、ぼちぼち喪中ハガキが送られてくる。
今日も何通かの郵便物のなかに、旧友のご主人の名前で喪中の挨拶が書かれてあった。
そこには、Sさんが今年4月に亡くなられたことと、生前のお礼が自筆で丁寧に書かれてあった。
 「えーっ!」 青天の霹靂とはこういうこと、思いもよらない知らせであった。

  かの高名な筑波大学名誉教授のI先生の門下生として、同じ釜のメシを食べながら 「書の道」 を30年も歩んできた仲間であった。師の厳しい指導を受けながらお互いに励まし合い、いたわり合ってきた同志であった。展覧会にはどれだけ出品しただろう。指折り数えては手が何本あっても足りない。東京の上野の森美術館では、毎年の夏、社中展が開かれたし、奈良の文化ホールでは選抜展があったし、年に何回かの公募展にも追われ追われて、作品を創りつづけた。その間に練成会の合宿もあったし、中国旅行も2度3度と行ったし、文字通り寝食を共にしてきた友であった。
 
そのSさんが、今は幽明境を異にして彼の地に行ってしまわれたのかと、ここ数日来の気の晴れないできごとは、フッ飛んでしまって、「死」 の大きさに圧倒されてしまった。それと、過ぎ去った年月の重さにも潰されそうだった。私は阪神大震災で家をなくし、書道の道具や、資料を散逸してしまったので、それ以来 「書の道」 から離れていたのだった。

 今から、20数年前のことだが、私は慾深く 「かな」 も別の先生についていたので、その社中から奈良の東大寺に写経に行くことになった。写経が終わったあとで管長さんがお話をしてくださるという。これは千載一遇のチャンスだ。かの高僧にどうしても聞いてみたいことがあったので、躍る胸を抑えながらその日を待った。

 当日、管長さんはお話の後、「質問はありませんか?」 と穏やかな顔で見渡された。
私はさーっと手を挙げて、「人間は何のために生まれてきたのですか?」 と、積年の疑問を投げかけた。管長さんは、「そんなことは分りません、誰にもわかりません。おじいさんやおばあさんも、わからんまま死ぬのです。」 と答えられた。

「ええ…っ、そんなこと…。」 私は心の中で絶句した。
考えられないことだった、人はみな年を重ねて立派な人格者になり、高い境地で行い澄まして、大往生するものとばかり思っていたのだ。40才代だった私にしてはかなり幼稚な思い込みだと思うが、かの高僧の答えはとても衝撃的だった。

 日本宗教界の最高峰、東大寺の管長さんのいわれたような、「なにもわからぬまま死ぬ」 という、そのおばあさんになった現在、だんだんそれが分って来たように思う。もがいても、迷っても、手は虚空を掴んでいるだけで、確かなものは何も無い。すべては空しいものだと、虚無的な行動をとれば、もっと深みに陥るだけだから、「何もわからないまま」 でその日その日を、精一杯、生きることにしている。

 仏様はわれわれ衆生を救うために 「五劫思惟」 されたという。「劫」 とは、長い長い年月のことで、それから見れば人の一生は 「まばたき」 を一回するだけの間といわれる。
その、まばたき一回の短い命を、いとおしんで大切にしたいと思っている昨今だ。

 Sさんの今年の年賀状 (平成13年) は 「健康の尊さが身にしみました。七転八起」 と書かれてありました。きっと充分に命を燃焼させられた一生であったと思う。いのち輝かせて彼の地へいかれたSさん、安らかにお眠りください。さようなら。