校長先生

2001年11月10日 記

 11月半ばというのに、もう、冬のような寒さが襲来してきた。
その年、その年によって、様子が違うのもおもしろい。去年、あんなに真っ赤だったドウダンツツジは、今年は色も染めずに、葉を落してしまった。

 多分、この位の寒さだったと思う。私が小学校六年の時、歩いて生駒山に登山することになった。太平洋戦争の、さなかのことである。何処に行くのも徒歩か駆け足だった。

 生駒山は、大阪の東にあり奈良県との境にある。私の家からは良く見えた。朝、二階の窓から朝日が昇ってくるのを、何度、眺めたことだろう。生駒山脈の稜線に、ポツンと小指の先ほどの朱が現れて、忽ち、ぐんぐんと大きく広がって昇っていくさまは壮観だった。
 大阪市の東にあっても、学校から頂上まで往復と言うのは小学生にとってかなり厳しい。しかし、その当時の子供達はそれをやっていた。私の兄は、中学生だったが、橿原神宮まで、重装備で往復40キロを、行軍していたのを覚えている。

 奈良街道は、東に向いてまっすぐ伸びている。私達は、その道を生駒山に向けて歩いた。標高は「虫に。」642メートルと教えてもらっていたから今も忘れることはない。
麓から、だんだん山道にさしかかる頃になると、気温が低くなって足元には、霜柱が土や枯れ葉をもちあげていた。それを、サクサク踏みしめながら登っていった。

 私達の小学校は、新しく出来た学校だった。新築の木造校舎はとても美しかった。校長先生は、それだけに大きな抱負を持って、着任されたのだと思う。先生はみずから掃除をされるのだ。それもトイレを毎朝、掃除されるのだ。どのトイレもなめるようにきれいだった。生徒も右へならえで、廊下は米ぬかで磨き上げてピッカピカだった。
 校長先生は、掃除だけに限らず、何事も率先して範を垂れるという人だった。生徒の中に入って一緒に行動する熱血先生だった。
私と姉はアダ名をつけていた。それは、「シャケ」(鮭)だった。顔が似ていたからだ。家では「シャケが…」、「シャケが…」という会話をしていたが、二人とも充分に尊敬と親しみを持っていた。

 生駒山は、大阪平野に面している西側は傾斜がきつく、東側は、なだらかな勾配らしい。私達はその、急斜面の山道を喘ぎあえぎ登った。
だんだん体力の限界に近くなってきた。私は朦朧とする頭の中で考えることがあった。それは、出発の時から気になってったのだが、校長先生が、大きなリュックサックを背負ってられることなのだ。それも随分重そうな…。食糧の乏しい時代のこと、各自は軽い簡単なお弁当を持っているだけで、背中の荷物はきわめて小さかった。「校長先生はなにを担いでいではるのやろ?」

 列も乱れ、1人1人が自分の体力に合わせて、ばらばらになって登った。最初の登頂者からどれぐらいかかっただろう。みんなが揃ったときの喜びは格別だった。頂上はかなり寒かった、途中でかいた汗も冷たくひえていった。しかし、大阪平野が一望に見下ろせた。市内は工場が多いから、少し煙っていたが、歩いてきた奈良街道は白い帯となって横たわっていた。

 お弁当を済ませた頃、校長先生は、やおら、リュクサックを開かれた。そして、氷砂糖を取り出して、一粒ずつ生徒にくださった。ああ、その甘いこと、久しく食べたことも無かった氷砂糖を、口にして、どれだけ皆が喜んだことか。疲れた体にしみとおる甘さと、先生のやさしさが体も心も暖かくしていった。

「校長先生、重かったやろうなー。ありがとう。」