昔 の 子 供 の あ そ び(屋内の遊び)

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◆ ひな祭り
「雛(ひな)」 とは、可憐な小さなものの意で、姫雛が 「ひいな」 となり 「ひな」 と呼ばれるようになったのだと説く人もいる。

ひな祭りは、遠く平安時代の雛遊びに淵源するとみられる。 源氏物語の紅葉の賀には 「とをにあまりぬる人は、ひいな遊びはいみはべるものを」 とある。 

10歳を過ぎた人は雛遊びをしないというのは、もっぱら子供の遊びであったことを教える。 
子供の遊びであれば、今日のままごと遊びと同様、特に定められた日はなかったに違いない。  いつ、どこでも、男の子も女の子も興じたものであったろう。 

それがどうして3月3日に指定され、おとなのひな祭りに昇華したのだろうか。 細かい査証はさておき、これには中古に盛んだった曲水の宴と、巳の日の祓の遺風だとする考えが一般的で、3月3日に落ち着くのは17世紀も後半に入ってからである。 
                                              
当地方のひな祭りのようすを伝えるものに、湯川退軒の記事 (明治30年稿) がある。

「三月三日上巳節、女児輩宸宮を飾り、両陛下ニ擬シ奉リタル綵偶(さいぐう)ヲ祭拝スルノ醇美(じゅんび)ノ風習、千万歳変ゼズ。洵(まこと)ニ国家万世ノ奠安(てんあん)ヲ 卜(ぼく)スベシ。  
新ニ女児ヲ挙ゲシ家々ハ、此日初雛祝ト称シ、酒ヲ携テ海浜ニ行楽スル者多シ。  
又、 女童等ハ草餅ヲ細切シテ小サキ重箱ニ盛リ、互ニ贈答シテ遊戯ス。之ヲ御少分事ト称ス。蓋(けだ)シ御少分ナガラ持セ上ル等ノ口述ニ擬スレバナリ。 是、女礼ヲ学ブノ初歩ニシテ甚ダ嘉(よみ)スベシ。」

 
雛遊びは、ひなが雛の段に飾られ皇室を祭るようになってから、その祭り方も一定の形式を備え、地方色がなくなったのではなかろうか。 退軒翁の筆記からも特色はえない。  
ただ、ここにはかかれていないものに、当日のひな壇へのお供えとしてタニシのヌタやイソモノがある。

これがわずかに地方色といえようか。 この日子供たちは草もちを持って野山や浜辺に 「のんき」 遊びと称し、長い春の日を過ごすのである。