No.110

碧空(語り部として)-15

 2018年7月26日 記

 
 1945年8月15日。終戦の日から73年の月日が流れました。
もう、太平洋戦争のことを体験した人は少しになりました。私はその一人としてやっぱり書き残せるものは、残したいと思ってキイを叩いているのですが、だんだんとぼやけてきた感じです。

紀淡海峡にうかぶ友ヶ島
紀淡海峡にうかぶ友が島(加太より望む) 2018.8.12  toshi

 私が生きてきた87年間を顧みて、本当にいろいろのことがありました。
満州事変、支那事変、大東亜戦争(太平洋戦争)子供の頃はほとんど戦争です。
日本人の男性は赤紙(召集令状)が来たら、自宅の前で挨拶をしてご近所の人に送られて、軍隊に入隊されます。戦死されると、英霊として静かな音楽とともに白い箱が、自宅に帰ってこられます。そんな様子でございました。

 昭和16年12月8日に始まった太平洋戦争は、大きく手を広げて国威高揚を煽りましたが、守るすべはありませんでした。ビルマやフィリッピンでの激戦が続き、アッツ島、サイパン島、グアム島、など、北でも南でも玉砕が続きました。海軍もミッドウエ―海戦などで大敗を喫しました。そして、各地での熾烈な戦いで敗色は濃厚となり、アメリカは沖縄を猛攻撃して、本土空襲を始めました。

 私は、女学校の3年生。勤労動員として工場で兵器を造っていました。兵器といっても資源がありませんから、紙と竹製のドラム缶です。天満の東洋紡績の工場でした。
どこの学校もカラッポだったと思います。勉強をしている時ではないのです。日本の国を守らなければならないのです。生きとし生きる日本人は必死でございました。

 工場で働いている時に、空襲警報が鳴ると防空壕に入るのですが、敵は焼夷弾を雨あられと投下します。忽ち、火の海となって周りは地獄となります。敵は低空で人間も狙っていますから、火の中をあちらへこちらへと逃げまどいました。夕方になって火がおさまったころ、友達同士で家路を急ぎましたが、もう町は灰燼に帰して、ホタホタと残り火が燃えているのです。犠牲者にはムシロをかぶせてありました。
そんな空襲を体験しても、翌日は工場を休むことなく働きに行きました。みんながそうでした。

けいとう 私は生まれ育った大阪が大好きでございます。東洋一の商工地といわれ、海に面した西側は煙がモクモクの大工場地帯でした。また中心部は商売が盛んで賑やかでございました。東は生駒山脈まで田園地帯でした。
その大阪も何回かの空襲で焦土と化しました。大阪湾まで見通せるような焼野が原となりました。「あーあー、大大阪がこんな姿に」と胸がいっぱい。

大阪市歌
  高津の宮の昔より 世々の栄を重ね来て 民のかまどに立つ煙
  賑わいまさる 大阪市  賑わいまさる 大阪市

 この歌は、運動会の時など行進しながら高らかに歌ったものです。大阪に自信と誇りを持っていましたから。

 本土の空襲は過酷なものでした。大都市だけでなく、地方の都市までも容赦なく焼き尽くされました。どれだけの人命が失われたことでしょうか。
そして最後は、広島と長崎です。
私は、この戦争を体験して思うのですが、「神はいずこに?」と。
罪なき人々をこれだけ虐殺し、すべてを破壊して、「許されるの?」と。

 終戦の日は、雲一つない紺碧の空でした。シーンと靜かに、鎮まりかえっていました。
日本国民の慟哭の日でございました。

 しかし、国破れて山河在りです。緑の山河が残っています。
さあー、国を立て直さなければ、14歳の私はそう思いました。きっとみんなそう思ったことでしょう。それに、外地に出征された兵隊さんや同胞たち、大変な苦労をされた人々を早く帰国させてあげたいと思いました。

 家を無くした人は、焼け跡に掘っ立て小屋を建てて住み、食べ物は、配給や畑を作って自給自足をしていたのでしょう。足元の一歩からしっかりと立ち上がっていきました。
これぞ、本当の力ですね。
帰国が始まって舞鶴の港に、引揚船が帰ってくるようになりました。軍服姿の兵隊さんたちが復員して来られた姿を、街角で見かけるようになりました。ご苦労様です。うれしかったですね。
  
大阪復興祭というのがありました。 
  大阪復興うれしじゃないか 花と咲くのも新大阪は 日本国中の花と咲く
  どんなもんや大阪 手直し 世直し ドンとどんとやれ  どんとやれ
 豊水梨
調べてみますと、昭和21年10月31日と11月1日の毎日新聞に記事があるということです。終戦の翌年に早くも復興祭をしているのですから、どんな勢いでみんな頑張ったのでしょうか。このうろ覚えの歌詞で、歌えるのは私だけかもわかりませんね。
 
  世の中は大きく変わりました。来年は天皇陛下が退位されます。想定外のことです。
そして、先日の「平成30年7月豪雨」と名付けられた災害でも、激甚災害になるほどの大きな被害を蒙りました。山国日本は、治山治水にもっと大きな力を注がなければならないと思います。美しい山々や川を大切に考えなければなりません。

 いつの間にか歳月が歩を刻んで、永い間生きさせていただいています。ありがとうございます。
地球の上に生息している喜び、日本の国に生まれたありがたさ、感謝いっぱいでございます。
どんなことがあっても、戦争は絶対にしてはなりませぬ。