松原八幡宮秋季例祭縁起 (当地の大きな出来事)
嘉吉の乱 1441年 (室町時代中期の反逆事件)
1441年播磨守護の赤松満祐が蝦夷大将軍足利義教を自邸に招いて暗殺し、領国播磨に逃れたが
山名宗全ら幕府方討伐軍に敗れて
討たれるまでの一連の騒乱で一時的に赤松氏は滅亡した

応仁の乱(1467年〜1477年)
応仁の初(1467年・応仁元年)播磨を領していたのは赤松氏でした。
社領は千石千貫で境内は東西6丁南北2丁あり八正寺常光堂と
称する建物には赤松円心(赤松則村)の庇護する多数の僧兵を抱えていました
足利義満の死後、各地の守護大名の力がますます強まり、互いに争うようになった。
特に山名持家(宗全)と細川勝元との勢力争いが激しく、
これに8代将軍足利義政の跡継ぎ問題や畠山氏や斬波氏の相続問題がからんで、
1467年、応仁の乱が始まった。
東軍の細川勝元と山名持豊を中心とする西軍にわかれ、京都を中心に11年間も続き
各地の守護大名は領地の奪い合いで戦乱は
京都から諸国に広がった。赤松氏は山名氏と度々戦い、その兵火が松原神社に
及び建造物や重要な文化財などが殆んどその時鳥有に帰した。
後、赤松左京太夫政則が将軍義政に功労を認められ
再び播磨、備前、美間作の三カ国の領主になった
(この乱の影響で家柄よりも実力本位の戦国時代になる)。
このとき松原神社を再建。竣工式には米二百俵を寄進した。時の氏子は大変喜んで
盛大な竣工式を営み米二百俵をお旅山(八幡神社)
までかついで行列の供をした。これが松原八幡神社の屋台の最初と考えられる

三木城落城 1580年天正8年1月15日(城主・別所長冶自害)別所長冶は赤松一族
天正初め、秀吉の中国征伐の砌、播磨の領主三木城の別所長冶を征めた時、
別所長冶氏から度々松原神社へ援兵を請てきましたので、
数度の協議を重ねたが決定を見ず一部は別所、一部は秀吉の姫路、に味方、
一部は白浜の神社に残った。程なく、
別所長冶氏は秀吉に降りましたが別所長冶氏の敗残兵は長冶長冶氏を助けなかった
故を以って、松原八幡神社に火を掛けたので
建物、社宝の総てを焼かれた。秀吉、三木城攻めのとき再度焼かれる。
秀吉からは味方をしなかった故を以って、社領の千石千貫の総てを取り上げられ
神官の総てを神社より放遂した
(黒田官兵衛孝高の援助で社僧快裕が復興)以降、明治初年の神仏分離の時まで
松原八幡神社は僧侶が管理する神社となった。