碧空(語り部として)-10 2013年8月15日 記
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私が体験した太平洋戦争を書き残したいと思って、書き始めた自分史ですから、書き続けなければ意味がないのです。まだ指は動くし、体は動くし、何の不自由もありません。 NHKドラマ「八重の桜」を見ていてもそうですが、トップの判断が大切です。会津藩は官軍に攻め滅ぼされて、人々は体一つで地方へ落ち延びていきます。政治家であれ軍部であれ、指導者たちの責任は重いものです。 「国破れて山河あり」で、310万人という尊い犠牲者を出しながらも、この美しい日本国が残りました。復興のためにみんな働きました。太平洋に浮かぶ緑の島国は、元気な経済大国日本になりました。が、戦後教育の間違いと言われていますが、68年たった今では、あり余る物質と、気ままな自由に浸って、利己主義な風潮が強くなってしまいました。 戦中戦後を通じて、国民は「食べること」に大きなエネルギーを使いました。お米などは配給制でしたし、食糧は不足の極みでしたから、少しの空き地にもサツマ芋やカボチャ、ジャガ芋などを植えました。この食糧難というのはかなり長く続きましたから、栄養不足による病気、結核などはたいへん多かったように思います。戦中からの疲労と食べ物の不足が続けば病気になるのは当然のことです。「自給自足」という言葉を良く聞きましたが、当時は食糧を得ることに死に物狂いで頑張っていたようです。 私の家は、食品工場(クッキーの製造業)で、配給制のお菓子などを造っていたので、食糧事情は他の家庭とは違っていたかもわかりませんが、大勢の家族ですから、ナス、キュウリ、トマトなどの野菜を畑でたくさん作りました。 近県の農家へお米を分けてもらいに、これは「買い出し」といいますが、私たちは近鉄線に乗って、奈良県の天理、橿原方面に行っていたようです。大きいリュックを背負って満員電車に乗って、遠くまで足を運んでいたのです。衣類を持っていって、お米と代えてもらう物々交換のようなものですが、どんな計算をしていたのでしょうか。農家の娘さんがお嫁に行くのに着物が要るということで、お互いに必要なものが手に入るわけです。お金を払って分けてもらうことも多かったと思います。 今夏は特別な暑さのように思います。歳を重ねるとこの灼熱の暑さが耐え難たくなってきました。毎日、家事のみ。他のことは何もできません。怠け者のような気がしますが、これが歳相応というところかと胸におさめていますが。 綿の打ち直しができたら、布団のガワを敷いた上に綿を均等に置いていきます。ふちが薄くならないよう包み込むように折り返します。ガワをひっくり返して、10センチほどの とじ針でとじていきます。とじ糸というものは絹の太いもので色はたくさんあります。その布団に合うものを選びます。できあがった布団に敷布(カバー)を綴じ付けて終わります。むかしの主婦はこんな仕事もしていたのです。炎熱の中、首にかけた手ぬぐいで汗を拭きながら、厚い布団と格闘していました。できあがって積み上げられた真っ白な布団を見てその成果に満足したものです。 「昔の人はえらかった」父や母の努力がこの炎暑の中でまた甦ってきました。
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