晩秋から初冬へ 

2013年12月15日 記

 
 このところの穏やかな日々。一年中でいちばん落ち着いた時候です。小春日和(こはるびより)というと陰暦10月頃の呼び名ですから今では11月になります。季語は冬です。地味で控えめでいて、おおらかな季節です。1年のあらかたを過ごし、来るべき厳冬の寒さを十分に感じながら、その狭間のひと時をしずかに味わう季節ではないかと思っています。
春の芽生えの頃と、この静謐の晩秋は「動と静」の対照的なものですが、私には大好きな季節でございます。



ペイント  大山暮色(枡水高原より)  2013.11.7 toshi

 月刊誌の「在家仏教」はもう何十年も購読している雑誌ですが、発行が昭和27年となっていますから62年も続いている月刊誌です。協和発酵の加藤辧三郎さまが仏の教えを広めるために在家仏教協会を創られたのです。
私は、「なむあみだぶつ」の家に生まれ、嫁しても同じく浄土真宗の西本願寺が本山です。しかし。永い長い生涯を通じて仏教のなにものをも知らないのです。聴聞がとても大切なことと知っていますから、お話はよく聴きに行っています。が、お釈迦様の教えに帰依しているのならもっと教義を知りたいと思っています。

 人間はこの世に渇望して生まれてきたといいます。強い「願」があってのことです。
しかし、この世に生まれた途端に、目の前の出来ごとに心を奪われて、自分の「ねがい」をすっかり忘れてしまうのです。悲しいことです。「好きか嫌いか」「得か損か」に振り回されて欲望のルツボで一生を終えるのです。愚かしいことです。どうしたら仏の教えに沿った正しい道を歩むことができるのでしょうか。もっとしっかり学ばねばと思いながら、「晩のおかずは何にしょう」「明日の会にはどの服を着ていこうか」などと現実の問題にあたら貴重な時間を使ってしまいます。

 在家仏教誌の12月号に「無常に生きる」と題して片山一良さん(赤穂 花岳寺住職)が
「人生は無常です。自己の無常を悟ることです。自己の無常を知れば、すべてを諦め、自ら迷うことも、後悔することもないからです。仏の教えは「なにものも変化する」という無常の一句に収まります。この諸行無常の教えは縁起の道理に支えられています。無数の縁によって、その生滅、変化があるからです。苦もよし、また楽もよし、無常を知れば鬼に金棒です」と書いておられます。

 すべてのものが変化することは、長い間この世に生を受けている私にはよく分かります。世の中の動きや人間のありようは流れるように移り変わっていきます。生老病死は人間の定めです。それを従容と受ける心が大切ではないかと思いますが、むずかしいことですね。理屈でわかっていてもどうしょうもありません。苦悩の中であれこれと考えます。これが煩悩というものしょう。「煩悩即菩提」とう言葉は、煩悩こそがそのまま菩提(悟りを開いたもの)にほかならないといわれています。



ペイント  大山の夜明けの曙光(Rホテルより)  2013.11.8 toshi


 浄土真宗の阿弥陀経を拝読しますと、極楽浄土の美しさなどを丁寧に何回も表現されています。西方極楽浄土におわします阿弥陀如来のおそばで、安穏に過ごせたらどんなにいいでしょう。しかし。
私は、ほんとうはこの世が極楽浄土ではないかと思っているのです。
美しい大自然の中で棲息している悦び、季節ごとに花が咲き、実がなる植物、空を見上げれば深い青空、夜のお月様、星座群たち、また、毎日、おいしいものを食して、おなかは満ちていて何も言うことはありません。

 先日のこと、秋の紅葉の木々の写真を見て、「私はこの世が極楽だと思うのよ」と娘に云いました。即座に娘は「私もそう思う。」と応えました。娘は山登りをしたりして、自然と接することが多いのでその目線で、この世の美しさを表現したのかも知れません。としても、母娘でこの世が極楽だと思えることはとてもうれしいことでした。

 白隠禅師の座禅和讃に
 衆生ほんらい仏なり 水と氷の如くにて
 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
 衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
 たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
と、いうのがあります。人間は水の中に居て、のどが渇いたと言っているのです

 比叡山の千日回峰行を2度も達成された酒井雄哉さまは、昨年亡くなられましたが、幻冬舎から出版された本は
「この世に命を授かり申して」という題でした。まだ読んでいませんが、その題名には、大きな視野に立った人間の智慧のまなざしが伺われます。己を低くして、謙虚に大いなるものに感謝されている言葉だと思います。私もこの世に命を頂けた幸せを深くかみしめたいと思っています。