砂漠都市の塔の、そのひそかな事件からさかのぼること数年前。

 この大陸の北方に位置する大国では、その時期、珍しいことに数日快晴がつづいていた。
雪どけにはまだ遠く及ばぬものの、こもりがちな家の空気を入れ換えるために窓を開けることはできたし、洗濯物を暖炉の前ではなしに太陽にあてて乾かすことの出来る、貴重な晴天でもあった。
 いつもは雪に閉ざされた石造りの街なみも、このときとばかりに窓や塀にとりどりに毛布だの絨毯だのを並べて干しているせいで、なかなかに彩りのよい、面白い具合になっている。
 その城下の街を見おろす高台の王城も、いかつい造りながら久々の晴天になにやらのびやかにさえ見えるのは、太陽の光と暖かさというものが、この北国の人に与える影響の大きさを物語っているだろう。
 年とらぬ国王の御座所である王城はなるほど大国らしい強大にして豪華な仕様になっている。高台の土地全てを堅固な城塞で囲い込んだ中は、まるでひとつの小都市のような格好だ。王の住まう本城、その隣に位置する大神殿を中心として様々な館や小宮殿やいくつもの塔、兵達の詰所にいたるまでを備えているのだ。
 たとえば王の警護の役割を果たすものとして、七人の聖騎士候たちのうち何人かは常に王宮の騎士宮で寝起きをしている。彼らはこの王城内にそれぞれ専用の館を賜っていて、任にある間は自由にそこで暮らしてよかった。武官に限らず文官達もあれこれのまつりごとの雑務に追われるので、身分のある者はやはり王城内で暮らしている。
 どちらにしろ彼らは己の仕事や任務には非常な名誉と責任を感じていたので、何かにつけてはこまめに王宮に出仕している。
 そうしてこの朝も――。
 聖騎士候の中でも最高齢で、杖の必要な老人であるその人物でさえも、朝早くから若い兵士達の気ままな、けれどかなり気合いの入ったその打ち合いを視察と称して眺めているのだ。



 七人の聖騎士候のうち、もっとも老齢なる彼は「老候様」と言う愛称で親しまれている最年長の聖騎士候だった。口の悪い若い者からは、親しみをこめて「じいさま」とも呼ばれている。ごくおだやかな人柄と皺深い柔和な顔つきからは想像も付かないが、若いころはなかなかの剛の者であったということであった。
 その「老候様」が見おろしているのは、白く大きな石畳の円形広場である。この王宮の一番外側にある練兵場のひとつだ。地面から数段の段差をつけて低く造られたそこでは、ちょうど若い兵士達がお互いに剣の腕を競うのに必死になっていた。
 階段状になっているその周囲では、次は我こそと出番を待つ者やとっくにへこまされてぐったり座り込む者、仲間の打ちあいにげきを飛ばす者などで賑やかである。
 老人はその円形広場をぐるりと見回せるやや高い位置に椅子を出させて座っている。少数のおつきの者を従える他は別に何の仰々しい様子もなく、ごく親しげに彼らを応援し、時には負けて落ち込む若者に次は勝てるよう精進しろとこまめに声をかけた。
 ごく若い、兵士達のなかでも下っ端のものがひととおり打ち合い終わると、次は隊長や上級隊長、騎士団長クラスのものの出番である。此方は誰も百戦錬磨の腕であるので、なかなかの見物だ。
 正式な闘技でもあるかのように場は緊張し、自分の騎士団の長が場に出てくると兵士達は野次や応援でさらに大騒ぎだ。
 またそれとは別の理由で、この老騎士の御前での試合には、野心を持つ若い騎士には今は大きな意味を持っているのだ。
 老人はその高齢ゆえに近く聖騎士候の地位から退くことが決まっていたが、まだその後継者は決定していない。軍部が強大であるこの北の大国において、その軍における地位だけは実力を重視して特に世襲制をとっていなかった。
 聖騎士候は地位の名で、特にどこどこの団を指揮するとは決まっておらぬ。もちろんその名を継げばそれなりの権力と大隊が与えられる決まりにはなっていた。
つまり軍部のどの所属の誰でも、ある程度の地位以上にあれば聖騎士候になれる機会はあるし、また王からの承認を得るためには引退するこの老人からの口添えが不可欠なのである。少しでも老人の目に留まろう、名を覚えてもらおうとする騎士達は、それこそ目の色を変えても仕方なかった。
 心地よい、しかし結構野心と打算の渦巻く緊張が続く中であったが、さっきから一人で勝ち抜き続けている青年にしてみれば何の感慨もないかのようだ。
 自分より年かさの騎士団長をあっさりいなして剣をかるがるはじき飛ばしてみたり、剣を使うまでもないと足で相手を転ばせてみたりと、熟練の剣士達が子供扱いだ。
 気難しげに結ばれた口元は凛々しく、男性的なパワーと魅力に満ち満ちていた。顔色ひとつ変えず、次々と相手をなぎ倒していくようすは、まさにみごととしか言いようがない。
 彼は騎士団の中でも特に独立した遊撃隊を率いる若い上級隊長で、剣を操り人の命を奪うことにかけては卓越した技術と才能をもっている。一個大隊を一糸乱れぬほど見事に扱う隙のない統率力と、特に彼が選び抜いた少数の精鋭たちによる攻撃力は、目を見張るものがある。
 彼ら遊撃隊は、傭兵出身のその上級隊長を初め、難民や平民出身の若い剣士達で構成されている。そのせいで貴族出身の気位の高い連中とはいろいろともめ事も多いようだったが、なにぶん剣で彼らに勝てる者が誰もいないのだ。貴族の連中がどれほど相手を貶めようとしても、質実剛健の軍隊では、剣の力がなによりものを言う。
 その逞しい、ほれぼれとするような剛剣の様子に老人は満足そうに目を細めながら、彼が座る椅子の傍らに寄り添う人影を軽く手招く。
 人影はほっそりとして多分に女性的な――優美な白い竪琴のような姿であったが、実は青年であった。
 かれは心得たように老人の口元に耳を寄せる。深い藍色の、不思議な色の髪をしていて、驚くほどたおやかな顔立ちをしている。
 長い睫毛に縁取られた双眸は色を同じくせず、片方は美しい満月のような金色だ。
 この魔道の王国、北の大地に時折生を受ける、『片金瞳』を持つ青年である。

「どうかなさいましたか、閣下」
 おっとりとした物言いの青年に、老人は優しく笑いながらほれほれと指を差す。
 満月の輝かしい中にも、ひっそりとさびしげな白銀色を織り交ぜたような片方の瞳が、老人の意図を正確に察した。
「真田でしょうか」
「強くなっておるの」
「――はい」
「おまえの言うたとおりであったな。礼儀のなっておらぬ傭兵風情よと、おいださんでよかった。未来を見る、その美しい瞳のおかげかな」
「先見などではございません、と申し上げておりますのに」
 青年は少し笑った。花がほころぶような微笑だった。
「うむ、強くなっておる。ああまでになると、さすがにもうおまえと戦わせるわけにはいかんの。……いやいや、ほんとうのことを言うと、あやつの、あのときの、ほれ、あのぽかんとした顔! あれをもう一度見たくはあるのだが」
「またそんな昔のことを持ち出して――閣下はそうやってすぐわたくしをおからかいになるのですから」
 困ったように笑む青年の美しさを満足げに見やって、老人は穏やかに笑った。
「なに、あれは見物であったよ。あの自尊心の塊が、あの夜は悔しくて一睡もできなんだことだろうよ。いや愉快、愉快」
「閣下……」
 青年もあまり強くたしなめる気はなかったが、今の一連の会話が真田本人に届いていないかどうか心配だった。
 当の本人はしごく真面目な顔をして、何人めかの相手をうち倒した後であった。
「真田めが、おまえに負けたのがよほど悔しかったんだろうのう。よう鍛錬した」
「あれは閣下もお悪いのですよ。幼いときから戦場を渡り歩いてきた者の目の前に、私のようなものが立っても強いなどとは思いませんでしょう。それは油断もいたします」
「見てくれで惑わされるならばあやつが青いということだよ――もうそんな愚行は、二度とするまいが。おまえにあれほど無様に負けたのだからなあ」
 そのときのことがよほど愉快だったのだろう。老人は楽しそうに笑った。
「このままなら儂の権限で、真田を儂が引退した後の聖騎士候に推してやれるかもしれんな。黒羽も天根も捨てがたいが、とりあえず今のところ第一候補は真田だ。うむ、ずいぶんと強くなった。剣の形も、作法も完璧で、もう何処に出しても恥ずかしくない。誰も傭兵あがりだなどと陰口もたたけぬだろう」
「よくご指導をなさいました」
「いやいや、あれの素質だよ」
 老人は満足そうに言う。
 その穏やかな様子にほほえみかけながら、闘技場の真ん中、息ひとつ乱さずに堂々と立つ若者の雄々しい姿にそっと視線をやる。


 真田がこの老人のもとにやってきたのは、五年ほども前だ。
 まだそのとき真田は当然ながらもっと年若く、少年の面影さえあったが、傭兵としてはもう既にその名も顔も知れ渡っておりちょっとした有名人であった。
そんな彼が、傭兵仲間とともにふらりと北の国に立ち寄り、そのころ老人の元で行われていた騎士団への登用試験に何を思ったか参加したときは、周囲はずいぶん騒ぎになったものだ。
 後に青年――幸村精市が真田本人から聞くところによると、単に「腕試し」の為だったらしい。名だたる軍事大国である北の剣士達はいかなものであるのかということのようだった。
 真田の若さを侮った由緒正しい家柄の騎士達やたたき上げの剣士達を次々とうちやぶり、勝ち抜いた真田の最終の勝負相手は――ほかならぬ幸村精市であったのだが。
『そんな格好で』
 真田は、そのときまだ確かに少年であったが、もうどこか油断のならない鋭い目つきをしていた。
 が、くるぶしまでの裳裾をひらりとひらめかせ、振るたびにすずやかな音がしそうな美しいレイピアを下げて幸村が眼前に立ったとき、さすがに面食らって嫌な顔をした。
『こんなひらひらした姿の女と戦えと?』
 食ってかかるように初老の聖騎士候を振り仰いだが、当の老人はにこにこと笑って、まあ戦ってみろとばかりに手を振っているだけだ。
『格好は関係ないよ』
 そう幸村に言われ、初めて彼が男性であることに気づいたようだ。
『衣装の具合で剣さばきが鈍ると思うなら、それは単に認識不足というものだね。でなければまだ』
『……』
『まだ君が子供な証拠だ』
 にこりと美しい貌で微笑まれたが、真田は言われた言葉の内容のほうにカッときてしまっていた。
『――俺よりお前は強いというのか』
『やってみる?』
『そんな頼りない剣で。――あとで泣いても知らんからな!』
 そうして打ち合ってみれば。
 真田は彼の人生で初めて、それはもう筆舌に尽くしがたいほど、屈辱的なボロ負けしたわけであったのだが――。


 そのせいかどうかは知らない。
 が、真田弦一郎はそれきり漂泊の旅をやめ、部下達とともに北の国にいついてしまっている。
 あっという間に昇進を重ね、傭兵時代の部下達を己の精鋭部隊に登用し、遊撃隊という華やかな、しかしもっとも危険な任務をいとも鮮やかに確実にこなしている。

 今日も、結局彼の一人勝ちであった。周囲に、打ち倒した騎士達をずらりと並べ、大剣をひとふりして堂々と佇んでいる。真田の部下たちも、次々に彼に打ちのめされていく腕自慢たちを当然とばかりににやにや眺めて、至極満足そうだ。
 確かに現時点で、彼はこの北の大国最強の剣士であるのだ。
「見事であったの、真田」
 老人から声をかけられ彼は黙って頭を下げた。寡黙な彼らしい。
「のう真田よ。おまえは、聖騎士候の地位に興味はないかな」
「――聖騎士候……ですか」
 いつもたいていのことには無関心の彼であったが、さすがにこれには反応せざるをえなかった。別段その地位の高さに、彼の虚栄心が疼いた、というわけではない。
 真田弦一郎は決して武一本やりの男ではなかったし、実質現在の軍部の最高指導者であるこの老人が何を言おうとしているか、正確に察したからである。言外に、それを与えてもいいという老人の言葉と意図するものとをはかりかねているようだった。
 真田のようないわゆる「外」の人間、貴族でもないよそ者の傭兵あがりに、とは、また反発の声も上がってくるだろうに。
 黙っている真田をどう思ったのか、老人はからかうように言った。
「おや、よもや聖騎士候では駄目か。その程度ではおまえのその腕には見合わぬと言うか――では、何が望みだ」
「――」
「なんでもいい。言うてみい。お前は儂の下に仕えながら、大変よく精進し、腕を磨き、立派な剣士に成長したぞ。少々のわがままを言う権利はある」
「――」
 真田は相変わらずの仏頂面で、ふてぶてしいほど落ち着き払ってその老人を見上げていた。が、老人の座る椅子の側で、どことなくはらはらした様子で彼を見やってくる美しい人影に目を留めると、ふと優しい表情になる。
「なんでも俺のわがままを聞いてくださる、と?」
「儂にできることならな」
 真田はしばらくの沈黙の後、きっと顔をあげ、しっかりと老人を見据えて言った。
「では、聖騎士候についてはご辞退申し上げる」
「――ほう」
「俺のようなよそ者、不調法者にはあまりに過分な地位だ。俺がそれを受ければ、余計な混乱がおこることも避けられぬ」
「――」
「決して老候閣下のご恩に背くものではない。今でも十分よくしていただいているし――それだけでも俺にはあまりある待遇と思っている。……が、しかし、何かひとつ望みを叶えてくださる、というのなら」
「――」
 真田は少しも揺らがず、臆することさえなく――いつの間にか、彼の一言一句を聞き逃すまいとして静まりかえっていた闘技場の真ん中で、こう言ってのけた。
「幸村殿を頂きたい」

「――ほう」
 老人の声は、うってかわって冷たくなっていた。
いや、多少面白がるような声音が混じっていたのだが、その場にいた他の誰も――幸村でさえもあまりのことに唖然としていて、老人の声は怒った者のそれのようにしか聞けなかった。
「これを、寄越せというか」
「いかにも」
「これが、儂の寵愛深い者と知って言うのだな」
「たとえ閣下が国王陛下であっても、同じ事だ。それ以外は辞退申し上げる」
 真田はきっぱりと言い切った。
 幸村が口を挟もうにも、昔日の胆力はまったく衰えておらぬ老人は、その若者の挑戦的な視線も真っ向から受け止めて少しも揺らがない。
 幸村があわてて老人に取りなそうとするのを、老人は優しい仕草で手を挙げ、下がらせてからこう言った。
「いや、しかし真田よ。よくきくがよい」
「――」
「なんの肩書きもない、軍を辞めれば食うにも困る、その日暮らしの男では安心してこれを預けられぬな。おまえも知ってのとおりこれはせんに病を患ってから、少し身体を弱くしておる。こやつの身の回りの世話人ひとり雇えぬ、ただの傭兵あがりの男のところに儂がやると思うてか?」
「――」
「大事に世話し、風にもあてぬように守るというならともかく――今のお前ではな」
「――」
 真田は黙って、表情ひとつかえず老人を眼光鋭く睨んでいる。老人も決して引かずにらみ返した。
「儂が今言うたこと、そうしてお前が口にしたこと、もう一度よっくその頭の中で、その意味を考えてみるがいい。……儂はこれにて下がる。皆、よい鍛錬の成果を見せてもらったぞ、礼を言う」
 そういうと老人は、傍らで心配そうに真田と自分とを交互に見やる幸村には、優しくほほえみかけるのであった。
「さ、精市。長くつきあわせて悪かったの。もう今日は館に戻るとしよう――暖かくして、今日は早く休めよ」


 その日から数日後。
 場所は城下街の少し郊外にある、老聖騎士候の館である。
 朝早くになにやらで出仕していった老候と入れかわりに、留守を預かる幸村に来客があった。
「ゆーきちゃーん」
 案内の小姓を追い抜いて元気に駆け込んできたのは、明るい赤銅色の髪をした少年だった。いや、もう年頃としては青年と言っていいのだが、顔立ちが丸く幼く可愛らしかったので、いつまでたっても年端のいかぬ少年のような印象がある。
「ブン太、いらっしゃい。――ほらほら、そんなに走るとまた転ぶ」
「おっとっとい」
 あわててその場で立ち止まる。
「この敷物、つるんつるんだから危なくね? 幸村も転ぶよ」
「その上で全力疾走する馬鹿者はお前ぐらいだからいいんだ」
 ゆったりとした動作で後から室内に入ってきた青年に言われて、ブン太とやらはぷっとふくれる。
「いらっしゃい、柳も」
「邪魔をする」
「珍しい組み合わせで来たね」
 目を細めて――いや、彼はいつもそのままなのだが――少し微笑む彼に、幸村は座るように促した。彼らは真田の傭兵時代からの仲間の一人で、幸村とは仲がいい。
 毛足の長いふかふかとした絨毯に、様々な形のクッションを幾つも背中にあてて直接座り、三人はごく低いテーブルを囲むような形になる。
「真田は護衛でかり出されているのでな。老候閣下から、俺達がおまえの相手を任されたよ」
「護衛?」
「ああ――俺はジャッカルに泣きつかれてこいつのおもりもかねて」
「俺かい」
「お前だ」
 小姓達から茶を受け取りながら柳はブン太をこづき、幸村には少し笑ってみせた。
「不二家の御嫡男が明日には王宮にあがることになるとかでな、あいつらはその出立ちの折の警護にいっている。不二家からあそこまで半日もかからんし、どうせ町中を通っていくだけなのに大げさなことだが。一応貴族というものの体面があるのだろうが、国王のお足元に上がるためのお支度やら何やらで、花嫁行列のような騒ぎだそうだ」
「――それはご苦労様だね。……でも、不二の家のご長男なら、まだ十二かそこらではなかったかい? 長男なら行儀見習いもなにもないだろうに、どうしてまた」
「なんでも"金瞳"の子の遊び相手だそうだ」
 花の香りのする暖かい飲み物で、唇を湿らせてから柳が言った。
「不二の御嫡男は今の"金瞳"とは幼なじみらしくて、ひとりではさびしいだろうからと、国王陛下じきじきの特別の召し出しだそうだよ――お支度金やら何やらを山のように下賜したとか」
「へえ」
「ご嫡男の方も、昔からお父君について王宮には何度か上がっているらしいからね。国王とも顔なじみになっているらしいし、何といって特別、大仰にするようなことはないと思うんだが。それにしても佐伯にしちゃなんだか気持ち悪い気の配りようじゃないか」
「こらこら」
 公の場ではともかくも、私的な会話では国王を呼び捨てにしてはばからないのは、真田に追従しているからだろうか。言ってなおるようならとうに治させているのだが、他に迷惑はかけないと真田もその他の連中も譲らない。
「まあ、それで老候閣下も今日は王宮にずっと詰めておられる。宴もあるし、たぶん今夜はお帰りにはならないだろうな。俺達は此処に泊まっていいと許可されている。幸村さえいやでないなら」
「もちろんだよ、喜んで。今日は一日ゆっくりしていってくれ」
「真田がいたらよかったのになあ」
 ブン太はけろっとして言った。幸村が内心どきりと鼓動を大きくしたのも、知ってか知らずか、たちの悪いほど無邪気なままだ。
「真田、こないだお泊まりに来たでしょ」
「うん、来たよ」
「何か幸村にお話ししてった?」
「何かって…いつも通りだよ。真田の子供の頃の話とか、いろいろ聞かせてくれる」
「それだけ?」
「それだけだよ。…ほら、少し前に俺がずいぶん長く寝込んでしまったおりに、真田はよく見舞いに来てくれただろう。その続きのようなものだよ」
「ふーん。あそこまで思いきったんだから、もう遠慮もなにもないだろに。あ、幸村、このお菓子食ってええ?」
「いいよ。ブン太、こっちにもあるから、これもどうぞ」
「わーい」
「ところで、思い切ったって何が」
「うん。いつかゆーんじゃないかと思ってたよ、俺」
「何が」
「真田がさ。ゆきちゃんのことお嫁に欲しいって」
「お嫁…」
 ぐらりと幸村の身体が脱力した。
 茶を吹き出すのをなんとかこらえたのは柳であったが、ひきつった幸村のためにフォローをいれようとする。
「それは……少し意味合いが違うのではないかな」
「違わないよーう、柳も知ってるじゃん」
 行儀悪く両手にお菓子を掴んで、ブン太は無邪気に言った。
「真田って、ずーっとうじうじうじうじ悩んでてさ。こんな男では幸村に相応しくないだろうかとか何とか、色々色々、本当によくもまあそれだけこじつけて悩めるな、ってぐらいゆきちゃんのことで悩んでて。いっときなんか凄かったよ、あのさ、こないだなんて柳生に真剣な顔して聞いてるの」
「――……」
「俺の顔は怖いか、ってさ。幸村みたいな優しい感じの者には、俺は恐ろしく怖い人間に見えてしまうのだろうか、って。柳生のヤツ、答えに困ってたよう。なんで突然そんなこといいだしたんだ、それでまたどうしてそんなことを自分に聞くのか、って」
「――」
「あ、これはますますゆきちゃんのこと、お嫁に欲しくてたまんなくなってるなー、って俺思ったから。だから、言ったの」
「なんて?」
 嫌な予感がしながら、幸村は聞いた。
「男なら一発、ここぞというときに宣言して決めてみせろい! って」
「――けしかけたのお前だったのかい、ブン太…」
 なるほど。
 それで真田は、『ここぞというとき』――聖騎士候の称号推薦に関するとても重大な話をしている真っ最中、よりにもよって皆が興味津々で見守っているどまん中で、実に単純明快にして単刀直入に、そんな称号はいらんから幸村をくれと『宣言』したわけだ。
(夜にこっそり相談に来るとか、あとでお話しがとでも耳打ちをするとか、そういう思考はあいつの中にはないのか――ないだろうね、ああ、ないんだろうとも)
 眩暈を押さえながら、幸村は思った。さらにブン太は言い継ぐ。
「幸村はどう思ってんの? 真田のこと嫌い?」
「嫌いなはずないだろう」
 困ったように幸村は笑う。
「ただちょっといきなりだったからびっくりして…」
「そーだろね」
 食べ終わった指先をぺろんとなめて、きらきらとした目でブン太は言った。
「じゃ、真田のとこ来る?」
「そういうわけには…」
「どしてどして。今の宿舎には俺達もみんないるから、楽しいよ? 毎日遊びに行ってあげる。宿舎の裏庭にこないだ鹿の親子が来て、遊んでったんだ。幸村にも見せたいよ」
「こらこら。幸村は、一応は老候閣下の保護下にいるわけなのだから」
 困っている幸村に、柳が助け船を出す。
「幸村の意志だけではどうにもならないんだ。引き取られて面倒を見てもらった恩義というのがあるだろう。な、幸村」
「そうだねえ…」
 幸村も困ったような顔をしたが、ブン太には優しく笑う。
「俺はあの方に救っていただいたから、こうやってちゃんと教育も受けられたのだし、そのご恩は返さないといけないよね」
「そなの」
 幸村の両親はさして貧しくもなかったはずなのに、生まれた子供が片金瞳だと知るや、彼が5才の時にある場所へ彼を養子に出す段取りをとりつけた。何やら、商売の口利きのためであったように聞いている。
 養子と言っても体裁だけのもので、実際はその成金の男のおぞましいお遊びのための獲物、そうして珍しい飾り物にすぎないと、誰が見ても一目瞭然だったにも関わらずだ。
 そのとき軍部の現役で最高位にあった現在の幸村の保護者が、手を回して彼を引き取らなければどうなっていたことか。
 雨に打たれる子犬を哀れに思う程度の気持ちであったかも知れないが、それでも彼は幸村には優しく接し、教育を受けさせ、大事にした。妻を早くに亡くし、子供達もすべてひとりだちしたあとの男の、優しい慰めであったのだろう。
 幸村は彼の愛人と囁かれていたし、また実際そういう関係であった時期もある。何を言うにも保護されている立場であったから、自分から己の身の振り方についてはどうこう口に出来ないのも事実であった。
 いくら彼が老境にきて、もう幸村に対して求めるものは寝台の相手ではなく、穏やかな会話をともにする心安らぐ時間のみであったとしても、彼にとって幸村という青年は確かに非常に大事な心のよりどころとなっているようだ。
「老候閣下のお加減はどうなんだ」
「最近は少し暖かい日が続いているから――」
 柳の問いに、幸村は少し寂しそうに言った。
「でも、あまり食欲もなくていらして……俺がついててさしあげたら、少しは召し上がってくださるのだけど」
 今日の出仕も本当は止めたかった、と幸村は言う。
「何を言うにもご老体だからな。お若いときによく身体をつくっておいでだから、まだ壮健な感じにお見受けするんだが、あまりよくはないのか」
「……」
「まあ、おまえがついていれば、確かに閣下はいくぶんお元気そうに見える。やはり閣下にはおまえがとても大事なのだろうな」
 寂しげに頷いた幸村の横顔を見ながら、柳は、だからこそ幸村は真田の気持ちに答えられないでいるということを、改めて思わずにはいられなかった。


 使用人から、二人の友人の部屋と食事の用意を聞かれて、幸村は少し席を立った。ついでに残り少なくなった菓子を片づけさせ、新しいものと取り替えるように言いつけるつもりなのだろう。
 そのか細い、とても美しい後ろ姿を見やりながらブン太がぽつんと言う。
「ねえ、柳」
「何だ」
「幸村は、未来を読めるってほんとかな」
「――」
「片金瞳には、予言者の能力があるって聞いたよ」
「確かに、何か大事がおこるときは不思議とその前に異変を感じられるようだが……それも『嫌な予感』ぐらいのものだと聞いている。能力があってもそれを磨かねば使えんものだよ」
 柳はゆっくりと言った。
「不二の家にも、片金瞳の魔道師がいるがな。なんでも北の国はじまって以来の天才だと噂されている。片金瞳の能力もさることながら、そいつが正しく魔道学をおさめて努力したからこそ、だろう」
「ふーん」
「どうした、急に」
「いや、うん、あのね。そういう便利な力があるから、幸村はずっとここに閉じこめられてるんだって、俺最初思ってたんだけど、そーじゃないみたいだからさ」
 ブン太は、はあっとため息を付いた。
「じいちゃんマジで幸村のことお気に入りだもんな。なかなか手放さないだろなー」
「もうお年だからな」
「あのじいちゃんがいる限り、幸村は真田のトコ来ないよね」
「――」
「でも俺、あのじいちゃん割と好きだから、長生きはして欲しいと思うんだよね。そのへん、むずかしいな」
「幸村が遠慮している部分もあるだろうしな。長い間、老候閣下の……まあ、その……言葉を悪くすれば囲い者だったわけだし。下されものかなにかのようにして真田のところに行っても、たぶんぎくしゃくするぞ」
「最初はそうかもしんないけどー」
 ブン太は懐を何やらごそごそ忙しく探っている。しばらくして取り出したのは、さっきの焼き菓子だった。どさくさに紛れて衣服の隠しに紛れ込ませたものらしい。菓子がとぎれるのが嫌なようだ。
 それをぼりぼりやりながら、彼は実に明るく応えた。
「でも、結局ゆきちゃんって真田のこと好きでしょ? じいちゃんに遠慮してて言わないだけでしょ?」
「それは……まあ、そうだろうな」
「真田もゆきちゃんのこと好きなら、ギクシャクしても最後にはうまくいくだろと思うんだけど」
「――正論だ」
 柳は、ブン太のこういうところは好ましいと思っていたので、その意見には賛成だった。
 幸村自身について言えば、彼も真田に惹かれているのだろうと思う。真田は言わずもがなだ。
 真田が、それまでの自由な生活を捨ててこの北の大地に定住したのは、幸村精市の存在があったからに他ならない。最初はみっともなく打ち負かされたことによる悔しさもあったろうに、ここに定住して一年も経たない頃から真田がぼんやりと幸村に見とれていることが多くなったのに気づいた。
 彼の中で、どういう心境の変化があったのかは判らぬ。
 それは確かに、美しいと評判の片金瞳の青年であったし、その優しげなところや芯の強さ、普段は穏やかだが実はなかなかに激しい気性――そういうものは、真田の心を捕らえるのには十分であったのだろう。
 幸村のための友人として老候の館に出入りを許された真田の、長らくの煩悶を柳は知っている。前途多難な、しかし実際はもうとっくの昔に成就している親友の恋路の為に、なんとか骨を折ってやろうと柳は思うのだった。



 その夜――。
 遅くまで三人で話し込んでいた面々であったが、さすがに夜も更けて柳が幸村の体調を気遣い、今日の処はおひらきに、と言うことになった。
 それぞれ部屋へ引き取り、使用人達も御用をつとめる者以外はすべて寝静まった。
 ここしばらくの晴天続きのせいか、その夜は珍しく美しい夜空で、大きな満月が照り映えている。
 その美しさを愛でようと、カーテンを開け放しにしたまま、幸村は寝入ってしまったようだった。水晶の薄い板が嵌められた窓から入る月光を身体に浴びながら、さながら不思議な白い花のような、美しい寝顔である。
 そっと忍んできた人物も、柔らかい絹に包まれて眠るそのようすに息をのんだ。
何かに捧げられた乙女のように、美しいがどこか悲壮な、いっそあわれなほど痛々しい感じがしてしまうのは何故だろう、と。
 侵入者はそっと窓を押し開け、音もなくその寝室に降り立った。
 しばらくその美しい寝顔に見入っていたが、やがて何かを決意したようにそっと寝台の近くに足を忍ばせる。
 と。

「――幸村」
 真田の喉元には、きらりと細く光るものがおし当てられていた。
 逆手に持ったそれは美しい銀の刃であった。そうして右手のほうにも、長いレイピアが抜き身のまま、真田の額を狙っている。
 幸村の瞼が外界の冷気に気づき、かすかに震えた、と思った、次の瞬間の出来事である。
 真田は静かに、出来るだけひそめた声で言った。
「――二刀流に鞍替えしたのか、幸村?」
「ちょっとかじってみただけだよ。…西の国に、これの強いのがいるって聞いて」
 銀の刃と金の瞳のとりあわせは、このような状況であってもほれぼれとするほど美しかった。真田とても喉元のちくりとする痛みがなければ、いついつまでもうっとりと見入っていたいところだ。
「ああ、でも付け焼き刃では駄目だね。反応が少し遅れた」
「よく言う――たいしたものだ」
 真田の剣は、後少しで鞘から抜けきる処でぴたりと動きを止めていた。己に対して向けられる凶器に身体が反応したのだが、それでも幸村のほうが僅かに早かった。
 少しでも動けば互いの剣で傷つくであろう、緊張状態の中で、二人の青年の声だけは淡々としている。
「お世辞でもありがと。…本当なら、こちらの手でお前の喉を突けていたんだけれどね」
「物騒なことだ」
「不二様の家の、警護はどうした?」
「先刻終わった」
「それはご苦労様。――で? こんな夜更けに何の御用かな、泥棒さん」
「――」
「返答次第ではお前でもただではすませないよ、真田。――老候様を害するつもりなら、相手になろう」
「そうではない」
 真田が苦笑して先に剣を鞘に戻した。腰からベルトごと剣を外し、ベッドに起きあがった姿勢のままの幸村の前に置く。
 戦うつもりはない、という意思表示だ。
「おまえに話があって来た」
「――なら、昼間くればいい」
 幸村はやや不機嫌そうにそう言いながら、自分も真田にならう。二本の剣をきちんと揃えて、自分の前に置いた。
「こんなこそ泥まがいのことをしなくてもよさそうなものだ」
「――昼間はいろいろと人の目があるからな」
「それでも、こんな夜更けに忍んでこられる方がよっぽど迷惑だよ。人が見ればあらぬ噂になるだろう。そうなったらどうするつもりなんだ、間もなく聖騎士候に昇進の身で」
「お前までそんなことを言う」
 真田は肩を竦めてみせた。
「まあ、そうなったら、お前を連れて逃げればすむだけの話だ」
「――ばかなことを」
「俺の話は、まさにそのことなんだが、幸村」
「――……」
 ふいと幸村は顔を背けてしまったが、真田は改めて姿勢をただしたと思うと、すっと幸村の寝台の側に膝をついた。
「……真田」
「閣下が許せば、俺の処に来てくれるわけにはいかないだろうか」
「――」
「お前を品物として扱う気はさらさらない。まして、報賞代わりなどとも思っていない。……ただ、お前と一緒に暮らしたい」
「――」
「俺は俺自身の昇進には興味はない。部下達は、もちろん、正当に報われてしかるべきだと思っているが、俺はそんなものは要らない。おまえが俺のことをいやでないというなら、どうか俺の元にきて一緒に暮らしてくれないか」
「――お前の愛人に、ってことかい、真田」
「いや! そんなことはない!」
 真田は叫んだが、すぐにぼそぼそと決まり悪げにこういった。
「いや……まあ……正直に言うと、その、そういう期待も……多少は……いや、かなり……している――ような気がする」
「気がする、って」
 幸村はここで吹き出しそうだったが、あえて難しい顔を作り続けた。目の前で、いつもの仏頂面ではあるものの、あれこれ必死になっているこの男の顔つきを見るのが面白かったからだ。
「じゃあ、やっぱり、おまえの囲われ者にしようというんだね」
「そ、そうではない。――そういうつもりではないんだ」
「じゃ、どういうつもりなの」
「俺は……」
 真田は、普段の剛胆さが嘘のようにどこか途方にくれて幸村を見上げた。
「お前と一緒に、いたい」
「――真田」
「その、確かにそういうことも……出来れば、と言うことも考えた。いや、正直に言うと、思いっきり期待した」
「――ほんと、正直……」
「いや! しかし、それは決して強制しようなどと思っているわけではない!」
 真田は、慌てて幸村の手を取った。
「おまえが嫌なら、勿論そんなことを強いたりしない。と、言うか、決して触れたりしない。――自分でもたるんどるとは思うが、その……そういう事をしたいと言う気持ちをまったくなくしてしまうわけには、たぶん、いかないだろうが……それでも、おまえがいやがるようなことは、しようとは思わないのだ」
 そこで真田は、幸村がじっと自分の手に視線を落としているのに気づく。そこではじめて、自分がしっかと握りしめた幸村の手のことに気がいったらしい。
「――す、すまん、嫌なら触れないと言ったそばから」
 慌てて手を離した真田から幸村が顔を背けたのは、実は吹き出すのを堪えるためであったが、真田は至極真剣だった。
「だから、その――」
「……」
「いつも、俺とお前がしているようなことで構わないんだ。一緒に茶を飲んだり、夜更けまで話をしたり――そういうことで」
「真田」
「おまえのいやがることを、しようとは思わない。一緒にいたい。ただそれだけだ」
「――」
「お前が、俺と一緒にいるのがいやだというなら、それはそれで仕方ないんだが――どうか、今すぐにとは言わん。返事をくれ、幸村」
 そういうと真田は立ち上がった。
「お前がいいと言ったなら、たとえ閣下に反対されようとお前を連れて逃げてみせる。おまえに苦労はかけないし、無理もさせない。それくらいの力は、俺にもある」
「真田」
 幸村が呼び止めたが、真田は自分の言いたいことを言ってだいぶ気がすっきりしたのか、来たときと同じように窓枠に足をかけ、身軽な仕草で飛び乗る。
「突然の訪問、非礼はわびる。すまなかった――暖かくして寝てくれ」
 それだけを言うと、真田はひょいと窓の向こうに姿を消した。
 結構な高さがあるのに、と幸村が慌てて窓辺へ駆け寄ったが、庭園の草むらの影に、真田が羽織っていたマントの端がひらりとするのが目に映っただけだった。

「――まったく」
 幸村は、少し唇をとがらせて呟いた。
「夜中に、誰にも見られずに寝所にきておいて、手だけ握って帰るかい――本当に、馬鹿正直というか、融通が利かないと言うか」
 夜の冷気が頬を撫で、幸村はそれに少し目を細めて呟く。
「――お前と一緒にいるのが嫌だなんて。一度だってそんなふうに言ったことはないのに、気がつきもしないんだ。俺がお前を嫌いだなんて、そんなことを思いつくのはお前ぐらいなものだよ」
 甘苦しい、どこか切ないような胸の痛みが、すこし辛い。
「――本当に、あの、石頭め」





 それから、十日ほども経った後のことであった。
 幸村は、老騎士候である彼の保護者と差し向かいで馬車に揺られていた。
 もう夕食の時間も過ぎ、子供達なら寝ている頃だ。老人が、何やら国王と話し合わねばならぬことがあり、そのために国王自身の時間が空いたのがちょうど今夜だというのだ。
 時間の遅いこともあり老人は幸村を館においてゆこうとしたが、最近はあまり体の調子がよくない老人を気遣って、幸村が無理についてきた。
 がたごとと揺られる馬車の中で、しぱらく沈黙が続いたが、やかで老人からこのようなことを言ってきた。
「精市」
「はい」
「精市は、真田が嫌いかな」
「――立派な武人ですし、友人としても彼はよくしてくれましたから。…きらい、などとは」
 唐突な言葉に、幾分面食らって幸村は応えた。たしかに、彼らにとって避けて通れない話題ではあっただろう。
「それはわかっておるよ、わかっておるとも。――うむ、そういうことではなしにな。おまえは、真田の求めに応じて奴のもとに行く気はないかな、と聞いておる」
 幸村は即答しなかった。
 ただ呆然とその黒と金の美しい瞳を瞬かせて、さびしげに言った。
「私は、もう閣下のお役にはたてぬのでしょうか……先日の病のせいでも大変にご迷惑をおかけしたことは、よく承知しております。……けれど」
「――違う違う。そうではないよ、そうではない。頼むから、その、今にも泣きそうな顔をするのをやめてくれんか。儂はおまえのそういう顔に一番弱い」
「――はい」
「そうではなくてな、精市。――昨日、儂の一番上のどら息子がやってきおってな」
「……」
「何故、自分を聖騎士候に推さんのかとさんざん駄々をこねて帰っていきおったのだよ――儂の後がまに真田を据えるのを気に入らんと言う。……まったくあやつも少しは己の力量を鑑みればいいのに、弱いやつほど名前や見てくれに凝りたがる。真田や黒羽や、あのあたりの若い者の潔いのを見習えばいい」
「――」
「そのくせ言うことまで真田と一緒だ。聖騎士候になれないなら仕方ないが、そのかわりに片金瞳を譲れ、とな」
 あの馬鹿者が、と老人は吐き捨てた。
 そうしてどこか疲れた、長い長いため息の後にこう言った。
「儂も老い先短い」
「閣下」
「いや、気遣ってくれんでいいよ。実際の処、儂は安心しているのだよ。後進の若者たちはよく育っておるし、あとは早く妻のところへゆくばかりだが…おまえのことだけが案じられてならぬ」
「――」
「儂が死ねばお前の後ろ盾はなくなる。儂の遺言だけではなにかと心もとないし、息子のような馬鹿者のところへ連れてゆかれるようになるのも不憫なことだ。儂の信用できる、お前を変わらず大事にして守ってくれる者の処へお前を託して、安心して死にたいのだよ」
「――」
「真田ならきっとお前を大事にしてくれるだろう。――いや、儂がもう20年若ければ、お前をくれと言うような命知らずの大馬鹿者は、金輪際お前に近づかぬよう剣にかけて追い払ってくれるのだがな。いや槍でも真田には勝てるな。うむ、弓でも儂のほうが上だ。とっくみあいの殴り合いなら、儂は負けたことなどないぞ」
「閣下」
 少し幸村が笑ったので老人もよほどほっとしたようだった。相好を崩しながら、美しく笑む青年を見やった。
「まあ――それも、確かに儂がもう20若ければの話では、ある」
「――」
「……かさねて言うが、儂が死んだとて殉死は許さんからな」
「閣下」
「お前も真田のことは嫌いではあるまいと思っているよ。そうだろう」
「……私は」
「儂に遠慮するな。……思えばおまえほど若くて美しい者を、今の今まで手元にとどめおいたこと自体が、儂の過ぎた贅沢であり我が儘であったよ。――どちらにしても」
 老人は馬車の窓からふいと外を見やり、もう王城の門の下を馬車がくぐっているのに気づいて、この話を切り上げる方向にもっていこうと思ったようだ。
「どちらにしても、おまえにも不安のあることではあろうから、そんなに急に返事を決めずとも良いからな。まあ、お前の心が決まるまでぐらいは儂も長生きするよ」
 馬車はがらがらと音を立て、門をくぐって石畳を進んでいく。夜であるので、よほどの火急の用件以外はなるたけ音を立てぬよう、ごくゆっくりと進んでいくように定められている。
 馬車の窓からは、王宮の回廊に灯る美しいあかりや窓から翻る薄布、小姓や侍女達のよくしつけられて優美な仕草で御用をつとめる様などが見える。固く降り積もった雪なども、このあたりだけは毎朝綺麗に退けられて、北の国の人間には雪がないと言うだけでまるで違う国のように見えるのだった。
「精市や」
「はい」
「不二家のご長男が、王宮に入られた話は聞いておるかね」
 突然老人は、そんなふうに聞いてきた。
「はい。真田が警護に立ったと」
 幸村もいささか面食らったが、そつない態度で応える。
「それがどうか?」
「――うむ」
「一度だけ、不二家のご長男を遠くからお見かけしましたけれど」
 何かを思い出すように幸村は言った。
「美しい、愛らしい少年でございましたね。……どうかなさいましたか」
「……それなのだがな。今回の、ご長男の王宮入りはどうやら国王陛下のじきじきのご下命であったようなのだよ」
「金瞳の方のご学友にと伺いましたが」
「――」
「閣下」
「王は、その子を後宮にお連れになっているそうだ」
 幸村の顔がさっと強ばった。
「むろん表向きは"金瞳"の方の遊び相手、学友としてであるから、昼間はお二人をちゃんと表のお館のほうにおいておられるが、夜になるとご長男の方だけ後宮の、御自分の寝室にお連れになられているそうだよ」
「どこから、そのような……」
「なんとか実家に戻してもらうよう口利きをしてくれないかと、不二家のお抱えの魔道師が頼みに来た――精市は知っているかな。その魔道師も片金瞳だ。魔道にかけては天才らしいが、不二家で幼いときから養われたせいもあって、ご長男や金瞳の方には兄のように慕われているらしくてな。まだ幼いのにあの扱われようはあまりに不憫だと言って、頭を下げにきたのだ」
「――」
「じっさいがところどういう状況なのか、その魔道師の話だけでは確実なことが言えん。今から……まあ、少々遅うなるが、王にお目通り願って進言はしてみるつもりなのだがね」
「そうでしたか」
「話は長くなるかもしれぬから、もしも夜半を過ぎて戻らぬようなら、部屋を用意してもらっておるゆえ先にやすむがよい」
「いえ」
 幸村はしとやかに微笑んで、軽く頭を下げた。
「お待ち申し上げております」
 幸村のその言葉とほぼ同時に、馬車は彼らのような貴人が使う大きな玄関口に到着した。
 心得た小姓達が走り寄ってきて扉をあけ、ふたりを丁寧に迎え入れた。前もって先触れは出しておいたので、案内されるのにもさして時間はかからなかった。
 夜更けとはいえ、まだ沢山の人間が立ち働いている。彼らは老人と幸村を見ると、丁寧に優美に頭を下げる。よくしつけられたもので、幸村の片金瞳を見ても意味ありげな視線を送ったりするものは誰もいなかった。
 異変が起きたのは、真ん中あたりを膨らませた優美な形の、巨大な柱の回廊をたどっていく、その途中のことだった。
「――っ」
 急に胸のあたりに何かを感じて、幸村は立ち止まる。
 少し先を歩いていた老人があわてて振り返った。
「どうかしたか」
「――いえ」
「具合が悪いのか。お前だけでも先に休んでおるか?」
「いえ。……いいえ、閣下。なんでもありません」
 幸村は無理に笑みを造ったが、どうもぎこちない。そうしてそんなことは、老人にもお見通しなのだった。
「顔色がよくないぞ。すまぬな、儂が連れてきたものだから。――これを、暖かい部屋へ案内して休ませてやってくれぬか」
 小姓がはや柱の影から小走りによってきて、頭を下げる。
「大丈夫だよ。今日はそのままここで休んでゆく心づもりにしておったゆえな」
「閣下――」
「部屋に入って横になっておれ。具合が悪ければ医師を呼んでもらってな。――なに、案じなくとも謁見が終われば、ちゃんとお前に声をかけるからの。なにも心配するようなことではないのだから」
 老人はそのまま幸村に背をむけ、別の小姓に案内をさせながら長い廊下を歩いてゆく。
 どうしても治まらない胸の動悸と戦いながら、幸村は何か取り返しのつかない失態をやらかしてしまった気になりながら、その後ろ姿を見送っていた。
「幸村様、参りましょう。お部屋にご案内いたします」
 小姓が促すので、幸村はほとんど呆然としながら彼に言われるまま、老人とは反対方向に歩き出した。
(――胸が痛い……どうして)
 どきどきとする。動悸が治まらない。
 これは身体の変調から来るものではない。
 なんだろう、この異常な……異様な、ものは。
 苦しい。胸が痛む。
「――幸村様?」
 小姓が振り返った。
「どうなさいましたか」
「――いえ……」
 介添えを断って、幸村はなんとか歩き出そうとした。が、しかし、再度眩暈がし、今度は膝をついてしまう。
「幸村様!」
「……っ」
「お苦しいのですか。いけません、ただいますぐに医師を!」
 小姓は仰天して、そう叫んだ。
「すぐにおそばに参りますゆえ、どうか今しばらくこちらでご辛抱を。失礼して、此方にお身体を」
 ふらふらとする幸村をそっと壁にもたせかけておいて、小姓は申し訳なさそうに一礼した。
「今宵は、国王陛下がこのあたりを人払いなすっておいでですので、人が少なくて――申し訳ございませんが、しばらくおひとりにするご無礼をお許し下さい。もう少しいけば人手もございますし、ただちに戻って参ります」
 そう言いながら、年若い実直な小姓は駆け出していった。
 幸村はたったひとりになりながら、先刻老人が消えていった先をじっと見やる。
 なにやら――この呼吸の苦しさはただごとではない。しかし、身体の異常があると思われぬ。
 幸村は、なにやら自分でも説明できぬような衝動に駆られて、胸元をぎゅっと押さえながらふらふらと歩き出した。
 美しい、様々な趣向が施されたその豪奢な廊下。賑やかな女官たちのさざめき、あちこちでさえずるような貴婦人達、低く品のいい貴族の男達の笑み交わす穏やかな声……そういうもので満たされてこそ、豊かな、大国の王城の一角であったろうが、このような夜更けに静まりかえってしまうと何やら恐ろしい。
 人が通ろうが通るまいがあかあかと贅沢にたかれている燭に照らされていてさえ、いかにも異界に似た、どこかにゆがみを隠し持つ闇を遠ざけられるものではなかった。
 誰にもとがめられることなく、幸村は闇の中を何かに導かれるように進み、そうして大きな扉の前につきあたる。
 そこは、国王のごくごく私的な居間と寝室に繋がっていたが、幸村はそんなことは知らない。
 導かれるようにここまでやってきたはいいが、さてどうしたものか、と彼が一瞬思案したときだった。



「――閣下!?」
 それは、確かにあの老人の声だった。
 非常な苦痛を伴うような、恐ろしい叫び声が確かにドアの向こうから聞こえたのだ。
「閣下っ!?」
 幸村は、もうどうにもじっとしていられなくなって、非礼も省みずその両開きのドアを開けた。
 中は意外に薄暗く、ぼんやりとした柔らかい明かりで満たされている。室内は広く、天井は高く、王の居室に相応しく豪華であった。部屋の中ほどに薄い布が垂らされ――その向こうで何やら声が聞こえる。
「閣下!」
 それがあの老人の、かなりせっぱつまった苦痛の――いや、もはや手の施しようのない断末魔だと気づいて、幸村は夢中で部屋に駆け込み布を引き開けた。
 そうして。

 彼が目にしたものは――。


 どん、という衝撃音が、耳元で聞こえた。
 自分の身体が何かにはじき飛ばされ、壁に打ち付けられ、それから床に倒れたのだということに気づいたのは、しばらくしてからだ。
「お前、見たねえ」
 初めて聞く声――年若い少年の声。
 恐らく、これが北の国の年取らぬ不思議の君主、佐伯の声なのだろう。
「見たね。いまの、見たね。――見たんだろう……この、淫売」
 身体が痺れ、動けなかった。
 かすむ視界の中、完全にこときれているであろう老人の身体を見つけて手を伸ばそうとしたが、靴の先で腹を蹴られ、幸村はかすかに呻いた。
 そのままごろりと身体を返され、覗き込んでくる佐伯と目が合う。
 いたずらっ子のような、けれどどこかまがまがしい目をした――銀色の髪をした少年。
 今――今、何を見たのだろう。今、自分が目にしたものは。
 この少年の姿をした王が。
 佐伯が。
「思ったより、ずっと綺麗な顔してる」
「――」
「なあ、不二、見に来てみろ、こいつ片方金色の目をしてるよ。英二の目はそういうわけにはいかないけど、こいつのをくりぬいてお前にあげようか。首飾りか指輪にしてやるよ。それとも王妃の冠につけて、おまえに被せてやろうかな。そしたら俺の玉座の隣に座らせてやるよ」
 幾枚もの薄布が垂らされた向こうからは、小さなすすり泣きの声がするばかりで、返事はない。佐伯の楽しそうな声とは対照的だった。
「おいでよ、ほら。なあ、なあってば、なんだよ、泣いてばっかいないで、ちょっと笑ってみせりゃ可愛いのに――ま、いいや」
 佐伯が何事か合図したのか、黒い人影がいくつか、幸村の視界の端に映る。
「おまえ綺麗だし、殺すの可哀想だから生かしといてやるよ。……ただし今見たこと喋ったら――半刻も許さないで、お前の心臓を破裂させてやる――そりゃあ苦しいよ? 血反吐はいて無様に死にたくなかったら一生黙ってろ。そうしたら俺の呪いは発動しないよ」
 朦朧とする意識のさなか、何か非常に重たいものに背中を打たれたような感覚があった。誰かが、酷い力で鞭ででも打ったような、そういう衝撃だった。
 しかしそういうものの痛み特有の、じんじんと痺れるような余韻はなく、すうっとその感覚は一瞬で消え失せる。
 代わりに、冷徹な命令の声が聞こえてくる。
「連れていけ。北の国から、うんと遠くに」
 男達が低く応ずる声も。
「そうだな。動けないようにして、好き者の金持ちにでも売りつけてやればいい。命は助けてやるって言ったしな。……あ、じじいの死体も片づけといてくれよ、目障りだから」
 持ち上げられる身体。手足は動かない。
 惨いさまになっているであろう老人の姿を見ようとしても、幸村からは無情なまでにすべての自由が奪われていたのであった。
「くそじじいが、やっとくたばってくれたよ。古参ヅラして、いろいろとうるさいったらなかった――さ、不二。せっかく遊んでたのに邪魔されてつまんなかったよな、あっちに行こう。またゆっくり可愛がってやるから、おいで」
 老人の断末魔と、そうして己の身に起こるこれからの恐怖と、目にしてしまった「禁忌」――おそらくは佐伯虎次郎の、最大の秘密。
(真田――)
 ゆっくりと闇に閉ざされていく意識の中、彼はその名を一度だけ呼んだ。
 明るい、心底楽しげな王の声が、幸村の北の国における最後の記憶であった。



 
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