No.113

邂逅(かいこう)

 2000年12月21日 記

 
 
 秋になると、我が家の玄関に、父が書いてくれた高雄の色紙を額に入れる。ずーっと以前、今から50年も前のことを、なつかしく思いだす。
 
 秋のある日、私は友達と京都の西北、モミジの名所である高雄に遊びにいった。はじめからそこに行くと決めていたわけではない。阪急電車に乗り、周山街道をバスに揺られて高雄に着いた。かなり遠かったようにおもう。神護寺におまいりして、かわらけを、谷底に抛り投げて遊んだあと、清滝川に沿って山道を、槙尾、とがの尾の方に向かって歩いて行った。その頃は、モミジを楽しむ人がそんなにいなかったので、閑静な山の中を川の水音を聞きながら、赤や黄色に染まった木々をゆっくり楽しんでいた。 

高雄


 何気なくフト目を移した先に・・・?あれは・・・・・?お父さんではないか「おとう―さ―ん」。「お父さ―ん」大声で呼んでみた。父は、道路からずっと下を流れる川の向こう岸に座って、ひとりで写生していた。膝に画帖を広げて、朱塗りの橋に向かいあっていた。その時の、父の姿は私の脳裏に鮮やかに一枚の絵となってインプットされている。
 
 こんな人っ子ひとりいない山中でめぐり合うなんて、父が、高雄に来ていることなど全然知らなかったし、まるで夢のようであった。父も驚いて「おー、どうした?」などといって、この不思議な出会いを喜びました。これは邂逅(かいこう)以外のなにものでもないと、とっさ思いました。「邂逅」は広辞苑によりますと「思いがけず出会うこと」とあります。が、仏教では前世からの縁によってめぐり遇うことといわれます。神仏のお力を感ぜずにはおれないのです。この世で出遇ったことをこんな形で分からしてくださったのです。
 
 父は絵の先生達と写生会できていて、それぞれ好きな所で書いていたのでした。その日は、清滝で泊まるらしく私はそこで別れました。
  
 夕方、家に着いて、食事を済ませて二階の物干し場に出て、大変なことを、発見した。私の家の隣は、(私達の家は今里新地と言う色町のほぼ真中にあった。堅物の父がそんな所に家を建てるはずがない。まだ何も開けてない大阪の町から外れた今里という所に家を建てたら、その後、そういう町になったという。)今里演舞場という、芸者さんが踊りや、長唄を披露する大きな劇場であった。隣と言っても、建物の間は10mぐらいは空いていたと思う。 その演舞場の二階の庇から、モクモクと煙がふきだしていたのだ。「火事だ。」その当時はダンスホールになっていたので、一階では沢山の人が踊っていた。
私はすぐに東隣の家に駆け込んで、おばさんに消防署に知らせてくださいと頼んで、重要書類の入っている箱を預けた。父は高雄に、母はお寺に行って留守だった。兄も姉も結婚して家にいるのは私が一番の年長者だった。

 頭はよく回転した。次に何をしたかというと、一番小さい妹を、道路の向かいにある大きな公園の夾竹桃の根方につれて行き、そのすぐ上の弟にどんなことがあってもここで妹をみているようにと、しっかりと頼んだ。これでよし。

 その頃、消防車のサイレンが鳴り響いてきた。次々と、到着する消防車に駈けよって、私はホースを我が家と演舞場の間に入れてくれるように頼んだ。町会長にも協力をお願いして頼んでもらった。何台もの車からホースが出され我が家の方から、火事場に向け放水された。もう、火は紅蓮の炎と化して夜空を焦がしていた。二階の窓を明けると目の前の公園は見物の人で埋まっていた。誰もが隣が燃えるのは、必然と思ったことだろう。私は万一をかんがえて、二階の窓から火事場の馬鹿力で布団や衣類を投げ下ろしていたが、心のどこかで、類焼はまぬかれると思っていた。父や母がいない間に、家を焼いてなるものかと強い決心があったからだ。

 三時間ほども経っただろうか、さしもの火柱も鎮まった。1人の人身事故もなく周囲への延焼もなく収まった。発見が早かったのと、風がなかったからだと思う。その火柱は大阪のかなり離れた住吉区、港区の方からでも見えたという。巨大な建物は生き物のように横たわっていた。慣れ親しんだ演舞場の終末はとても寂しいものだった。

 翌日、父が帰ってきて、「表に縄が張ってあるが、どうしたのか?」と、穏やかな声で家族に訊いた。みんな口口に状況をいった。私は父にあんな体験をさせなくて良かったなという思いと、人知の及ばない大きな配在を知ることができた。
 
 朝、家を出て、高雄で父と会いモミジに堪能して、帰宅後の、一生一代の火事場での働き。
一生で一番、長い長―い一日ではなかったろうか。