ホームへ** 次へ 子どもとお出かけ

 
子供部屋
結婚10周年の夫婦に神様がプレゼントを下さいました。
それは、もう夫婦がすっかりあきらめていた赤ちゃんでした。
夫婦も回りの人たちもこの出来事が奇跡のように思えました。
赤ちゃんがお腹に居ると判った時から、プレ父・プレ母はお腹の赤ん坊に話し掛け、
歌い、外界の様子をテレパシー(?)で知らせました。
お腹に居た彼女はとても反応の良い子でした。
産まれる時も、プレ父の「もう出ておいで」という呼びかけの翌日に出てきました。
1996年7月、祇園祭の最中に誕生。出産予定日より3週間早かったにもかかわらず、
3014gありました。新生児の頃から、ニコニコとよく笑う子でした。


  ヨチヨチ歩きの頃には、よく公園までお散歩に出かけ、愛嬌を振りまき、
観光に来た方々の格好の被写体になっていました。
それもいつしか、頼まれもしないのに、撮影している所に乱入していく困ったチャンになりかけ、
母はあせりました。



  幼稚園1年目
2000年4月 娘は○○○幼稚園に入園しました。
縦割り保育で、子供達一人一人の個性を大事にしてくださる幼稚園です。
何時行っても、親も子もゆったりと迎えて頂けるので、
親の私まで完全に居付いて、誰が通っているかわからない状態になって行きました。
只、入園当初は毎朝門の所で涙の別れでした。
それでも、しだいに泣く時間も少しになり、いつものにこにこ子ルパちゃんになっていったようですが。

川崎病
7月7日、
園のお誕生会の最中に突然39度の発熱。
最初は夏風邪で、(耳のあたりのリンパ節を痛がってはいたけれど)すぐ治るものだと考えていました。
 それが発熱後3日目の夜、目が充血し、唇が赤くなり、
発疹がお腹・手・足と出現し、足の裏がパンパンに腫れ始めたのです。
2時間程の間にそれらの症状がバタバタと出始めました。
『家庭の医学』を調べて、しょう紅熱かと疑い、日曜日の夜でしたが、
病院に連絡を取って診察してもらいました。結果、川崎病の疑いが濃厚との事、
一旦帰宅して、翌日また来院するように言われて帰り、
眠れぬ夜を明かしました。

<入院1日目>
翌日、川崎病と確定される為の5つの症状のうち4つ(白目の充血、湿疹、リンパ節の腫れ、足の硬い浮腫」が揃い
次の日も解熱しなければ規定の5日以上となる為、
まず間違いなく川崎病でしょうという事で入院となりました。
血液検査やアレルギーテストのパッチテスト等の後、
栄養補給や抗生物質投与の為の点滴の針が右手につけられ、
子供が外せないように固定されました。

<入院2日目>
朝、診断確定。 昼、医師と薬剤師によるガンマグロブリン大量療法の説明。
川崎病が怖いのは,急性期の病状もさることながら,
発症後10%の確率で発生する(コレがもとで亡くなる子は現在では、極稀です。)心臓冠状動脈の病変にあります。
心臓冠状動脈瘤、冠動脈の拡張、心臓弁膜の障害、心膜液貯留心筋炎、狭心症、不整脈等といったものです。
心臓冠状動脈瘤は、心臓へ血液を流れにくくし、やがては心筋梗塞を引き起こす原因ともなるものです。
これらを防ぐという目的の治療でガンマグロブリン大量療法は、かなりの効果を期待できると言う事でした。
でも、このガンマグロブリン(娘は献血ベニロンを使用しました。)が加熱の血液製剤であり、
血液に含まれる成分から引き起こされる感染症のうち
予見できるものに関してはその感染源となるウイルス・菌等の危険性は取り除けているが、
未知のものは当然現状ではカバーできない。
もし、そのような危険のある成分が発見された場合は、可及的速やかに対処しますとのことでした。
将来に少なからずの不安を抱きながらも、
今、心臓をやられてしまってはどうしようもないと、誓約書にサインしました。
治療は深夜からはじまりました。
点滴チューブの他に、体中に心電モニター用の吸盤を付けられて、
四六時中娘の心臓の状態はナースセンターでチェックされていました。
娘が動いた拍子にパッドが外れるとすぐに看護師さんが飛んできて下さいました。
ガンマグロブリンは点滴で48時間かけていれられました。
点滴の途中でショック状態になる場合も極稀にあるとかで、
30分おきに、看護師さんが脈と血圧を測りに来てくださいました。
看護師さんの献身的な看護にはただただ頭を垂れるのみです。
親の私も精神的にどれほど助けていただいたかしれません。

<入院4日目>
この療法が効を奏し、解熱しました。
この療法が効かない子供もいると聞いていただけにほっと胸を撫で下ろしました。
食事も口から取れるようになってきましたが、
ベロンと剥けた唇の皮がまるでくちばしのようになっており、
皮がめくれ血の滲む唇には塩気がしみるようで、食べるのに苦労していました。
発疹もいろんな種類の物が足やお腹・手に出、これは、川崎病のもの、
これは夏風邪のもの、これはあせもといろいろ出来、
それによって薬も変わりました。
解熱後、すぐ、心臓のエコー検査をしました。
幸いな事に瘤は見つかりませんでした。

<入院6日目>
かなり元気になって暇を持て余し始めていました。
それで折り紙、ちぎり絵、
紙工作に変身グッズを作って看護師さんに披露していました。
付き添うほうも気持ちにやっと余裕が出てきて、園のお母さん達に電話連絡が、できるようになりました。
川崎病は原因不明と言われるだけに、退院してから娘が何らかの差別を受けないか内心とても心配でした。
でも、それは、連絡を取ってみて杞憂に終わりました。
「川崎病罹患児が近所に居てて元気にしているよ。だから、大丈夫だよ。」とか
「子供を連れてお見舞いに行くよ」とか常と変わらぬ温かい言葉をかけてもらって,ほっと胸をなでおろしました。
(2学期が始まってから、何故入院していたか、尋ねられる機会があれば包み隠さず話しました。
伝染するのと聞かれる方には、急性期の激しい症状のときでも大部屋で隔離はしないと話せば解かって貰えました。
以降幼稚園でも友だち関係でも、病気のことで嫌な思いをした事は、ありません。)

<入院7日目>
心電モニターが外されました。これで大分動き易くなりました。

<入院8日目>
点滴も外され、部屋から出て、同階にあるおもちゃスペースへ行ってもよいということになりました。

<入院9日目>
シャワーを浴びることが出来ました。看護師さんが来られる度に、手指の爪あたりの皮向けの有無を
調べられていました。川崎病の回復期に出るらしいのですが、結局娘は剥けませんでした。

<入院10日目>
37度2分程の熱を出しましたが、本人はとても元気でした。

<入院11日目>
園長先生と担任の先生がお見舞いに来てくださいました。本人は照れくさそうでしたが、とても嬉しかったみたいです。

7月22日<入院12日目>
待ちに待った退院。
まだ、顔色も悪く、白目の充血も取れず、足も痛いとか言っていましたが、
3ヶ月位で、それらの症状は序々に消失していきました。

<退院後の心電図と心エコー検査>
退院してから1週間目(H13年7月)、1ヵ月後(8月)、
2ヵ月後(9月)
(この時、冠動脈が拡張してるかもといわれドキッとする。
ガンマグロブリン使用によって何らかの感染が無いかを調べる為の血液検査もする。)、
3ヵ月後(10月)
(前月分の経過をみる。心エコーの冠動脈計測の誤差だったという事で、ほっと胸をなでおろす)
6ヵ月後(H13年1月)1年後(6月)、2年後(H14年6月)
も異常無し。
3年後(H15年6月)、
小学校入学に伴い必要な負荷をかけた心電図(ルームランナーで全力疾走しながらと走り終わりに測る。)
安静時の心電図検査と心エコー検査、いずれの検査も異常無しで運動制限は無しになりました。
4年後(H16年5月)
H15年6月と同じ検査で異常無しでした。
5年後(H17年4月)
H15年6月と同じ検査で、スリムな体型の為、
心電図が普通より高めに出たけれど、
あわせて心エコー検査をしているので、異常無しというでした。
6年後(H18年4月)
H17年6月と同じ検査で異常無しでした。
発症後5年異常が見られなかったので次の検査は3年後です。

幼稚園2年目
 年中さんになる頃には、園にも馴れ、年少さんの面倒もよく見れるようになっていたようです。
園の給食は玄米菜食でした。
家でも赤ちゃんの頃から玄米で作ったお粥を食べていた彼女には抵抗無かったようです。
梅干は苦手だったんですが、園で食べているうちに大好きになりました。
これはとても助かりました。
御蔭で、多少便が緩むことはあっても、下痢で苦しんだ経験はありません。
運動量も増え、とても元気になりました。
春の遠足・梅干用の赤紫蘇むしり・夏祭り・お芋堀・秋祭り・収穫祭・
大根磨き(給食の沢庵になる)・クリスマス会・
お餅つき・大きくなった発表会。
年間の行事に楽しく参加する事ができ、充実した1年でした。
川崎病ショックで母は、ちょっとした風邪にもびびりまくり、お医者さんもあきれていましたが、
でも大事に至るよりは良いと、母の面の皮は益々厚くなっていったのでした。

幼稚園3年目   
YAMAHAの音楽教室幼児科に通い始めました。
 年長さん。縦割り保育の園では、年長さんにいろんな大事な役割を割り当てられるようです。
本人も、相当張り切っていました。
クリスマス会でのお星様の役を見詰めながら、
無事に成長してくれている事に喜び目頭が熱くなりました。
幼稚園が終わってからある課外の絵画教室に通い始めました。

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