富山平野

2001年7月25日 記

 立山連峰を見上げる富山平野は、父親のふるさとである。
冬は雪深いところで、人々の気質は、とても勤勉で忍耐強い。父は、その代表的な富山人であった。明治の終わり頃、世の風潮では、長男は家を継いで、次男三男は家を出て、立身出世をするのが夢だったらしい。一旗挙げて「故郷に錦を飾る」のが、男子の本懐だった。父は、それを成し遂げた人だった。父の人生は、また稿を改めてじっくり書きたいと思っている。ここでは、父のふるさと富山に私たち3姉妹が疎開していた時のことを綴ってみたいと思う。

 「思い出は夜行列車の音悲し、富山平野にかわず鳴く頃。」

 太平洋戦争が、いよいよ終わりに近づいたころ、小学生の妹2人は、集団疎開で奈良県にいたのだが、国内はかなり緊迫してきたので、危険を感じた父は、自分の実家にこの2人を預けることにした。まだ、祖母も健在だったので頼みやすかったのだと思う。妹は6年生と4年生だった。それは、昭和20年の5月頃だったと思う。食糧難のその時期のこと、実家に気兼ねもあったろうし、大阪から遠く離れた富山の地に行かせたその子ども達のことを案じて、私に富山に行って妹達を見てやって欲しいと言う。

 その日は、8月6日、広島に原爆が投下された日だった。何も知らない私は朝暗いうちに父に大阪駅まで送ってもらって、1人で、北陸本線に乗って富山に向かった。車内は立錐の余地も無い状態でひしめき合っていた。それぐらい生命の危機が目前にせまっていた。空襲警報が出て、汽車は何度も立ち往生をし、あえぎながらゴトンゴトンと前に進むのだった。夜、12時にやっと、富山県の石動(いするぎ)に着いた。そこから、支線に乗って父の教えてくれた福野という駅に降り立った時は、西も東も分らない土地で、漆黒の闇の中をドウドウと流れる川の音だけが耳に入ってきた。

 突然、、真夜中に訪問した私に、伯父一家はどれほど驚かれただろう。また、もう戦争が、断末魔の様相を呈していることを感じられたことと思う。母屋のひと部屋に3人で居候させてもらうことになった。妹達は元気で学校に通っていたが、私は、母親のように、妹の服を縫ったり、お台所の手伝いをした。富山に着いて、10日めに、天皇陛下のラジオ放送があって(玉音放送)、日本は無条件降伏をした。
 青い、青い空。深く透明な空を、キラキラと銀色に輝きながら1台の飛行機が西の方に消えていったのを覚えている。高度、1万メートルほどだったろうか。昭和20年8月15日のことだった。

 砺波(となみ)地方は、富山平野の西にあって、緑の波が、果てしなく広がっている稲作地帯である。一軒の家が大きく、高い杉の木に囲まれ、小川があり、まるで、城郭のようだった。どの家でもそうだと思うが、伯父や、伯母は田や畑で働いて、食事の支度は祖母がしていた。
 「とっ(敏)さま、とっさま。」とおばあさんが私を呼んでいる。行ってみると、お釜を竈の上にのせて欲しいとか、じゃがいもの皮をむいて欲しいとか、祖母は祖母なりに長男の家族に気を遣っていたのだろう。
 戦争が終ったといっても、すぐに大阪に帰れるわけではない。今までどおりの生活が続いた。

 祖母は、とても顔立ちのいい人だった。大阪弁で言えば「別嬪さん」である。誰もいない時、まっかうりや西瓜を「とっさま、早く食べて…」と一切れ持ってきてくださる。私は、誰もいないのを見定めてそれを、タンスの小引き出しにしまう。一番下の引出しは、そのために空にしてある。妹達が学校から帰ってくるとそれを二つに切って食べさせる。お姉ちゃんとして出来る精一杯のことだった。その小引出しは、それからも、煎り大豆やさつまいもや、柿などの隠し場所として、活躍してくれた。

    妹達は、学校でどうしていたのだろう。
疎開児童として、言葉の違いや環境の変化に、なじめず苦労していただろう。そうして、家に帰ってくるとそこで、二人の喧嘩が始まる。そして、大声で泣く。そうなると、温厚な伯父もたまりかねて叱る、それも厳しい。私達は、オイオイ泣くばかりだった。伯父夫婦も、良く出来た人だったし、いとこ達も親切だった。今も感謝の思いでいっぱいだ。
  ふたりの妹は、早くから学童疎開で、親元を離れて集団生活をしてきた。まして、食うや食わずの食糧事情のなかで、どんなにつらい思いをしてきただろうか。甘え、寄りかかる所は無い。小さな心を揺さぶられ続けてきたのに違いない。戦争という、大きな渦の中で、生きとし生けるものすべてが艱難辛苦を、担なってきたのだった。「早く、大阪へ帰りたーい」。「早く、お父さんや、お母ちゃんの所に帰りたあーーい。」それぞれが心の中で叫びながらその日を待った。

 しかし、私には忘れられない楽しい日々があった。それは秋になって、穫り入れが忙しくなったので「とっさまも、田んぼを手伝って。」といわれて、朝早くから、夕方、暗くなるまで、力いっぱい働いた。稲の束を一ヶ所に運こび、それを横になった長い棒に掛けて乾かすのだ。田んぼには、イネの切り株があって歩きにくいし、両手に重いイネを持って、重労働だったけれど、渾身の力をふりしぼって働いた。伯父のお役に立ちたいと思っていたからだが、”ハダシ”で土を踏んで、”ハタラク”ことはとても心地の良いものだった。それは、私の14歳の貴重な体験であった。

 庭にある10数本の柿の木が、たわわに実り赤く熟しはじめた頃、叔父が(父の弟)が、私達を迎えに来てくれた。夜行の貨物列車のデコボコした床に寄り添って眠った。扉の隙間から、夜明けの琵琶湖が光っていたのを覚えている。とうとう、大阪に帰ることが出来た。10月の終わりだった。