さてお客様。
 ときに北の国へ行かれたことはございましょうか?
 そう、あの北の大国ですよ。雪、という白い冷たいものがほぼ一年を通じて大地を覆い、少年の姿からけっして老いぬ不思議の王が統治する、あの国。
 行かれたことがある? ほほう、やはりお大尽様、そのあたりの成金とは違いますな。
 北の国は面白うございましたか。
 あのあたりは豪雪の為に、ぱっと見の華やかさがある街並みではございませぬが、見た目の無骨さと裏腹に建物の中は贅沢極まりないものでしたでしょう。地下にある歓楽街などは、それはそれは豪華で…ほう、足をお運びになられましたので、これはよけいなことを。
 あの国は鉱脈が豊富でございますのでな。金銀は勿論、剣や鎧をはじめとする鉄鋼産業で、それ、そのへんの一般庶民でもずいぶんと豪奢に暮らしておるのでございますよ。
 何せ今ではもうほとんど手に入らぬダマスカス鋼も、実はまだ北の国がその大地の下にたんと抱え込んでおるのだとか――いや、こんなことはせんからご承知でしたな、失礼失礼。
 それはそうと、北の国はいかがでございましたか。
 たいそう珍しいものも多くありましたでしょう。
 酒はうまく、料理も美味で、女も男も美しゅうございましたでしょう。
 お大尽さまは佐伯国王にはお目通りかないましたか――いや、それはそうでしょうとも。あのおかたは滅多に下々の前にはお出になりませぬ。北の国を支える力の源、あの強大な幻獣の祭祀であられるので、何かしら神殿で大事なお役目があると聞いております。


――お聞きになったことはこざいませんか。
 あの広大な北の国を統べるにあたって、かの国王陛下は相反するふたつの力を、一身に司っておられるといいますよ。

 氷狼キング・シベリオン。
 炎竜キング・サラマンダー。

 ご存じでしたか、それはそれは、さすがにお耳聡い。いいえ、お世辞などではございませぬよ。
 炎と氷、本来ならば魔道を扱う者は同時には手に入れられぬ、正反対の力でございます。いえこれは知り合いの魔道師の受け売りでございますけれど。
 精霊の力とは言え少々ならば、少しばかり魔道学の初歩をおさめればそれを行使するのはたやすいものと聞き及びます。ただそのときに魔道師は精霊と契約を結ぶのです。
 火の力を行使しようとするなら火の精霊と。氷ならば氷の精霊と。
 その契約は魔道師に力の行使を許す代わりに、生涯もって彼らを縛るのです。
 いったん火の精霊と契約を交わした同じ身体に、氷の精霊の契約を受け入れることは出来ません。その逆もしかり。
 相反する性質のものを無理に同居させようとすれば魔道師の身体は崩壊いたします。精霊達はお互いに自分と両極にある性質のものを嫌いますし、同時にそれを扱おうとする魔道師のことを裏切り者として攻撃します
 魔道師たちがふたつ以上の精霊の力を得ようとするとき、それは必ず、水と氷、風と炎と言った、関連する力でなければならないといわれているのはこのためなのです。
 ――ですので、かの国王陛下のように、相反するふたつの力を同時に操ることが出来るというのは希…どころか、最初で最後なのではございますまいか。
 いや、これは下らぬおしゃべりをしてしまいましたな。


 お客様――お大尽様。
 このような秘密の階段を登って、この私、この快楽の館の主自らが案内をつかまつるのは、何もこのような退屈な世迷いごとをお聞かせするためではございませんとも。
 この快楽の館。
 あらゆる娼婦と男娼を取り揃えた、南の砂漠都市の中ではもっとも巨大なこの娼館自慢の、秘密のおもてなしにお招きするためでございます。
 この南の国の娼婦達だけではなく、東の国の年若い処女も、西の国の美しい少年も、表だっては商えぬありとあらゆる快楽を差し上げてきたお得意さま――お客様のご期待に添うような、素晴らしい趣向をご用意しておりますよ。
 北の国に関しては、もうひとつ、不思議のものが存在するのをご存じですか。
 不思議の生き物。王宮の奥深くに保護され、神の子として崇められる。――さよう、"金瞳の子"でございますよ。
 …さあ、それは。私も、本物を見たわけではございませんから。
 何せ"金瞳の子"は、6歳になれば親から離され、王宮で国王陛下の庇護のもと育つのです。金色の瞳は神に愛されたあかし、やがては国王の名代として天地創造の神の元に赴き、その言葉を受け取ってくるのだとか。
 数十年に一度生まれる、奇跡の神の子でございますからな。
 いえいえ。そんな、まさか。
 このような場所に"金瞳の子"などおりはいたしませぬよ、いくら私が少々あぶない商売を致しているからとて、そのような。
 "金瞳の子"など、ここにはおりませぬ。
 確かに、おりませぬが。

 さあ、まずは、お入りくださいませ。
 ぐるりとめぐる長い階段をお上りあそばして、お疲れでございましょうが。
 さあ、此処が、この塔の一番最上階でございます。お入りくださいませ、お入りになって、奥へお進み下さいませ。
 塔の小部屋に閉じこめられた、宝物をご覧じませ。








 黒ずんだ、どこか牢獄めいた重い鉄の扉が、ギギ、と軋む音を立てて向こうに開いた。誰かが中にいて動かしたものらしかった。
 重苦しい鉄の扉、そうしてここまでやってくる道程――古びた細い塔だの、螺旋をえがく石造りの階段だのからして、その塔のてっぺんにある部屋も牢屋のようなものを想像していたのだったが、その中はふかふかとした絨毯やすばらしいタペストリや、黄金を刻み込んだ家具などでまとめられた、世にも豪奢な部屋だった。
 ちらちらと燭台の炎がゆれ、部屋の内装に使われている沈んだ紅をより妖しく見せている。甘く、官能的な――何かを刺激されるような香が、どこかからただよっている。
「これは…」
「いかがでございます、お客様」
 娼館の主が慇懃に頭を下げた。小太りの中年の男だ。つき出た自分の腹を時々楽しげに叩きながら、嫌らしい笑いに目と口を細めている。白い下衣と袖無しのどぎつい色の上着、頭にぐるりと巻いた布は南の国によく見られる服装だ。
「ここは、お得意さま中のお得意さまのみがお通りになれます、秘密の部屋。あらゆる快楽をわが館でお試しになり、なおもっと深い楽しみをお求めのお客様のみが――その為にはどれほどの金子を積もうといとわぬ、と言う方だけをご案内いたしております」
「ほう――」
 今までの埃くさいようすとは一変した光景を、客の男は目を丸くして見やっていた。頭にぐるりと布を巻いた服装の、こちらも南の国の男である。館の主よりも頭二つ分背が高く、やせぎすで鋭く冷たい目をしていた。あまりたちのよろしくない、まともな商売をして金持ちになったわけではなさそうな、剣呑な雰囲気の中年男である。
「ささ、どうぞ、お客様」
 この館の主はその客の驚きように気をよくして、さらに奥に進むように彼を促した。
 部屋は存外に広い。ちょうど真ん中あたりには酒やつまみものを楽しむためのテーブルセットがどんと置いてあったし、さらにその向こうにはあやしく薄く透ける絹のカーテンが天井から垂らされていた。部屋と、寝台との仕切りということだろう。
 カーテンの側には二人の奴隷娘がかしこまってうずくまっていた。娘達の衣装もほとんど身体の線が見えてしまうような、それを着ていることでよりいっそう淫らめいた様子になってしまうようなものだ。薄い布で顔の下半分を隠したその娘達は、館の主人である男の指示に従って、薄いそのカーテンをうやうやしく左右にひいて開けた。
 カーテンの向こうにある巨大な寝台は天蓋のついた贅沢なものだ。寝台の敷布さえも深紅であり、この寝台が眠る目的で使われることはないというあかしのようである。
「ほう――これは」
 そこに近づいた男は思わず声をあげた。
 それほど、そこに在ったものは劇的だった。
 沈んだ暗い紅に好んで統一されているのであろうこの部屋の中にあって、『それ』だけはぽかりと白かった。夜空に浮かぶ満月の、その青白い美しいさま――人ならば誰でも、一瞬はそれに魅入られるようにさしもの男もそれに目を奪われてしまった。
 うまい具合に寝台の側には大きく夜空にむけて開けはなってある窓があり、おりしも満月の今宵、その姿は月に捧げられる花嫁のように清楚であったのだ。
 どぎつい深紅の布の上に横たえられていたのは、ひとりの青年だった。
 青年、というにはやや顔立ちが幼いか。彼が身にまとう一枚きりの薄く透ける布の下、その身体は確かに男のものだ。しかし身体の線がか細く柔らかいので少女めいて見え、余計に不思議な感じがした。
 月光に照らされてところどころ不思議な藍色に光る黒髪が、その白い頬に長くかかり、また布の上に散る。
 冷たい寂しい月を連想させるような儚い様子であったが、瞼は青白くぴたりと閉ざされ、死んでいると言われても納得してしまうだろう。
 なんとも言えずその姿に見入っていると、館の主は心得て寝台の側による。そこには煙を細くくゆらす香炉があり、主人は何やら懐から小さな包みを取り出すと、香炉の蓋を開けてぱらぱらと粉のようなものをふりかけた。
 途端に香煙は一瞬薄い緑色になり、空気の中には薄荷のような香りが混じり始めた。
 その薄緑の香煙が寝台に流れ、いくらもいかないうちに横たわっている青年の瞼が重く持ち上がりだしたのだ。
「よく、ご覧なさいませお客様――その者の顔を」
「顔?」
 ゆっくりと瞼を上げた青年だったが、その目はうつろだった。
 何も映していないし、興味津々で覗き込む冷酷そうな男のことにも気づいていないだろう。下手をすれば、自分がここで何をしているのかも判っていなかったかもしれない。
「おや――ほう。…ほう、これは」
「お気づきになりましたか」
「ほう、なるほど、これが。…いや、しかし、片方だけ…なのか」
「さようでございます」
「片方だけだが、いや、確かに金色だ。主よ、この者の目は、片方がこのように金色をしておるな。…これが噂に聞く、北の国の"金瞳"なのか」
 男は無遠慮に青年の身体に覆い被さり、もっとよく見ようと彼の細い顎を鷲掴みにして顔をあげさせた。美しさの価値の解る者ならば、壊れないか汚しはしないかとあつかいが空おそろしくなるような肌だったが、男は気にも留めない。また青年もまったく抵抗しなかったし、その乱暴さに眉を顰めもしなかった。
「かの国では時折、神の子ならぬ"金瞳"――片目だけが金色である、異形の子が産まれてくるのでございますよ」
「ほう――」
「それらは魔道の才に長けていたり予言の能力を授かったりと、やはりなにかしら常人とは異なるようでこざいますが。なによりも、"片金瞳"はこのように」
「――なるほど、美しい」
 男は今度はあからさまな目でじろじろと青年を眺め回した。
「かの国の貴族達の間では、"片金瞳"の少年少女は大変な高値で取り引きされておりましてね。彼らと同じだけの重さの黄金を積んでも、なにせ数が少ないもので手に入りづらい。"片金瞳"ならば、"金瞳の子"と違って、王宮への出仕の義務はございませんので、どうしようがおとがめはございませんので、はい」
「そうか。――しかしそれでも、よく手に入ったものだな、このようなものが」
「それは、もう」
 館主は嫌らしい、少しばかり物騒なにやにや笑いで、頭を下げた。
「ほうぼう手を尽くし、金に飽かせて買い求めましたとも。これを南の国にまで連れてくるのには、それはもう苦労いたしましたが、それもこれもお客様にお楽しみ頂きたい一心。どうぞこれからもよしなに」
「わかっておる。――なんというのか、この者の名は」
「好きにお呼び下さい。強情者で、ついに名も明かさなかったと人買いどもが申しておりました――しかし、北の国では予言の才を持っておりましたようです。…いかがです、なかなかの逸品、世にもまれなる珍品ではございませんか」
 主はそう言いながら、扉のところで控えていた娘達に目配せすると、酒や料理を運び込ませはじめる。
「これは少しばかり薬で呆けておりますゆえ。お酌のお相手や気の利いた踊りなども出来ませぬ。ご希望がございましたら娘達を何人でもこちらに伺わせますが」
「いや。それには及ばん」
「さようで。では我々はさっさと退散いたしましょう」
 相変わらず人の悪い笑いかたをした主は、いやらしいぐらいにぺこぺことしながら、出ていくまでにこう言った。
「扉の側に娘達を控えさせておきますので、何かあればお申し付け下さい。それからこれは立ち上がれぬようにいたしておりますので、いろいろとご無礼もございましょうがどうぞお許しあって。――なにせ、せんも申したように強情者で、お客様にお試しいただけるまでにしつけるには多少骨が折れましてな」
「ほう、それは」
 客の男も剣呑な笑い方で、うなずき返す。
「できれば、その『躾』とやらから、わしも手をかけたかったものだな」
「これは気がききませず」
 無垢で純情な少女達が見たら震え上がりそうな、嫌らしい汚らしい顔で彼らは笑いあった。

 それから客の男は舌なめずりをしながら寝台の方へ、館の主は金勘定と他人の色事の下卑た妄想で頭を一杯にしながら扉のほうへ、それぞれに背を向ける。
 ひっそりとした白い花のようなその青年だけが変わらなかった。
 片方の瞳に浮かべた満月をゆるくうるませて、ぼんやりと夜空を見上げている。
 だらしなく呼吸を荒げた黒い影が覆い被さってきても、うすものを嫌らしい手に引き剥がされても、まるで彼には関係のないことのようだった。
 男の方ももうその美しい穢れないものを汚す嗜虐によだれもたらさんばかりに夢中になっており、周囲のことなどまったく気にも留めなかった――よくよく注意していれば、そのときこの塔の真下で剣が交わされる鋭い音が聞こえただろうに。

 塔の入口の扉のところでは、なにやら揉めたのちに見張りの男達がことごとくうち倒され、なにものかに無理矢理入口をこじ開けられようとしていたことも、男は気づかぬままだった。





 埃っぽい牢獄のような階段を――どこまでも続くような螺旋の石階段のはじまりに足をかけ、深くマントをまとった彼はにやりと人の悪い笑みを浮かべた。
 ここは塔の入口――にぎにぎしい娼館を中央にでんと構える敷地内の、端に建てられた意味ありげな古い塔の中、長い長い螺旋階段を上る最初の場所だ。
 両手に持った短刀を、どういう具合だかくるくるくると見事に回転させて見せ、きっと構えて続く螺旋階段を見上げる。存外可愛らしい、けれど手のかかるいたずらっ子のような顔が、楽しく紅潮している。
「どっからでもかかって来いやあ!」
 そう叫んだところで、あたりには既に死屍累々だ。
 かかるもなにも、誰も生きていないのだから仕方ない。――しごくまともにそう考えた一人の少年が、力の入った構えのポーズを見せ続ける彼に対しておそるおそる声をかけたのも仕方ない。
「あのー」
「なんじゃいね」
「カッコつけてるトコ悪いんですけどー、丸井先輩。もう終わってます」
「赤也は黙っとり」
 うるさい、とばかりに肩越しに睨まれ、少年は首を竦めながら力無く笑った。
「いやー、でもコレ俺達の出番な…」
「早いモン勝ちだろい」
 そうして彼は、意気揚々と螺旋階段を駆け上がり始める。
「先輩、よけいな騒ぎになると犠牲者も増えるからできるだけ静かに、って副部長が…!」
「大丈夫、騒ぐ前にやっとく!!」
「……いや、そういうことじゃなく…」
 がっくりと肩を落とし、巨大な両手剣を杖がわりにだらけてしまった少年の後ろから、決まり悪そうに浅黒い肌の青年が現れた。
「わ、悪い、赤也。ブン太のヤツみょ〜にはりきっちまって…」
 手には赤也のものより少しばかりスリムな片手剣を下げている。まだそんな年齢でもあるまいに洒落なのか禿頭(とくとう)にしていて、かえって精悍な印象がある。こちらも『赤也』も、先刻の彼と同じようにマントでぐるりと身体を包んでいた。だから彼らの装束はよく判らなかったが、どうもこの南の国の人間ではなさそうだ。
「俺も止めたんだが…」
「壁登りが出来ないんで、スネてたんじゃありませんでしたか」
 しかもついさっきまで、とあきれたように、ブン太とやらが走り上がっていった階段のほうを少年は見上げる。見上げると言っても、石柱を中心にしてぐるりと螺旋状になっている階段なので本当には彼の姿は見えない。赤也と呼ばれた彼は、そのふわふわと奇妙な癖のついてしまった髪をぐしゃりとかき回してもうひとつため息を付いた。
「まあ、高い塔をものともせずやってきてとらわれのお姫様を助けるのは、王子様の役目だからなあ」
「王子様…」
 思わずぶっとふきかけたが、いやいやと赤也は気を取り直す。
「しかしこの場合、どっちかってえとお姫様をさらう悪の集団じゃありませんかね、俺達」
「まあ少なくともここの主人にとっちゃあそうだろうな」
 『赤也』にしろ、禿頭の青年にしろ、元気いっぱい螺旋階段を駆け上がっていった彼にしろ、そのどこか緊張のない様子とは裏腹に、ぎらりと光るそれぞれの得物の物騒さだけが際だっている。
 何度も血煙で曇ってはそのたびによく磨かれ、研がれ、その悪魔のような切れ味を最大限に生かしているのだろう。今はまださほど血脂の曇りは見えなかったが、その輝きがかえって不気味である。
「なんにしろ、とにかく真田が目的を果たせば後はとっとと逃げるだけだ。柳もついてるし、心配ないだろ。まあそれまではいくらブン太でもそんな大騒ぎは」
 起こさないはず、と青年が言いかけたそのとき。

「ジャッカル早よこーい!」
 彼らの頭上から、実に緊張感のない声が聞こえてきた。あせる青年といい対照である。
「何だ、どうした、ブン太あっ!!」
「上からいっぱい出てきたーあ!!」
「何が!」
「人がーあ!! ぞろぞろとーお!!」
 たぶんこれ此処の用心棒だぞおー、来ないと俺だけで遊んじゃうぞー、と脳天気に喜ぶ声が降ってきたところで、ジャッカルなる禿頭の青年はがっくりと肩を落とし、傍らの赤也に軽く手を挙げる。
「…俺、行ってくるわ…」
「はあ…でも大丈夫じゃないっスか、あのひとなら」
「いや、まあ。顔見せだけでもしとかないとうるさいこともあるし。心配ないと思うけど、なんかあったら柳生あたりを呼べ。近くで見張りしてるはずだから」
「はあ…どもお疲れさまっす…」
 妙に重い足取りで階段を上っていくジャッカルを、赤也は気の毒そうに見送ったのだった。





 扉の外で誰かが何かを叫ぶ声と、娘達の悲鳴が重なって聞こえた。さすがに男は妙だと思ったのだろう、無抵抗な肌を嬲ることをやめて顔をあげた。
 と、同時に窓のほうで、ばさりと布のひるがえる大きな音がした。
 大きく造られた窓べに大柄な人影が見える。
 こんな高い塔の上にいったいどこから、と見定める間もなくその人影――精悍な厳しい顔つきの青年であった――が、一瞬身体を低くしたと思うと、ぬっと伸びてきた手が男の喉を掴んで締め上げた。
 窓からの侵入者は、憎悪に満ちた目で男を真正面から睨み据える。男は侵入者の青年に見覚えはなかったが、憎まれる心当たりだけは数え切れぬほどあった為に、なんとか金でかたをつけようと口を開く。しかし交渉をしようとしても声は出ない。侵入者の青年が、その片手に恐ろしいほどの力をこめてのどを締め付けているせいだ。
 彼は男に向かって何やら銀色に細く輝くものをふりかざしたが、ふとその目が柔らかくなって、寝台の上に横たわる人間を見やる。
「――おまえが汚れてはいけないか」
 侵入者が小さく呟く声を男は聞いた。
 そうして呼吸が出来ずにばたばたと見苦しくもがく男を、喉をつかんだままで彼は寝台から引きずり下ろし、ずるずると部屋の端へと引っ張っていった。
 その僅かのちに部屋の端で、ぐきりと言う鈍いくぐもった音がした。何かを力任せに折り曲げるような、どこか生理的に嫌な感じのする音だ。
 その何かを放り出した彼は、ふたたび寝台のところへと戻ってきた。
 自分がまとっていたマントを外すと、月光に照らされて浮かぶ細い頼りない裸身をそっとくるむ。何重にも巻かれた布の間に丁寧におさめられ、侵入者の腕に抱き上げられたとき、そのか細い青年がふと視線を動かしたのに侵入者は気づく。
「――」
「――幸村」
 耳元で優しく呼んでやると、月光を柔らかく固めたようなその青年が、はじめて表情らしきものを見せた。
「――ふふ」
 力無い声であったが口もとをゆるめ、青年は確かに小さく笑った。
「今日は…ずいぶん、楽しい…ゆめだな」
「――」
「…目の前に、真田がいる、なんて」
 それだけを言うと、またかれは力つきたようにとろりとした視点のあわぬ目つきに戻ってしまった。
 その目に唇を寄せ瞼を閉じさせると、侵入者は優しい声で囁いた。
「大丈夫だ、夢ではないから」
 青年には聞こえたかどうかはあやしい。閉じさせられた瞼を再び開けようとすることもなく、かれは大人しくそのまま眠ってしまったからだ。
 そのまま、何か感慨深げに腕の中の重みを確かめていた彼であったが、入口の扉が勢いよく開いたので、またあの厳しい表情に戻ってそちらをみやる。
 入口にはみっともない格好で転がされた小太りの中年男と、それを蹴り転がしたであろうブン太、ジャッカルの二人が、少し意地悪い笑みを見せて彼に頷きかける。
「作戦かんりょー」
「真田も無事で何よりだ」
 二人の背後では無言で倒れる男達の骸、そうしてうすものだけをまとった若い娘達が二人、身をよせあって震えている。
「あー、その、娘さん達」
 ジャッカルが無理をしてにっこりと笑いかけたが、余計に怯えられてしまった。
「ねえねえ、おねえさんたち」
 ジャッカルを押しのけて、今度はブン太が彼女らに笑いかける。
「途中の用心棒さんたち全員殺しちゃったから、逃げるんなら今のうちだよ」
 どこか場違いなほど優しい声で言うと、娘達はおっかなびっくり顔をあげる。濃い化粧で判りづらくはあったが、まだほんの少女のようだ。
「裏口にいたのも殺した。たぶん、俺達みたいなこういうカッコした男が途中にいるだろうけど女の人は殺さんから安心して――こいつは」
 と、ブン太が足下の男を踏みつけると、男はみっともない声でまた喚いた。
「こいつは、俺達の御用で当分ここにいてもらうし、君達をおっかけていけねえから。逃げたいんなら、早くそうしなよ。じゃないとまたろくなことになんないよ」
 娘達はしばらく顔を見合わせていた。が、やがてあわただしく立ち上がると彼らにぺこりと頭を下げ、そのまま手を取り合って階段の下に消えてゆく。
 じゃあねえ、気をつけてねえ、と愛想よく手を振っていたブン太だったが、それに紛れてこそこそ逃げだそうとする男の尻を蹴り上げるのは忘れなかった。
「さーて、と」
 背の高い、しかもそれぞれに異なった得物を持つ男達に取り囲まれ、館の主は今にも失神しそうだった。
 背後には浅黒い肌の禿頭の青年と、可愛らしい顔立ちに似合わぬ、悪魔のような返り血を浴びた少年。
 そうして目の前には――空気を震わせるほどの怒りに満ち満ちた青年が立ちはだかっているのだ。
「ジャッカル」
 青年は男の背後のひとりを自分の近くに呼び、手に抱えた細長い布包みを手渡す。
 僅かに布の間からこぼれ出た髪で、それがこの部屋に長い間男が閉じこめていた人間であるとさとる。
 どうやら彼らは、男の大事な金蔓であるところの"片金瞳"を奪っていこうとする強盗らしい、と男はあたりをつけたようだった。
 それならば…強盗ならば金次第でなんとかなるかもしれない、と一条の希望を見いだした男であったが、次にかけられた声は震え上がるほど冷たく、その交渉ごとを行おうとする男の勇気をくじくには十分だった。
「一年と半年前、北の国からこれをさらったのは、お前か」
 男の真正面にいる青年は、地獄のそこから響くような声で尋ねた。ぎらりと光る剣の切っ先を男の喉元につきつけたままだ。
 ひっと叫んで男は後ずさろうとしたが、待っていたのは少年の容赦ない蹴りだった。
「わ、わしじゃない、わしじゃない、違う」
 ぶざまに床に伏せながら、男は頭を抱え込んだ。
「では誰だ」
「な、な、流れの人買いだ。か、片金瞳がいたなら高く買うからと話したら連れてきたんだ。そ、それからはそいつらには会ってない、本当だ」
「――たぶんこいつじゃないだろう、真田」
 ジャッカルが、汚物でも見るような目で男を見おろしながら言った。
「こんなヤツにあんな大それた真似は出来ないだろうしな。――じゃあ、これを連れてきた男達の名前はなんて言うんだ。取引したなら、覚えてるだろ」
「し、知らん」
「知らねえってこたあ、ないだろに」
 また後ろから蹴りが入って男は悲鳴を上げて床を転がった。
「あれを連れてきた連中にさ、俺達ちっとお話しがあんのよ。――名前と居場所、とっとと吐きな」
「知らん! ほんとに知らんのだ、頼む、信じてくれ」
「ほんとかあ?」
「本当だ! あ、ああいう裏の、正規の奴隷商人でない人買いの連中は、顔を見せるのもいやがるし名前も名乗ったりせんのだ。く、黒い布ですっぽり頭から身体を隠して、目しか見えなかった」
「――」
「ほんとだ、ほんとなんだ」
 涙と鼻水で顔をべたべたにしながら足にすがりついてくる男を、ブン太はまた容赦なくけっ飛ばした。
「真田よう、こー言ってるけど」
「――本当に知らないんだな」
「ほ、ほ、本当だとも」
 男の視線は、おろおろとそこにいる者たちの間をさまよっていたが、ジャッカルに抱えられたものにふと目を留めると、途端にそちらを指さして喚きはじめた。
「そ、そいつなら、どこの廓に売ってもいい値がつくぞ、生娘の三倍は確実だ、北の国の貴族の持ち物だったというからな。わしの命を助けてくれるなら、そのまま連れていってくれていい、心配するな、役人に訴えたりせんから」
 男は卑屈に笑いながらあせって媚びた。
「とんだ強情者でずいぶんわしらも苦労したがな。薬でおとなしくさせるしかなかったが、いやなかなかたいしたもんだぞ。そ、そうだ、おまえらも売り飛ばす前に楽しんでみたらどうだ。どんなことでもするぞ、ここにいる間にすっかり男の味を覚えて、ずいぶん」
 男の聞くに耐えない下品な喚きを遮ったのは、細く鋭い風の音だった。真田の剣が横なぎに払われた為におこった風の音であったが、男はそれを知る機会を永遠に失った。
 風の音とほぼ同時に男の首は胴体から切り離され、醜い媚びの表情もそのままに転がっていった。
 首はごろごろと床をころがり、部屋の隅に放られていた首を折られた男の死体にどんとぶつかって止まった。しかし侵入者達はそんなことなどもう気にもせず、首のない男の死体など見るのも汚らわしいというように目を背け、脱出にむけて動き始める。
 真田がジャッカルからその包みを返してもらう間に、ブン太が懐から細い筒のようなものを出し、口に当てて思い切り息を吹き込んだ。
 高い、そして細い細い呼び子の笛の音が、夜空に響く。
 ひといきにそれを吹くと、ブン太は率先して階段を下り出した。
 剣の血糊をぴっと払いながら、なかなかそのいたずらっ子のような少年は満足していないと見え、できれば誰かもう数人ほども襲いかかってきてくれぬものかと物騒な期待をしているかのようである。しかしその残酷な子供の期待に応えることが出来そうな者たちは、既に命のない骸となって石の螺旋階段のあちこちに転がっており、ブン太にはつまらなさそうに足で蹴りどけられるばかりだった。

「下で赤也が待ってる、真田」
「――ああ」
「幸村はだいぶ弱っているのか」
「――…」
 真田、と呼ばれた窓からの侵入者は答えなかった。ただ、夜の外気にすらあてぬように大事にくるんだその青年の身体をぎゅっと抱きしめただけだ。
 こうして親しく抱きあげたことなどない身体だったが、それが健康な青年と比べて異様に軽いのはよく判る。不摂生な生活を強いられていたのだろうと思うと、今からでも戻ってさっきの男達の骸を踏みつけてやりたい心境だった。
 男達は、それきり無言で螺旋階段をひたすら下り続ける。やがて地上の扉にたどり着き、宵闇に身をくらませることになるだろう。



 こんなふうになるなどと誰が予想しただろう――真田は、腕の中の悲しいほど軽い体を抱きしめて、彼らしくもない懐かしい感傷にふと心を捕らわれるのだった。



 
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