「稲作発祥の地」?これは間違っているのではないか?
新聞報道によると、稲作が大陸から伝来したのは縄文時代晩期から九州北部に伝わった。
稲作の起源は今の中国雲南省(江南ルート)とされている。(DNA分析で明らかになった)
近年、これまでの通説を覆し、弥生時代より500年?も遡ったとの新しい見解だ。
これは炭素14という物質を使った精緻な年代測定法活用した結果だという。
朝鮮半島から伝来後、250年ほど九州北部にとどまり、その後、前7世紀には山陰に、前6世紀には四国近畿に及んでいる。
前4世紀には早くも青森県でも試みられている。稲作が海を渡った遠因には、紀元前10世紀大陸の戦乱もなく比較的穏やかな大陸西周時代に新天地を目指した可能性が高い。
新天地を目指す行為は、アフリカ大陸からの人類の辿ったそのものだ。(人類が北上移動したのは地球の冷暖が関係していると言われている)
又、今の中国大陸・朝鮮半島を出ると海流にのり、容易に九州北部または、日本海沿岸(島根・鳥取・京都丹後半島)にたどり着いたものと推測出来る。
現に、多くの大陸からの遺品が発掘されている(福岡県板倉遺跡.佐賀県菜畑遺跡-縄文時代の最古の水田跡)
もう一つのルートとして、東南アジアからのDNAも確認されている。
大阪弥生文化博物館にも上記の件が詳しく展示してあります。(当時のお米の化石など)
日本人のDNAもしかりで、日本人独自のものと東アジア大陸からのもの、朝鮮半島のもの.それから北方領土(ロシア、アイヌ系)それと、東南アジア系が確認されている。何%のDNAか忘れたが、日本人はどこから来たのか?興味ある方は調べてほしい。
「稲作発祥の地」としている「月の輪田」伝承は、東アジア大陸からの海族が日本海側の当地に至り 又、大和朝廷に伝わる過程を辿るものであると考えられる。
このことは、京丹後市に多くの古墳があり、(代表的な古墳として、京丹後市網野町に網野銚子山古墳 墳丘201m古墳時代)物語っていると考えらる。
大和朝廷に「月の輪田」での古代米を奉ったとの伝承は、西暦400年頃の国の礎を築いたとされる雄略天皇の時代である。
この地の「稲作発祥の地」は上記で書いたように、稲作の最初の伝わった地とは違い、
この旦波(丹波)に元々すんでいた豊受の大神が「月の輪田」で最初に稲作を始めた地であり
雄略天皇の命を受け、食を大和朝廷に献上した最初の地と解釈してほしい。
現在、伊勢で栽培されている稲種のDNAは、ここ京丹後二箇地区の籾種が元になっているものと推察するが、真意はどうなのかな?。
大阪文化博物館展示の地図 稲作が伝わった経路 雄略天皇を描いた有名な 「葛城山狩図」この狩場で兄を殺害した
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