四国88ヶ所に並んで有名な西国33ヶ所を家族で巡礼した記録ですが、その年(昭和62年/1987年)は偶然「花山法王中興一千年記念」でした。そこで、ちょっと趣の異なったものにしてみました。
- 花山法王中興一千年記念でいただいた「散華(さんげ)」の紹介
- 御詠歌の御朱印の紹介
通常の御朱印は掛け軸に、納経帳には御詠歌を書いていただきました。
- 御詠歌の解釈例の紹介
山田意斎述の「御詠歌略述(1849年)」より。
- 観音霊験記の版画の紹介
万亭應賀記、豊國画。明治初期のもの。
花山法皇中興一千年記念「西国33カ所・観音霊場の美術」展にて入手したものです。
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左のポスターは見ての通り、西国巡礼一千年記念のもの。
周りの蓮の花びら状の札は「散華」といい、各霊場のイメージを石山石根画伯が描いたもの。
右の写真は、紀三井寺で撮った家族写真。
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西国巡礼の豆知識
- 西国33ヶ所巡礼の始まり
創始者は「徳道上人」といわれている。奈良時代・養老年間(717〜724年)の中頃、720年頃に上人は、閻魔大王に会い、最近地獄に落ちる人があまりに多いので、33ヶ所巡りをすることで極楽に行けることを広く知らしめるように頼まれたのが始まりである。
ちなみに徳道上人の廟所が、番外「法起院」である。

- 西国33ヶ所巡礼の中興
徳道上人の後約270年、平安時代中期・寛和2年(986年)、帝の座に着かれていた「花山法皇」は、陰謀により19歳で剃髪(出家)する事になり、西国巡礼を再興し、41歳の生涯を閉じるまで仏道と和歌に過ごされた。
花山法皇が得度した寺が番外「元慶寺」であり、西国巡礼の後5年間を過ごし、生涯を閉じられたのが、番外「花山院菩提寺」である。
その後鎌倉時代になると巡礼が社会的な幅を持つようになり、室町時代で民衆化しその装束が出来上がり、江戸時代になると実に多くの案内記、霊験記、地図が出版され庶民信仰が盛んになった。
- 納経帳
本来は、霊場を巡礼し書写の教典を納めると、受け取った印として宝印(朱印)を受領書に押したもの。
徳道上人と閻魔大王との約束により、納経帳を持っている人は地獄に落ちないと信じられた。
納経は、折り畳み式の帳面に押して頂く方法と、左の写真のように掛け軸に押していただく方法がある。
私は、掛け軸には普通どおりに御朱印と霊場名を
納経帳には、思いつきで御朱印とご詠歌を書いていただいた→掲載。
なお、左の掛け軸は2008年8月3日に高解像度で撮影し直したもの。
- 御詠歌とは、
西国巡礼の御詠歌は、花山法皇の御作と信仰されてきた。
「五、七、五、七、七」形式の和歌形態であり、観音礼讃のものであるが、御利益を祈り、霊異を賞賛し、また主にその霊場の風景の勝れていることや旅路の心情を歌ったもので、平安末期から鎌倉末期にかけて大部分がつくられた。
なお、普通は声を永く引き延ばして歌うことを「詠歌」という。
西国33ヶ所のご詠歌は、各霊場毎に載せていますので註釈とともに見てください。
- 法華経と蓮華
インドでは、泥中に咲く蓮華が、花・実が同時
に生じるところから、いのち、即・ほとけとなる花として、愛され、親しまれてきた。
法華経とは、正式には、「妙法蓮華経」という。蓮華のたとえをもって、仏さまが説かれたというお経という意味である。406年中国・長安大寺にて鳩摩羅什によって漢訳された。
- 観音経
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即
時
觀
其
音
聲
皆
得
解
脱
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一
心
稱
名
観
世
音
菩
薩
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受
諸
苦
悩
聞
是
観
世
音
菩
薩
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善
男
子
若
有
無
量
百
千
萬
億
衆
生
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佛
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無
盡
意
菩
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観
音
経
抜
粋
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観音経は、法華経・全28章のなかで「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第25章」に位置している。本来独立した経典であったが、法華経の中に組み込まれたとみられる。
そのため、観音経は独自の信仰形態を示し、「慈悲と心性とした」見ても、読んでも、聞いても美しい経典として多くの人々に親しまれてきた。
巡礼の歩みへ
履歴:
平成10年12月31日・・正式版公開
平成11年02月02日・・第27番・円教寺の散華、ご詠歌訂正他
平成11年09月05日・・ホームページ全面変更。御朱印掛け軸の写真挿入
平成12年02月18日・・巡礼の歩みの最後に「高野山・奥の院」のご詠歌挿入