昔 の 子 供 の あ そ び(屋内の遊び)

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◆ セッセッセ

昭和の初期頃までは鉄道の敷設もなく、紀州全体が陸の孤島と呼ばれていたころ、交通不便な中辺路奥地はさらに文化的孤立の状態で推移してきた。 

大きなラッパのついた蓄音機を聴かせるという篤志家の家に、大人も子供も提灯をつけて聴きに走り、驚き入ったことである。
その後、田辺の商才あるハイカラ紳士が村を訪れて2,3日滞在したが、用務は日本勧業銀行の債権募集のためであった。 

ところでこの紳士の時計は長方形のオルゴールによる目覚まし時計で、貴重品のごとく片手でブラさげて歩いていた。オルゴールの曲目は 「鉄道唱歌」 で、初めて聴いた曲である。

この人は物見高く集まる子供らにこの歌詞を 「せっせっせ」 の遊戯として教えてくれた。 それから山村の子女は向かい合って 「せっせっせ汽笛一声新橋を・・・・・」と手を交互に合わせながら歌われていった。




◆ 竹がえし

10本か12本の竹ペラを用意する。それを手の甲に乗せて、1本だけ落とす。 
その竹ペラが竹皮の方が上になったときは、手の甲の竹ペラがすべて竹皮を上に落とし、最初のものが竹皮のほうが上であれば、竹肉が上になるように落とす。
しくじったら交替しながら、意のままに落とした本数が得点となる。




◆ のぼり・かぶと

5月 5日は、こどもの日。 そしてこの日は男の子のまつり。  端午の節句には 「のぼり」 と 「かぶと」 が飾られる。 
                                                   
菖蒲とよもぎが軒に葺かれ、庭先には幟がはためき、赤や黒の鯉のぼりが勢いよく空に泳ぐ。 のぼりの図柄には仁田四郎や鍾馗を見かけた。  
明治30年頃には神功皇后、武内大臣、源判官、豊太閤、弁慶法師の人形が、かぶとや槍・長刀と共に飾られたと湯川退軒は記している。

この日、はじめて男の児をもうけた家では、のぼり初めといって親戚あげてのおよろこびをする。 飾りかぶとに供えるのは 「いびつ」 と呼ばれるサンキライの包んだ餅。 節句の前日に、子供たちは、この 「いびつ」 の葉を摘みに山へ入る。 
広い葉だと1枚で1個の餅がくるめるが、小さい葉だと2枚合わせなければならない。伊達自得は、幽閉の地田辺でこの節句のさまを見て     
  
賤(しづ)が家の軒にかつみは葺かねどもかしはにかへていびつはむなり   
と詠っている。

端午の節句に、のぼりやかぶとが登場するようになったのは17世紀のなかばといわれ 「俳諧初学抄」 (寛永18年〈1641)) には
 1、 端午節 左近右近の馬場騎射、しゃうぶふく 菖蒲かたびら、同刀、いんぢ付、
    かみのぼり、ちまき    
とある。 
だが、 これもひなまつり同様、豪華を競うようになり、当地の記録を見ても、享和4年(1721)以来、再三制限が加えられた。
 1、 端午ののぼり 男子何人有之候共 家壱軒にのぼり壱本、 冑(かぶと)壱、 
   鑓(やり)・長刀(なぎなた)の内壱本、 右より多立申間敷(まじき)事    
   但のぼりは紙にても毛綿にても小のぼりに可仕候。 尤八歳以上は無用事
 1、 端午幟道具之儀、 先年より被仰出候品も有之候処、 作物見物人集り候 
   筋相聞申候心得違無之様可申通旨昨日被仰聞候

上のようにきびしく制限され、お祝いに集まるのさえ禁じられたのである。