磯砂山について(標高661m)(一等三角点)
 
天女(豊受大神)が降臨された山と言われています。
この地域には天女伝説が残っています。
天女が舞い降りて水浴した女池(めいけ)があります。
 
 羽衣伝説は日本各地に数多くありますが、和銅6年に丹後風土記に記されています
文字として残された日本最古の伝説です。

 天女が、奈具社や伊勢神宮の外宮の豊受大神になった話と、地元安達家に伝わる三右衛門(さんねも)と夫婦になったと伝わる2つの伝説があります。

右写真は昭和40年頃の写真です。
 
.加悦町の蛭子山古墳(古墳時代前方後円噴145m)は、この山を拝む形で築造されています。
 
.雨乞いの山でもあり、日照りの時、雨乞いの為に法塔を立てた(安政4年18 57年) が、雨の日が多く不作続きになった。法塔を除いたら(万延元年1860年) 日和の日が続 いた。との記録が残っています(加悦町西原氏の年代誌に明記)
 
.丹後半島の霊山であり日本海航路の目標であった。
 
この山は多くの別名がある。比治(ひじ)山、比沼(ひぬ)山、(あしうら)占山、真奈井(まない)山、伊佐(いさ)山、丹後富士などとも呼ばれる。霊山の由縁か?

山の形は日本海から見ると鯨の形をしている。鯨のことを昔はイサナ(勇魚)そしてイナサ山と言った。それがいさなご山の語源か?それとも??

一、伊邪那岐山(いさなぎやま伊邪那岐山(いさなぎやま)磯砂山とも 古図での名前であり大神の祠が書かれている。
  伊去奈子嶽(いさなごだけ)磯砂山とも
二. 比治山(ひじやま)ひじの里の山からなずけた。
山麓の鱒留地区の神社は藤社神社(ふじこそ)大宮町常吉地区は富持神社(ふじ)兵庫県但東町中藤地区は比遅神社(ひじ)があり同じ豊受大神を奉っている。 
三. 真奈井岳(まないだけ)(延歴儀式帳)
峰山町五箇地区盆地を真名井ガ原と言った。笛原寺は御大師さんと言われ、空海が「真名井ガ原にて説法をした」とある。
四. 足占山(あうらやま)(葦占山) アウラがアウロになり大呂地区の語源か?(七夕伝説で和名佐が陰陽師に天女の行方を占った故事による。)
五. 丹後富士 大呂地区から見ると富士山の形になっている。 

鱒留
の地名  時代によって変名

1.枡富の里  土形の里(ひじかたの里)丹後古事記
2.益富保   丹後国諸庄郷保惣田数帳1288年成相寺作
3.益富村   延宝3年1675年宮津藩検地帳
4.鱒留村   延宝9年1681年宮津旧記
5.マスオトメ村 河上摩須郎女の故事から
 
源平合戦の史跡(平重森ゆかりの地 清水ケ原 お屋敷 馬かけ場 駒返し 追掛の地名があります。鱒留地内にも史跡あり。)
           
室町時代 守護一色氏が丹後を支配
織田信長の武将 細川氏に攻められ滅亡
「陣の森」大谷刑部成家が沢田仙太郎に伐たれる
信長の「丹後真言宗倒し」により笛原寺炎上(元亀元年1570年)
江戸時代 宮津領 元和8年(1622年)
       天領  亨保2年(1717年)から久美浜代官所支配
 高橋正達の寺子屋明治4年死亡
明治以降 明治2年より久美浜県に
明治9年より京都府に
五箇村字鱒留となったのは明治22年
峰山町字鱒留には昭和30年 であった。
 

 鱒留には有名な神社「藤社(ふじこし)神社があります。
一説によると古老たちは、真名井神社はこの藤社神社が本家本元と説いている。

 この神社の境内には、伊勢神宮と同じ名前が残っておりそれが根拠になっているようだ。
詳しく事は、これからの検証が必要だが長らくそのままになっている。(詳しくは証明されていないようだ)

大路
の史
 
源氏が攻めてきた時、この土地に逃げてきた。それをもじってタイロ(リョ)(退路)をオオロと読み替えたとするとする説もある
それと、足占山をアウラ山と言い、それがアウロとなりオウロ----オオロとなった説もある。

大呂(後に大路となる)は七夕伝説.羽衣伝説の里である。これは、いさなご山に天女が舞い降りたとの伝記があり今も語り継がれていて、
安達家には弓矢、矢筒が現存している。
日本にはいろいろな所に七夕.羽衣伝説(沖縄県宜野湾市.滋賀県余呉町.鳥取県東郷町.静岡県清水市)があるが、弓矢他、現存しているのはここだけである。

天女(豊受の大神)(天女の一人)の里であり、比沼麻奈為神社が久次区に鎮座し伊勢神宮の外宮に遷宮された。
 
  他にも
但馬への重要な街道であった。
大路千軒と言われる程、大変賑わった時期があったとされる。
(千軒とは今で言う60軒ぐらいか?実際に古老が知っているのは30軒位)
七夕(安達家)の上地(ウエジ)を頂点として「カジリ」「アカサカ」「ナンガキ」「バンヤ」
「オボソ」「ムカイジ」「シモ」「エビスドウ」の別名の呼び名があり
名前の代わりに、たとえば徳田姓はアカサカ、安達姓はウエジ・サンエモンのサンサンなどと呼んでいた。
面白いことに、安達姓はこの地区に一軒だけである。なぜか?いきさつに興味が尽きない。

この「オボソ」は伊勢外宮の「ノリト」や「祝詞」に出てくる名前である。
「ウエジ」は天女伝説のある鳥取県東郷町の「羽衣石山」ウエシヤマ
「オボソ」は同じく徳島県海部町に「和奈佐意富曽神社」ワナサオフソ神社
島根県玉造町には「阿波来径和那佐神社」アワキヘワナサ神社がある。

七夕家(安達家)では連綿として旧暦八月六日七日にかけてお祀りしている。

1150年頃 正三位皇太后太夫藤原俊成卿が七夕家に来訪し家柄の古い事や故事を褒め称え、歌を遺していった。
 
「君が代は千代ともささじ天つちの出づる月日の限りなければ」
 
七夕家ではこれを軸物とし「家宝」として「七夕祭日のみ」上床に祀っている。
他にも、七夕さんには、矢筒の肩掛け、矢筒、矢じりなどが祀られる。
又、家紋も全国に一件しかない珍しい図柄である。

安達家は伊勢神宮お参りに際し、伊勢神宮公認の通行証があると聞いた。(これは大変名誉な事と筆者は思っている)


※藤原 俊成(ふじわら の としなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家歌人。最終官位正三位皇太后宮大夫。「千載和歌集」の撰者として知られる。


 長老より聞いた話 

大路は昔から「間道」と呼ばれる峠があり
クツ峠 大成を経て但東町中藤)
ツネヨシ峠 加悦、宮津に通ずる道
モチ峠 五箇に通ずる道
オボソ峠 大成より豊岡に通ずる道
奥山峠 オグツ谷経て久美浜の奥山に通ずる道
 
源氏の攻撃に備え、四方八方に抜け道を作ったとされる。大呂地区が平家の落ち武
者の里と言われる由縁であると思われる。(鱒留・大成に遺跡.がある)
当時は年中行事としてこの峠の道直しの村役があり保全に努めた。
  最近は利用されなくなり、跡形もなく原野になっているようだ!
 
  大路は庵寺が蛭子堂の墓の入り口に寺跡があり、今は石の仏像や法碑がある。
又、お宮の谷の上に広場があり、昔「鐘つき堂」があった。
七夕家の下には「お堂」があり石仏仏像が祀ってあった。
お堂には「ガン台」があり葬儀の時に使った{ガン台とは土葬の時墓所まで遺体を運ぶ台
宗旨は「曹洞宗」で本山は越前の永平寺、菩提寺は鱒留の全徳寺である。
大路は徳田姓が大勢を占めているが、元来、平家の落ち武者として平家滅亡時の天皇 安徳の徳を頂いたのではないかと推測する。
これは壇ノ浦の戦いで源氏に敗れた折、平家の武士が全国各地に散り散りになり全国各地に逃げ隠れたもので、

コ田姓を調べると、徳之島から岡山、四国、鳥取、北陸など方々に少数姓として点在する。(旧字のコ田姓)
北陸には、「徳田城」の跡もあり徳田は「得田」でもあったようだ。
{三州志、徳田城(土田荘徳田村)得田佐渡守が居たと云う}

大路に電気が通じたときの電柱は遠く間人(たいざ)より人力車で運んだとの事
乙女(おとめ)神社について乙女神社リンク

昔は乙姫神社との記載がある。古い幟(のぼり)にもこの字があてがわれている。
乙女に変わった理由は不明だが、七夕伝説の乙姫は恐れ多いとの事であったらしい。
同じように、この村で生まれた子どもには「オトメ」の名前は恐れ多いと古来からつけないでいて、現在までにこの「乙」を付けた名前は一人もいない。
現在の乙女神社は、神の山「権現山」の中腹にあった「吉野神社」と鱒留の田中姓の氏神「八柱神社」の分霊を遷宮して今は三社の社となっている。
石段も今より長くて立派な物であったが、道路拡張で削られた。残念である。
  
     境内には樹齢数百年と言われる「一本松」があったが、府道拡張で危険な為、伐採 された。高さが30m以上はあり周りは三人抱えもあっ     たとされる。
手洗い鉢は大正天皇の即位時に、地元青年団が奉納した。作成したのは鱒留地区の石工と聞いている。
境内には珍しい「神碑」六角塔があり拝敬している
今でも、遥拝所として{「遙拝」の意味は遠く離れた所から神仏などをはるかにおがむこと}乙女神社と愛宕(あたご)神社と二箇所があり、村人が古来より「日参」として交代で幟をもってお参りしている。
愛宕神社は、村入口右の山の上にあり、今は荒れ果てて参詣道もあるのかな??子どもの頃はチャンバラごっこでよく遊んだ思い出がある。
当時、朽ち果てた神社跡があった。

乙女神社の「神殿」は南垣の岡田藤四郎氏とが建造した。
芸術的にも逸品とされ、近郷の宮大工では上位に当たる様である。
産土神の神殿を地元の人が作ったと言うことは後生に残る美談であると伝えている。
又、立派な鳥居は比治山の石を使っている。石工は鱒留の岡田氏との事。

鱒留地区には比治山峠に大きな立派な石が取れ、当時は3〜4軒の石屋さんがあった。現在は1軒のみでさみしい限りである。
今でも比治山峠旧道には大きな石が散見する。

※八柱神社は字五箇天神ケ森に豊受気大神天降した時より鎮座していた。
二十二年に雄略天皇が伊勢国山田原に遷奉した記録がある。「五箇村誌」
 後に鱒留藤神社に合併して、田中氏が大呂に遷宮した。八柱とは、降臨した八人の神様(柱)。
 
 乙女神社の横を通る道(今の天女の里の上の道)はその昔「姨捨うばすて」と呼ばれていた。正確には、今の道の石垣の上に細い道があり、下は谷底で川が流れている。そこから老婆を突き落としたとの話がある。今は、川の横に道路ができ面影はないが、当時川までの高さは相当高かったと推測される。
 この話は、私も母から親戚から聞いてこともあり、長老も知っていた。そこは、「だいじんば」がどこよりも大きく育ち、まるで塔婆が立っているようであった、との事。
大成の史

大成(おおなる)の大部分の姓が大路の徳田姓と同じで、小倉姓である。(大成の語源は何かは知らないでいる。現在3軒の限界集落になっており、長老に聞きたいものだ!
この事から、滋賀県東近江市の永源寺町君ケ畑の山間に木地師の祖があり、そこから由来している。
 
第55代文徳天皇(850年〜858年)の第一皇子である惟喬親王「これたかしんのう」は次の皇位を継ぐ筈であったが、時の摂政関白、藤原良房の娘と文徳天皇の間に生まれた第四皇子、惟仁親王が第56代清和天皇に即位した。
  皇位継承に敗れた惟喬親王は失意の内わずかの家臣をつれ、貞観元年(859年)15才の時、都を逃れ小松畑と呼ばれていたこの永源寺君ケ畑の山中に幽棲したと  いわれている。今も山深い所に祭神が置かれ祭礼が行われていると聞く。
 
 惟喬親王は法華経の巻物の紐を引くと、巻物の軸が回転するのを見て轆轤(ろくろ)を考案発明したと伝えられている。轆轤を使い、木材を原料とし、こま、椀、盆、こけしなどを作 る人を「木地師」というが、以来、この地が良質の木材の産出することも相まって「木地師発祥の地」と言われるようになった。平城京に近いため公家で使う器は評判が良くとても繁盛したと言われる。
 
 惟喬親王は日本木地師の元祖とされ、この地から多くの木地師が日本全国に散らばっていったという。全国各地の木地師縁の家の多くは、今も君ヶ畑を本籍地としている。
小倉姓は惟喬親王が家臣実秀に小椋.小倉姓を授けて今に続いている。
この大成集落の戸籍他税もこの地が管理していて、今も君ケ畑に租税取り立て簿なるものが残っていると長老より聞く。君ヶ畑リンク
 
  面白い伝記が残っている。
昔、大成の川の下流大路に木の茶碗が流れて来た。これは何だ!奥に誰かいるのか?と言うことになり、川の上流を遡っていくと集落と村人がいた。当時、奥に行くには大きな滝があり、獣も通れない所であった。今でも人里離れた山深い所である。近江君ケ畑とよく似ている。
今でも道中の滝の所を滝谷と云っている。
 小倉OOさんの家には、当時の木の茶碗が残っており家宝にしているとの事。
 
大成地区の菩提寺は鱒留地区と違い、今でも山を越えた兵庫県但東町のお寺である。
小倉姓の方は、兵庫県方面の山を辿ってきた証である。
この木地師集団は世間から隠れて生活していた「山か」の生活様式をとっていたと思われる。
小倉性は天皇の血が流れている???かもしれない!もし鑑定できたら???!