No.112

祈りよりもまずは学びを

 2021年10月20日 記

 
 この静謐に満たされた秋の日にペンを執りました。
私が永い間読ませていただいた「在家仏教」という月刊誌が刊行できなくなって、続いて「在家仏教協会」が閉ざされることになりました。それは令和3年3月のこと。昭和27年(1952)に設立されて69年の歳月でした。
これが世の流れなのだ、諸行無常ということなのだと感無量の自分を得心させようとしましたが、まず思っていることを書いてみることにしました。


さくら桜 2022.3.3

 この会は戦争が終わって、世の中が混乱している時に、正しい宗教、思想的にも支えが必要と思われて、当時の志を同じくされた先生方によって立ち上げられました。加藤弁三郎先生、増谷文雄先生など。そして「在家佛教」という月刊誌が出版されることになりました。私の父がこの本を読んでいたので、我が家にも送ってもらうようにしました。実家も我が家も浄土真宗です。在家仏教協会の信条に「在家生活のまま仏教に生きようとしていること」とありますから宗派は問いません。

 私の楽しみは講演会でした。立派な先生のお話が聞けるのです。場所は協和発酵の会議室などで、このように企業の協力が大きな力だったのですが、だんだんと社会の様子が宗教から離れるようになりました。家族関係も大きく変わって、縦の線が弱くなりました。社会のありようを見ていますとこの大きな流れはよくわかります。悲しいことでございます。

 私は大阪会場に行っていましたから、比叡山の小林隆彰、薬師寺の山田法胤、知恩院の水谷幸正、花園大学の西村恵信先生などたくさんの先生方の講演を聞かせていただきました。メモを取って、一生懸命に聞きました。それはとても幸せな時間でした。私のように学の無いものでも聞けるのですから、先生方は分かりやすく平易にお話くださっていたのです。

 道元禅師が著わされた「正法眼蔵」の中から、選び抜かれた「修証義」という本があります。いちばん最初に「生を明らめ死を明らむるは佛家一大事の因縁なり」とあります。生死の問題を明らかにしていくことは、人間にとっては最重要の課題ですとのこと。この言葉を目にしたとき、「やっぱり」と深くうなずくことが出来ました。私にとって一番大きな人生の課題でしたが、仏教は全く霧の中、何もわからないので、少しずつでも学んでいきたいと思いました。世の中では「生死の一大事」は論じることもなく、それは希薄な問題にすぎませんでした。

 ずっと以前のこと、東大寺の清水公照管長のお話を聞くことがありました。管長はお話の後、なにか質問がありますかと尋ねられました。
私は「人間は何の為に生きているのですか?」と。
管長は「そんなことわかりません。」「誰にもわかりません。おじいさんやおばあさんも、何もわらかないまま死ぬのですよ」と、答えられました。
かなり打撃を受けました。じゃあ人間は一生をかけて何をしているのだろう?との思いが深くなりました。

 比叡山の小林先生は、よく三世のお話をされました。人間は前世、今世、来世を考えて物事をする。それが出来ないと動物と同じである。昨日があったから今日生きている。今日は明日のため。三世をひっくるめての今日である。近ごろは先祖をまつらなくなった。自分のことばかり、一番怖いのは自分であるとも申されました。また、「この世へ何しに来たのか?」と。「いつでも他のために生きる」と、しっかりした目的を持つことです。と教えられました。

 在家仏教教会を起こされた協和発酵の加藤弁三郎先生は、東大の宗教学者である岸本英夫先生が病気になられて、「来世を信ずることはできない。私には理性がある。その誇りで死んでいく」と言われたことに、反論されて、「私は仏教の諸法無我、諸行無常の道理をほんとうに誤りのない道理だと確信しています。あなたは来世を信ずることはできないとのことですが、人間には生まれる前からの無限の過去があります。人生は旅である。帰る世界があります。来世のことは分からぬとしても、生まれる前を考えたことがありますか。私には死んだあとより、過去世の方が深い思惟をあたえてくれます」といわれました。

 芦屋川のほとりに芦屋仏教会館があります。
昔々、私はよく聴聞に行きました。小さい子供をおんぶしてネンネコを着て、後ろに立って聞きました。私には寸暇を割いてでも吸収したい、仏の教えを胸に入れたい思いがいっぱいでした。ある時、浄土真宗の桐渓順忍先生はお話の中で、「みなさまは阿弥陀如来のお顔を見たことはありますか。仏のお姿をイメージすることは難しい。自分の親を阿弥陀様としたらいいのです」と 教えていただきました。これは大きなことでした。
私にとって「仏」とは、阿弥陀如来であり、時には両親でもあるのです。両親が亡くなって30年以上も経っていますが、一日として親のことを忘れた日はありません。いつも見てくださっているのです。

 人間はどうしてこの世に生まれたかは、本人の渇望によると、お寺(たしか薬師寺だったと思う)で聞きました。そんなに渇望して生まれたのに、生まれるとすぐ大事なことを忘れて、目の前のことに心を奪われてしまって、あたら一生を空しく終えてしまうとのことです。
 
 十数年前に立山に行きました。翌朝、日の出を見るコースをとって、後立山連峰から昇る朝日を待ちました。あたりは3000メートル級の山に囲まれている黒部平です。真っ暗の中でじっと待ちました。山の端にピッと赤い頭が出ると、忽ち光り輝きました。ご来光です。光は金色の筋となって天空を覆って限りなく広がっていきました。私たちは自然に手を合わせました。畏敬の念をもって大自然の輝きを拝しました。阿弥陀如来の山越えの御来迎のようでした。

 近ごろ私は「神」も「仏」も大宇宙の真理であると思うのです。偉大なる宇宙の真理であって絶対的なものです。山も川も、木々や小さい花も、動物や虫たちも、生きとし生けるものはみんなその中で棲息しているのです。そして大きな恵みを受けているのです。

 在家仏教界会の信条の一つに
「釈尊の説法の内容そのものは永遠の真理であるが、それを大衆に知らせる手段は、時と処と人とに応じ、つねに新鮮でなければならないと信じていること」
というのがあります。仏教はお葬式や法事をするもので、死んだときお世話になるものだと、イメージしている人が大方でしょうか。それが僧侶の主な仕事になっているようです。私達はただお経を聞いて南無阿弥陀仏と手を合わせるだけでは、どこか釈然としないものがあるのです

「今を幸せに生きられるように」というのが宗教の一番の眼目だと思います。
「人身受け難し今すでに受く、仏法聞き難し今すでに聞く」です。人間に生まれたことがどれほど嬉しいことか、そして仏法にご縁があったことがどれほど幸せなことか。「祈りよりもまずは学びを」というのは、「第二の矢を受けず」という配慮があります。まだ教えを聞かぬ人は苦しみを受けると、嘆き悲しんでいよいよ混迷する。それは第二の矢を受けることになる。すでに教えを聞いた人は苦しみを受けても、いたずらに嘆き悲しんで混迷することが無い。それを第二の矢を受けずということになります。先人の教えを学ぶことがどれほど大切なことかよくわかります。知らなかったことを知るよろこびは何ものにも代え難いものです。

 ある時、私は娘に話しかけました。
「西方に極楽浄土があるというが、私はこの世が極楽だと思う」と言いました。
娘は「私もそう思う」と答えました。親子で同じことを考えていたのです。うれしいことですね。
この美しい自然に囲まれて、四季折々を楽しみ、おいしい食事を頂いて、苦しいことがあっても、少し辛抱すればよいのです。これこそ極楽浄土だと思うのです。娘は、山に登るのが楽しみですから、大自然の中でもっと広大な極楽浄土を味わっているのだと思います。
 
 浄土真宗では「他力」を教えていただきます。「南無阿弥陀仏」と唱えるのは阿弥陀如来が向こうから唱えさせてくださっているとのことです。
他力とは阿弥陀如来の本願のことを言います。私たち凡夫を救わずにはおれないという願いです。私が大宇宙の真理こそが神であり仏である。と思うのはまだまだ未熟の極みです。高慢の最たるものです。自我をなくして、お釈迦様、親鸞聖人の教えに従っていきたいと思っています。

 曠劫多生のあいだにも 出離の強縁知らざりき
 本師源空いまさずば このたび空しく過ぎなまし
 
親鸞聖人が師の法然上人に感謝されての和讃ですが、その思いの深さに心の底から揺さぶられます。

 小慈小悲もなき身にて 有情利益は思うまじ
 如来の願船いまさずば 苦海をいかでか渡るべき
 
親鸞聖人の正像末和讃ですが、聖人は日本語でたくさんの和讃を作られました。お釈迦様が教えられたことを我々が分かるようになるまで、どれだけのインドの中国の日本の先人たちのご努力があったことか。ありがとうございます。

 人間に生まれ、日本の国に生まれたありがたさ。空の色、風の音を愛でながら、学びの日を重ねて行きたいと思っています。