ときの流れの中で 2013年9月15日 記
|
月は、昔からたくさん詩歌に詠まれてきました。 良寛さまに「月の兎」というお話があります。 人間が月に行くなんて、昔の人は考えもしなかったことでしょう。だから、こんな美しいお話があるのです。私もそのように月のウサギを見たいと思います。自然と人間がひとつのものであったのではないかと思います。大自然の中に人間が渾然一体となって生きていたに違いありません。近ごろは自然界が不安定で、次々と災害が襲ってきます。それも特別に強力なものでたくさんの被害を残していきます。その原因は人間が作ったものといわれますが、そうだとしたら、それに対処しなければ、想定外はまだまだエスカレートしていくことでしょう。
思いがけなくも、永くこの世のことを見てきて、一番の進歩といいますか変化したことは、インターネットとかケイタイとかのICT機器の普及ではないかと思います。本当に便利きわまりないもので、私も少なからずその恩恵に浴して生活しています。毎日、パソコンの前に座って旅行、料理、病気のことなど次々とネットを拡げて楽しんでいますが、かなりの時間を使っていてバカになりません。だれがこんな難しいものを考えだすのだろうかと思うことがよくあります。世の中には賢い人がたくさんいるものですね。 しかし、今どきの人はあまりにもケイタイに寄りかかっていませんか。電車に乗って周りの大半の人がうつむいて、ケイタイをいじっているのを見て驚いたことがあります。何、何コレ。異様な光景でした。車窓も見ない。人様も見ない。ひとえに小さい長四角の画面に吸い寄せられて心を奪われています。メールの返事が来なかっただけでも、悩むらしいですから、人間関係が難しくなりました。 人生って綱渡りのように危うく、不安定なものです。私はハチス(蓮の葉)の上に座っていると実感していますし、一瞬先が闇かも知れませんし、光かも知れません。何があるか予期することができないのです。
まして老いた者の一日は迷い、悦び、諦め、闘いであります。 |