碧空ー12 (語り部として)2015年8月15日 記 |
戦争が終わって70年が経ちました。考えられないほどの永い年月が過ぎました。
私はいつもこの「碧空」という題で、戦争の体験を書いています。今年で12回目。戦争の語り部として生きている限り書かずにはおれない気持ちです。 もう金属性のものも無くなくなっていましたから、紙と竹でドラム缶を作っていました。模造紙に糊をつけて1センチ幅ほどの竹を張っていくのです。私は模造紙をハサミで丸く切っていく仕事でした。ドラム缶の上下になる部分です。 時とともに、戦局は一段ときびしくなり、だんだん敗色が濃くなりました。ミッドウェーの海戦、サイパン島の玉砕、硫黄島の敗北、そして、沖縄への攻撃占領。いよいよ本土空襲がひどくなって来ました。もう仕事ができなくて、空襲警報が出ると防空壕に入りましたが、焼夷弾は雨あられと降ってきますし、機銃掃射も激烈です。女子供といえども容赦ありません。そして周りは火の海、真っ黒な雨の中をあちこちと逃げました。
東洋一の商工地と言われた大大阪も見渡す限りの灰燼となりました。もう、本土決戦が迫ったという時、郷里の富山に疎開している小学生の妹を見るようにとの父の指示で、私は富山に向かいました。それは忘れもしない8月6日
の原爆が投下された日でした。危険な汽車の旅をあえてしてでも大阪を離れることになったのです。ぎゅうぎゅう詰の列車は身動きもできないまま17時間、やっと富山に着きました。それは夜の12時、伯父さんたちは大へんびっくりされましたが、もう国内は大混乱の様相でした。
妹二人は、学童疎開をしていたのですが、場所が転々とするので、遠いけれど富山にと父が決めました。伯父のところにはまだ祖母も居て、父は安心だったのでしょう。
生きとし生けるものが、みんな空しく、悲しく慟哭の涙を流した ある月刊誌に次のようなことが書かれてありました。湯川秀樹博士が1949年にノーベル賞を受けられましたがその前年のこと、アメリカのプリンストン高等研究所に招かれた時、研究室に一人の老人が訪ねてきました。それはアインシュタインでした。「原爆で何の罪もない人々を大勢死なせてしまいました。許してください」と湯川博士の両手を握って泣かれたそうです。その姿に衝撃を受けた博士は世界の平和と核兵器の廃絶を訴えつづけられたのです。 1955年、イギリスの哲学者ラッセルとアインシュタインがすべての核兵器を廃絶することを訴えた宣言を出しました。その中に湯川博士も名を連ねておられます。その翌年、博士は我が国の原子力委員会の委員に任命されました。初代委員長の正力松太郎さんは、アメリカの技術を輸入して5年間で原子力発電を実現するという構想を発表しました。湯川博士はその性急さを疑問視して、自国の基礎研究を抜きにして、輸入技術への過度の依存に懸念を表明して、委員を辞任されました。
竹田恒泰さんが「アメリカの戦争責任」という題の本を出しておられます。
原爆投下にしっかり向き合わないで、まるで自国の方を向いて怒っている人が殆どです。
近ごろ、日本は戦争の方向に近づいているのではと、その声が高くなりましたが、私はそんなことはないと思います自分の国を守るために、軍隊を持ったから即、戦争と考えるのはおかしいです。安保関連法案でも反対ばかりしている野党にこそ、目を開けて欲しいのです。他国から攻撃を受けたらどうするのですか?この答えが欲しい。
アメリカが守ってくれると思っているのでしょうか?
私は憲法改正を理解し同調しています。 |