鳥の声がする。
 こんな、少し冷えてはいるけどさわやかな朝に鳴く鳥の声。
 なんと教えてもらったんだったか、ヒバリ、キビタキ、ホトトギス。
 鳥の名前花の名前、昆虫の名前。そんなことは驚くほどよく知っていた『彼』であったから。それこそ驚くほどたくさんの鳥の名を、花の名を、虫の名を。

――ああ、また鳥が鳴く。
 
 ヒバリ、キビタキ、ホトトギス。
 高く高く青空を突く、見えぬ細矢のような甲高い声。

 鳥の声。
 夏の日。
 いつも思い出すのはあの夏の日だ。



 不思議なものだ、と思う。
 幸福な記憶のなんと暖かなこと。
 二度と再び自分に訪れないとしても、それが心にあるだけでどうしてこんなに暖かな、優しい気持ちになれるのだろう。
 実際に伸ばした指先には、凍るような闇ばかり。けれども心にその幸福なひとときがあるだけで、何故こごえることもなく生きてゆけたのか。
 本当は二度とあたためられることなどないというのに、
 帰る場所などなくとも、まるでその記憶こそが自分の拠り所のようだ。

 嗚呼、そうだ。
 探すことはなかったのかもしれない。
 探して、彷徨って、これほど世界に爪痕を残して――そんなことをしなくとも。
 最初から。

――世界のノイズ。

 そうだとも、最初から。




「お目覚めのようです」
 その鳥の声よりはずいぶん近くで、静かな女の声がした。柔らかい声だ。夢うつつに聞かされてもさほど気には障るまい。
――いや。夢ではないのか。
 鳥の声も、その誰とも知れぬ声も、そういえばやたらリアルに耳に届く。
 人の気配。――誰かが近寄る気配がする。
「お静かに。昏睡の期間が長くておいででしたので、ちょっとしたことでも刺激になります。くれぐれも興奮させないように。まずは私がお話してみます」
 女は、誰かに話しかけているようだ。ごくちいさな声で。たぶん自分を気遣うために。
 だれだ、と問おうとしたが、唇が動かない。
唇だけではない。身体も動かない。
 己の意識はともかく、ここまで重たくては本当に身体と言うものが存在しているのかどうか――ずしりと重い闇泥にまとわりつかれ、己の存在そのものをひしがれているような感覚である。声ひとつあげられないこの状態で、いったい自分はどんなすがた、様子になっているというのか見当もつかぬ。
 と。
 絡み付いた闇の一部がふっと溶けて、そこからほのかに温かみが伝わってくる。
 手。
 手だ。
 誰かが、自分の手を握っている。
 そこで暖められることで、初めて自分に手があることを思い出したようなものだった。
 手。たぶん、右。
 そう、右のほうの手だ。感覚はある。力が入る。
「お気づきですか」
 その手とは、たぶん逆方向からであろう、先ほどの優しい女の声が聞こえた。
「無理にお答えにならなくて結構です。もしもわたしの声が聞こえたなら、目蓋を少しだけ動かして――そう、そうです。ああよかった、お目覚めになられた」
 女の声が、控えめであったが喜びに緩んだ。
「これでもう大丈夫。さあ、もう少しお休みください、何も考えず。次はもう少し意識がしっかりとなさるはずです」
 それに応じるように、右手の温かみが少し動いた。離れていくのかと不安になったが、ぬくもりはゆっくりと動いている。たぶん手をさすってくれているのだ。
優しい、いたわりに満ちた手の動きだった。そこから己の輪郭がはっきりしていくような気がする。
 そのまま撫で続けられたいような欲求すら沸いてきて、彼は小さく笑った。もちろん、手も足も身体の何処も動かないので、意識の隅でそういう気になっただけであったが。
まるで小鳥の雛のようだ。くすぐられて甘やかされるのが当たり前で、撫でるのをやめると途端に怒るような。

 いつまででも撫でていて欲しいんだよ、鳥の雛は甘えん坊だから、と。
 そう、それも教えてもらって。

――ああ。
――そう、『彼』に。

 鳥の名、花の名、虫の名。いろんなことを教えてくれた『彼』。
 ヒバリ、キビタキ、ホトトギス。

 その記憶がはっきりとした形になる前に、ぼんやりと意識は薄らいでゆく。それでも、また眠りに落ちるのだ、と思う程度の余裕はあった。
 どうかごゆっくり、と女が精一杯のいたわりをこめて囁いた言葉が、かすかに耳に届く。
「もう何の心配も要りません。ごゆっくりおやすみなさいませ。……ルルーシュさま」
 その言葉の柔らかさもさることながら、右手のぬくもりが離れていかないことに安堵する。その温かみがまだずっと手を包んでいてくれるのだ、と思ったせいか、睡魔を受け入れるのは比較的易かった。

 大丈夫、怖い夢は見ない。
 記憶だけの拠り所でなく、この手がこうしているかぎり。
 








 その日は――と言うかその日も、一日を通してずいぶんうららかであった。

 春爛漫というには少し遠いがそれでも冬の、あの厳しい冷え込みは感じられない。日中に戸外に出れば日差しは十分暖かで、過保護に羽織らされた上着が少しうっとおしいほどだ。
「最近は毎日、良い天気で何よりですわ」
 女――咲世子、という名の彼女は、にっこりと笑ってそう言った。
「このお館は春先にはずいぶんたくさんの花が咲くそうですのよ。そのかわり秋から冬はうって変わって寂しいとききますけれども。よいときをごらんになれそうですわね、ルルーシュ様」
 そういって彼女が見まわす周囲は、なるほど春先に相応しく、あちこちで白やピンクや、薄青といった、優しい色調の花ばかりがほころび始めている。
 そこは春先の緑に相応しい、煉瓦で造られた館であった。
 周囲を山に囲まれてはいるが、人間が暮らすための場所には十分心配りがなされ、けれども決してこの自然の只中にあることを忘れないように緑との調和を考えられた洋館である。豪奢な噴水や彫刻や東屋こそしつらえられていないが、ひとつひとつ丁寧に手で埋められた煉瓦の小道と、小鳥のためのごく小さな泉水などが置かれている。
 煉瓦の小道は、造られてから長い時間がたっているのであろう、ところどころ苔むし、隙間から絹糸のような下草やごく小さな白い花などが生えていた。煉瓦造りのこの館じしんも建てられてからずいぶん経つのか、壁の一面には蔦が美しい文様を作りながら伸びている。
 だからといって決して、廃墟にありがちな荒れ果てて物寂しい様子ではなく、むしろ時間が経ったぶん重厚で深い落ち着きを持ち、きっと室内も古き良き時代の家具や装飾が上品に配置されているのだろうと心地よく想像できそうなたたずまいである。実際に館の中はその通りに、古式ゆかしく誂えられていたが、また一方ではこの古色蒼然とした様子からは思いもかけないような最新設備が備わっていもするのだ。

 ともあれ――。
 時の止まったような洋館、煉瓦の小道とやわらかな芝生、その周囲に咲き初めようとする春の花々。
 春先の山間の光景としては、これ以上はないほど穏やかなようすであった。
 けれども、その穏やかさを美しいとは思いながらも、『彼』はどこかぼんやりとしていた。
「俺は――どうしていたんだろう」
 独り言のように呟いたのが聞こえたのだろうか、咲世子はゆっくりと寄ってきた。あまり傍らで世話を焼きすぎると、彼がわずらわしく思うかも知れないと、少し離れて様子を見守っていたのだ。
「どうかなさいましたか、ルルーシュ様」
「いえ、あの」
 困ったように顔をして『彼』――ルルーシュは彼女を見上げた。椅子に座ったままの姿勢では、どうしても見上げる形になってしまう。
 印象的な紫色の瞳が、瞬く。
 生きた宝石だ、と彼の瞳のことを称したのは誰だったか。
「まだ、なにも思い出せないのがもどかしくて」
 どこかまだ夢見ているような表情でぼんやりと彼は言う。
 

 そのうららかな春の庭先に椅子を出し、座り込んでいるのはひとりの少年だった。
 少し細すぎる体つきであったが、もし見るものが傍らの女の他にあれば思わず目を見張らんばかりの美しい少年である。
 人形のような、または絵に描いたような、などと称えられることが多かろう。あまりに綺麗が過ぎて、それこそ月夜の城か森深くのきらめく湖水かと言ったような、少女たちの為の浮世離れした物語にしか登場しそうにない少年である。
 長く床についていたために僅かに面やつれしてはいたが、それがまた、雨に打たれた花のような、痛々しいはかない印象を与える。少しばかり伸びた黒髪は白い面輪にまつわりつき、紫紺の双眸に映えてなまめかしい風情すらあり、どことなく目のやり場に困るような美しさでもあった。
「すぐに思い出そうとなさるのはよろしくありませんと、昨日も申し上げましたのに」
「でも……」
「ルルーシュさまはひどい事故に遭われたのです。そのときのショックで記憶が混乱なさっておいでなのですから」
「事故――」
 覚えていない、と言うようにルルーシュは頭を振った。
 ただ、体中が痛いのはよくわかる。外に出るときは、たとえ人目がないとわかっていても必ず着替えるようにしているルルーシュだが、いつものシンプルな白シャツと黒いパンツに身支度するだけでも、痛みと戦いながらずいぶん長い時間をかけているのだ。
 長い間昏睡から目覚めなかったので、体中の筋肉が衰え、それでなくても細身だったのがさらにやせてしまっていた。
 それだけ長いこと床についていたにもかかわらず、まだ胸元は白い包帯でぐるぐると巻かれていて、なるほど余程の怪我を負ったのだろうと思われた――だが、そのあたりのことがどうしても思い出せない。



 先日、気がつけばこの山奥の館にいた。
 そのときそばにいたのは、長く自分と、そして体の不自由な妹との面倒を見てくれた女性であった。
 無論、気づいた当初はそんなことに思い当たることさえ出来なかった。
 チューブから栄養剤を打たれながらひたすら眠り、時折目覚めてはまた眠る。
 とにかくルルーシュはそうやって僅かに意識を取り戻してまた眠って、ということを繰り返し意識が覚醒している時間を徐々に長くしていくほかなかった。言い換えればそこまで眠り続けなければならないほど体のダメージが深刻であったのだろう。
 ようやく、それでも一時間二時間と続けて起き上がれるようになってから、自分が事故に遭ったという話をしてもらえたのである。
 事故の詳細については教えてもらえない。まだ記憶が不鮮明なうちに他人から情報を与えられるのは、回復の妨げになるのであるという。
『申し訳ございませんが、ルルーシュさまがご自分で思い出さない限りは、あまり以前のことを申し上げないようにとの事でした』
 誰がそんなことを、と聞くと、この館の持ち主で少年を診た医師でもある人物だ、と咲世子は言う。その持ち主が、ルルーシュの静養と本復のために此処を貸してくれているらしい。
『お医者様は本業ではないと仰せでしたが、大丈夫でしょう。おふざけのお好きな方ですが決してルルーシュ様に悪いようには――ええ、もちろん、このお屋敷は古いものですが敷地のセキュリティは最新のものをいれております、ご安心ください。今はなによりお怪我を治しませんと。私も看護師は本業ではありませんが心得はございます、どうぞ日々のお世話はご心配ありませんように。……大丈夫ですわ。ご自分のお名前と、それからなによりナナリー様のことを覚えておいでだったのですから、何の心配もいりません』
 彼女は遠慮がちであったが、最大限の労りと優しさをこめてルルーシュの手をとり、こう言った。
『いままで、あまりにご無理をなさりすぎたのです。どうか、もうこれからはご自分のことを第一に。誰のためでもなく、御自分のためにご養生なさいませ。……そう、此処には貴方を追い立てるものも、責めるものも、なにひとつないのですから』



 ゆっくりと眠るための薬や点滴のせいなのだろうが、起き上がれるようになったといっても、うつらうつらとする時間のほうが長い。あまり急激に目覚めている時間を増やすと、脳にもよくはあるまいということでまだ半分以上ベッドの中で眠ってすごす。
 どのような状況で、どこをどんなふうに負傷したのかは、これまた精神衛生上あまりよくないからと言って教えてもらえなかったが、ただ左胸の激痛だけが異様であることは身をもって知っている。
 軽く咳き込んだだけでも、全身に響くような激痛が走る。そのせいなのだろうか、呼吸も出来る限り注意深く、また安定したゆったりしたものでないとよくないらしかった。さもなくば恐ろしい痛みは体を苛んで、それでなくとも遅々とした回復を遅らせる。どころか、さらに悪化させかねないというのだ。
 必然的に――と言うか、移動はもっぱら車椅子を使うことになってしまった。
 それは電動のもので、長時間座っていても身体に負担をかけない。振動にも出来るだけ配慮がされ、多少の凹凸など腰掛けるものには伝わりもしない。肘掛の先についたセンサーに指先で触れ、なるべく少ない動作で方向や速度を操ることが出来るのだ。
 まだ体中の筋力が回復しきらない、ということもあるが、ルルーシュ本人が少しでも気を腐らせることなく、良い気分でいたほうが治療の助けになるということなのだろう。
 そういうわけで、今日は気候がよいのでと言うことで表に出ている彼が、ゆったりと身を預ける背もたれの高い革張りの椅子こそが、丁寧に、そして出来るだけ高性能に作られた特別な車椅子なのであった。
 回復しきらない身体であっても、これでかなり自由に動き回れる。それでなければたいていのことに我慢強いルルーシュであっても、さすがに気鬱になっていただろう。

「ずいぶん車椅子の扱いがお上手になられましたね、ルルーシュ様」
「そうですか」
 ルルーシュは微笑んだ。その微笑もはかない花のような印象を受ける。
「それでもやっぱりナナリーのほうが上手いですね。帰ったら、教えてもらわないと」
「――」
「咲世子さん。ナナリーはどうしていますか」
「――」
「心配しているのではないでしょうか。せめて、連絡だけでも」
「ナナリー様なら大丈夫ですわ」
 咲世子はことさらきっぱりと、にっこりと笑った。
「信頼のできる者をつけております。わたくしが直接、指示を出しておりますのでお身の回りのお世話も不自由はございません」
「でも、俺がこんなに長期間家をあけては心配するでしょう。それでなくてもナナリーは足が不自由で……目も見えなくて、心細いに違いないし」
「――」
「咲世子さん?」
「大丈夫ですわ。むしろ、今心配なのはルルーシュ様です」
「俺?」
「ええ。もう少しお元気になられませんと、お帰りになっても余計にナナリー様にご心配をかけてしまわれますよ」
「……」
「ナナリー様はお怪我をなさっているお兄様に無理をおっしゃるほどわがままな方でも、何も出来ない方でもございませんよ。むしろしっかりなさりすぎて、こちらが驚くほどです。――今はナナリー様を信じて、ナナリー様の大事なお兄様のほうはちゃんとお体を治しませんと」
「そう、かな……」
「そうですとも」
 咲世子は優しくうけあった。
「せめてご自分の足で歩けるようになるくらいにはなりませんと。それにはリハビリですが、リハビリのためには体力をつけねばなりません。衰えた筋肉を鍛えなおすには気力も体力も大変必要なのですから、体力をつけるためにはまずもう少ししっかりと食事を召し上がって――」
「わかった、判りましたよ、咲世子さん」
 ルルーシュはやっと、いくらか元気のある声で笑った。
「わかっていただけましたか」
「かなわないなあ、もう」
 くすくすと声を立てて笑うルルーシュも久しぶりで、咲世子も嬉しそうに顔をほころばせた。
「もちろんルルーシュ様のご心配もよくわかります。もう少しお体がよくなりましたら、ナナリー様にお手紙を書いていただくのはどうでしょう。ナナリー様のお手元に直接持っていかせるようにいたしますわ」
「そうですね。そうしてもらえると助かります」
「電話でも出来ればいいのですが、あいにく此処には通信設備が整っていなくて……このように景色はいいのですが、なにしろ山中で、このお屋敷も古いものですから」
 咲世子はことさら明るく笑った。
「さあ、そうとなれば私は、少し早いですが夕食の下ごしらえをしてまいりましょう。今日はルルーシュ様のお好きなものをおつくりしますからね。そうそう、昨日新しくて大きな卵がたっぷり届きましたから」
 プリンも作っておきますよ、と彼女は小声で、茶目っ気たっぷりに囁く。
「ありがとう、咲世子さん――……あ、そうだ」
 微笑んで素直に礼を言いながら、ルルーシュは以前から気になっていたことをついでのつもりで質問する。
「俺が、ここで気づいたときに声をかけてくれたのは咲世子さんでしたよね」
「ええ。わたくしです」
「ほかにもうひとり、いませんでしたか」
「もうひとり、とは」
 咲世子はルルーシュのひざ掛けを見るふりをして、何気なくかがんだ。表情の微妙な動きを、この聡い少年に気取られないためでもあった。
「咲世子さんが話しかけてくれた反対側のほうで、誰かが手を握ってくれていた、ように思う」
「……」
「思う、んですけど」
「気づかれたときにそばにいたのは、わたくしだけでしたわ。――それは、夢を見ておいでだったのでは?」
 顔を上げた咲世子はいつもの表情だ。はしばみ色の目をした、不思議に日本的で綺麗な女性である。
「夢……」
「さあ、それでは私は少し失礼いたしますね」
 咲世子は笑顔ながらも、少し強引にこの話題を打ち切った。
「何かございましたら、お手元のブザーでお呼びください。すぐに参ります。何か飲み物をお持ちしておきましょうか」
「いえ、大丈夫です」
「そうですか、それではしばしの間失礼させていたきます」
「すみません。治ったら、俺も手伝うようにしますから」
「まあ、それは嬉しいこと。期待していますわ」



 そうして――。
 咲世子がすがたを消してしまうと、周囲は急に静けさを増した。
 鳥の声はし、風に草そよぐ音もしているのだが、妙にしんとしている。
 ルルーシュはため息をつくと、ゆっくりと体を背もたれに預けて目を閉じた。
 静かで美しい山中だ。緑の匂いもすがすがしく、少し行けば湖畔もあると聞く。こんな何もかも整えられ尽くした場所に、咲世子以外の誰ともあわずにいると、何とはなしに現実味がうすれてゆくような気がする。
 日々寝たり起きたりを繰り返しているせいもあるのだろうが、それでなくとも夢と現実の判別がつきがたい現在の状況にあって、ルルーシュの現実感の喪失も無理からぬことであったかもしれない。

――世界は、何処にあるのだろう

 自分はなんだか遠い場所に、ひとり置き去りにされているような気がする。
 何かとても大事なことを果たさなければならないという焦りのようなもの。そして、また一方で本当に大切なことはすべてやり遂げてしまい、もう自分にとっては何もかもどうでもいいのだ、というような投げやりに似たもの。
 記憶の曖昧さも手伝ってか、ルルーシュはその、なんとも形容しがたい焦燥と諦観とに繰り返し苦しめられている。
 自分の身に、何があったのか。
 先述のように咲世子はルルーシュの遭った災事については殆ど話さなかった。自分の、おぼろげに残る記憶から推測してみようともしたのだが、いかんせん『失われた環』が多すぎる。己自身のデータがそろわない。
 自分の名前。
 体の不自由な、彼の妹。
 確か学校にも通っていたはずだ。
 しかしそこで仲良くしていたであろう友人の顔、さらに言うなら父や母、幼い頃のことなどは、近づこうとするといきなり輪郭が朧になる。
 在った、居た、ということだけはわかるのに、だ。
 かすかにため息をついたとき、ルルーシュの膝の上にごく軽い何かがとん、と乗ってきた。そっと目を開けて見下ろすと、この森に住むのであろう小さな小鳥だ。
 ひざ掛けの上の空間が柔らかく、暖かいのだろう。鳥は安心しきった様子で羽づくろいなどを始める。その様子に知らず知らず口元を緩ませながら、ルルーシュは出来るだけ身じろぎしないようにその小動物を気遣ってやっていた。
 こうして戸外でじっとしていると、膝の上に今回のような小鳥や、リスなどが乗ってくることがある。ルルーシュは殆ど動かないせいもあってか、決して危害を加えたりしないと動物のほうは安心しているようだ。咲世子が時折、パン屑や木の実などをルルーシュの膝の上においてやったりすることもあって、最近はすっかり小動物たちのなじみの場所になっているようだった。
「――ああ、何かおまえの食べるものを貰っておけばよかったかな」
 ルルーシュが呟いた。小鳥はふいと顔を上げてルルーシュを見たが、すぐに何事もなかったかのように羽を整えつづけた。
 自分は、動物を特段可愛がるたちではなかったろうが、それでもこうして無心に近寄りあどけない姿を見せるものは、素直に可愛らしいと思う。
(なんていう種類の鳥なんだろう)
 『彼』に聞けばよくわかるのに、とルルーシュはぼんやり思った。

 ヒバリ、キビタキ、ホトトギス。鳥の名前、花の名前、昆虫の名前。そんなことは驚くほどよく知っていた『彼』。
――彼。
――今、自分は誰のことを思ったのだろう。
(またいつもの、霞んで不確かになる記憶)

 つかめそうでつかめない――『彼』もそのひとつ。




 そのときだった。

 今の今まで、ふわっと羽毛を含まらせていた毛玉のような小鳥が、急にある一方を見やったと思うと、身を細めて飛び立つ。突然のことでルルーシュがきょとんとしていると、庭から続く森の中で、ばさばさと小鳥たちが飛び立つ音がした。
 大きな獣でもきたか、とそちらを見やる。――と、ちらりと森の中で黒い影が動いたのが見えた。
「……?」
 獣ではない。
 人影だ。
「咲世子さん……?」
 呼んでみたが、無論答えはなかった。
 いや、違う。彼女が移動したとは別方向だ。
「――誰だ」
 生活のために必要なものを定期的に運んでくる人間がいると聞いたが、その人物だろうか。
 それにしては、何か空気が違う。本当に、物資を運ぶための人間なら身をひそめている必要はないだろう。
 それに――それに、なんだか相手はこちらを伺っているような気がするのだ。
 息を殺し目を凝らし、自分の様子を。
「……」
 本能的に、緊迫した状況かもしれないと感じ取ったルルーシュは、満足に動かない体ながら森の中を見据え、用心深く車椅子のコントロールキーを指先で探った。
 何の目的かはわからないが、悪意を持つ人間ならばいまの自分では太刀打ちできない。かと言って、女性の咲世子を呼んだところで事態は悪いほうへと動くのではないか。
 かえって彼女を危険にさらすことにもなりかねない、と判断したルルーシュは、とりあえず相手の出方を見計らおうとそっと移動することにした。
 車椅子なので左右の移動は出来ない。じりじりと背後に下がる形になるしかない。
 が。

「――……あっ」

 急なことだった。
 車椅子の車輪が小さな障害物に乗り上げたのだ。
 無論、ある程度の衝撃は吸収できるようになっているし、多少の物など問題にもならないのがこの車椅子であったが、少し深く生えた下草に隠れていた古びた煉瓦をルルーシュは見落としていた。運悪くそこに乗り上げる形になったのだ。
 さすがに車椅子は激しくゆれた。まだスプーンを掴むのがやっとのルルーシュの手は、肘掛を掴みきれずに力なくすべり、跳ねた反動でいともたやすく地面に投げ出された。
 車椅子は、主が不慮の事態に陥ったことを感知し、ピピピピ……と耳障りな警報を鳴らし始める。ルルーシュは低く呻いたきり、声も出せなかった。
 軽い転倒であっても、今のルルーシュにはまるで何メートルもの場所から落下したような衝撃なのだ。せめてもの矜持で叫ぶことだけはせず、指先で地面を掻いて耐えるのがやっとだった。
 しかしのんびりともしていられないようだ。痛みと戦う中で、ルルーシュは木や草を掻き分ける音を聞く。
 隠れていた人物が姿を現すのだ、自分が倒れたのを好機として悪意ある何かを仕掛けるつもりなのかもしれない、早く咲世子を呼んで、いや駄目だ、彼女は女性で――。
 それでもルルーシュは、決して屈服しないという意思表示のつもりで、きっと前を睨みあげた。
 こんなふうに倒れた無様な姿勢で、どれほどの効力があるのかはわからなかったが、従容とするよりはよほどいい。
 固く健気な決意をもってルルーシュが見上げた先には。
 漆黒の闇があった。




 闇は人の形をしている。
 闇は年若い青年の顔を持っている。
 そしてルルーシュは、その闇の名を知っていた。



「――……スザク」
 突然に、その名は迸り出た。
 彼が誰で、自分にとっての何で、などということよりも先に、ただその名が。

 彼は、そう――真っ黒な服を着ていたので闇に見えたのだ。
 それは、こんな柔らかい光景の中にあるにはあまりに不吉な漆黒。
 世界にしたたり落ちた一滴の闇。
 ルルーシュがわずかに思い出した記憶の欠片よりも、枢木スザクは僅かにおとなび、顔立ちは精悍になり、まだ背は伸びていて、しかし。
 春の陽だまりのような笑みを浮かべる面影は、何処にもなかった。
 なによりも、ルルーシュが驚いたのは彼の――スザクの表情の険しさだ。
 まるで敵を見る目。油断ならぬ相手を見る目つき。険しく、厳しく、不穏な動きのひとつも見逃さないというような。
 ルルーシュはあまりのことに、呆然として彼を見ていた。みっともなく、地面に倒れこんだままの姿勢で。

「ス、ザク」

 彼はじっとこちらを見ている。ただ見ている、と言うにはあまりに鋭い、何か強い感情のこもった目で。

「スザク」
 知らずルルーシュは彼に手を伸ばした。
 よろよろと上がった手は、しかし彼の冷たい一瞥を受けただけであった。

(どうして)
 体の激痛と、現れた人物の衝撃で、ルルーシュは混乱する。
(どうして)
(どうして)
(彼)
(そうだスザク。――枢木スザク、彼は)
――彼は、俺の。


「ルルーシュ様……!」
 離れた場所から咲世子の呼ぶ声がする。車椅子のアラームに気づいて飛び出てきたのだろう。
 一瞬そちらに気をとられたルルーシュが、再び視線を目の前に戻したとき。

 黒衣の青年は、いつの間にか姿を消していた。








 
謳え、世界よ――魔王が失われた歓喜を。
 それこそが魔王の魂を鎮める詩。
 贄の祭壇に何を差し出したかを永遠に知らぬ――幸福な人々よ。



 
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