
堕天使 〜Prinzipal der Finsternis〜
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五月に入った。ここ数日、日較差の比較的大きい気候が続き、不穏なムードが人々の心に広がっていた。しかし、それをはっきりと自覚している者は、ほとんどなく、ただ、漠然たる不安として心の奥底に澱んでいたということだった。
そんな奇妙な雰囲気の兆しは、ちらほらと表れていた。
愛知県津島市の郊外にある弘成高校においても、そのことについて、ぽつぽつと囁かれるようになった。
午後の授業が終わり、いつもどおりに平井文成は野球部の部室に向かった。その隣には必ず、“フィアンセ”の草薙遥がついていた。毎日こんな状態だから、校内において完全に婚約者同士と見られた。遥は上機嫌だが、文成は面白くないと言いたげに無表情を作っていた。が、以前ほどの刺々しさはすっかり影を潜めていた。面白くはないのだが、いちいちそれに反応する必要もないと思えるようになっていた。本当に面白くないと思うなら、完全に逃げているはずである。
「それにしても、陸上部に入るとは思わなかったな。この学校にクラシックバレエ部が無いとはいえ、体操部か、あるいは文化系のクラブに入ると思ったのに」
珍しく文成が遥に話しかけてきた。それまでは遥が話しかけてきて、文成が無愛想に答えるのが常であった。
「あら、野球部のマネージャーになって欲しかったの、文成としては?」
遥はいつもと変わりなく、澄ました貌で文成のつぶやきに答えた。
「いや、入ってくれなくて良かったと思ってるよ。24時間365日、へばりつかれたらと思うと、気疲れして仕方がない」
「あたしは24時間365日、一緒にいたいんだけどなぁ……。久美子ちゃんみたいに、一緒にお風呂入ったり、同じベッドに入っていたりしたいけど。ね、どう。今日から?」
周囲が聞き耳を立てているのも気にせず、というより、聞かせるつもりで、遥は文成をからかった。
「真っ平ごめんだ。君のように、ガムシロップみたいな甘さを持つ女は相手にしたくない。せめて蜂蜜くらいになったら、考え直すけど」
不機嫌に言った文成に対し、遥は訝しげな表情を向けた。
「今の喩え、興味深いわね。ガムシロップって、喫茶店でコーヒーや紅茶についてくるものでしょ。あたし、そんなに甘ったるいかしら。それに、せめて蜂蜜って。じゃ、文成は、どれくらいの甘さの女性が好みなの?」
「メープルシロップくらいの甘さ。そのまま口に含むと濃密で、それでも十分良いんだが、紅茶などに入れると、柔らかく優しくなって、ほんのりと甘い。そんな感じの女性が、オレは好きだ」
昼間から、こうも堂々と自分の女性の好みをはっきり言う男は、まずいないだろう。通路には、多くの生徒や教師がいるのだが、みな、通路の脇で観客のような目で文成と遥を興味深く見つめていた。
「ふぅん。それじゃ、文成は、メープルシロップのような女性に出会ったんだ」
遥は悋気を滲ませて言ったが、その割には声音が妙に落ち着いている。
「そういうことだ」
わかっているのかいないのか、文成は冷淡に答えた。
もうすぐグラウンドに出る。野球部の部室に至るまではまだ距離があるが、陸上部の部室は目の前である。
「じゃ、また」
文成は遥に向かって愛想なく言った。
「それにしても、笑わなくなったわねぇ。幼馴染に愛想笑いさえ、無いの?」
遥が口を尖らせて不満を漏らすと、ウルフカットの美少年は下唇を突き出して、前髪に息を吹きつけた。愛想笑いどころか、苦笑いさえ見せるつもりは無いようだ。
互いに背を向けたその瞬間である。
「きゃっ!」
野球部の部室に向かおうとした文成に、何者かが勢い良くぶつかって悲鳴を上げた。この不意打ちには、さすがの文成も目玉が飛び出るほど衝撃を受けた。胸部に鈍い痛みが走る。
しかし、このあとの少年の動きは見事だった。かろうじて踏みとどまると、反射的にすばやく相手に向かっていった。一瞬で女の子だと視認すると、尻餅を搗きそうになった彼女を抱きとめた。年配の教師が横から見ていたなら、映画、『風とともに去りぬ』のポスターを思い出した事だろう。まさに文成は、スカーレット・オハラを抱くレッド・バトラーだった。(いまどきこんなネタがわかるお子様がいるとは思えないが)
間一髪のところで抱きかかえられた少女は、至近距離にある美少年、いや、“美少女”に見つめられて、一気に貌を紅潮させた。背中に回った両腕からは、力強さではなく、柔らかさと優しさ、そして慈しみが感じられた。少女の鼓動のテンポが急激に上がっていく。
一方、抱きかかえている文成も、少女をじっと見つめたまま、身動きしなかった。ショートボブの黒髪に、円らでくりっとした目、あどけなさの残る顔立ち。何かしら、愛おしさがこみ上げてくる。両腕に掛かる負担もさほど感じられないほど、躯が軽い。しかし、柔媚な感触は十分に伝わってくる。どちらかと言うと、性欲より保護欲が湧き起こる少女だ。
ずっとこの状態でいるのもつらいので、文成は彼女を抱き起こした。
「大丈夫かい。別にケガは無い?」
文成は少しかがんで、視線を合わせて言った。見ず知らずの人間に対して、こんな思いやりのこもった言葉をかけるなんて、生まれて初めてでは無いだろうか? 様子を見ていた遥が、驚きと羨望を感じていた。
「はい、大丈夫です。なんともありません」
少女はまさに、蚊の鳴くような声で答えた。文成に直視されて、すっかり舞い上がってしまっている。男でさえ、この“美少女”に見つめられると緊張しきるものだから、この少女にとってはなおさらだろう。
「そう、良かった。じゃ、気をつけて」
あろう事か文成は少女に、にっこりと笑って言った。入学当初、クラスの女の子たちに囲まれてうんざりしていた時とは大違いである。人が変わってしまったとはこの事であろう。
少女は頭を下げて、その場を立ち去ろうとした。が、一歩二歩と踏み出したそのとき、急に文成が彼女を呼び止めた。
「あ、ちょっと待って!」
いったい、何を思ったのだろうか。驚いて少女は振り返った。すると文成は、再び貌をまじまじと見始めた。なにかを読み取ろうとしているのだろうか。少女の心に、わずかながら不安が芽生える。
「あ、あの……、何か?」
こわごわとした声で少女は尋ねた。
「いや、君さぁ。ひょっとして、女優の宮崎あおいに似てるって、言われない?」
「い、いえ。そんなこと……、言われません」
少女は緊張と恥ずかしさで、ほとんど消え入りそうな声で答えた。
「あ、言われないの? やっぱりねぇ……」
あっけらかんとして文成が言った瞬間、ものの見事に場が凍りついた。いや、時間が止まったと言うのが正確な表現かもしれない。とにもかくにも、ニヤニヤ笑っているのは文成だけで、その場にいた人間たちは、何をどう反応すればいいかわからず、口を開けたまま呆然としたり、笑うに笑えぬ貌を作ったりと、困惑しきっていた。
言われた少女はというと、何を言われたのかわからず、文成の貌を見ながら、目を何度もぱちくりとさせていた。思考は完全にフリーズしてしまっている。
そんな可哀想な女の子を助けたのは、呆れながらも腹を立てていた遥だった。
「見ず知らずの女の子をからかうんじゃないの、文成。彼女、どうしていいのか、わからなくなってるじゃないの」
そう言って、文成の脾腹をつねった。
「い〜、いたいイタイ痛い、痛い! そこまで気合入れてつねらなくてもいいだろ!」
美少年は、彼には似合わない怒鳴り声を上げて、幼馴染に怒りをぶつけた。
「こんなところで、高田純次のギャグをやる人がいる? こないだもやったらしいけど、よくそんなことをやる気になるわね。何がそうさせたのか……」
「別にいいだろ、高田純次が一番面白いんだから。オレは面白いと思ったら、なんでも真似をするんだ」
「周りの迷惑、考えなさいよ。見ていて、貌から火が出るくらい恥ずかしいわ」
遥は本気で怒っていた。しかし、文成に懲りる様子は無い。
「貌から火が出るくらい恥ずかしかったら、貌から火を出したら、みんなの気がそっちに行っちゃうんじゃないの?」
また適当なことを言った。高田純次が言えば笑えるギャグも、この美少年が言うと、笑うに笑えないのが周囲の反応だった。場の空気を読まない、と言うより、場の空気なんか知ったことではない。オレについてこれない奴は、放っていく。そうとでも言いそうな、傲然たる態度だった。さすがに遥も、匙を投げたくなった。
「もう! 呆れてものが言えないわ!」
遥が完全にそっぽを向いた、その直後。
「あ、あの……」
戸惑いが混ざった声に、文成と遥がすばやく反応した。見ると、先ほどの少女が恐る恐る声を掛けてきた。
「すみません。あなたが平井文成さんですか?」
か細い声で少女は問いかけてきた。これだけのことを言うだけでも、相当の勇気が要ったのか、少女の貌は汗ばみ、目は緊張感にあふれ、肩に力が入っているのが見て取れた。
そんな少女を見て、文成は微笑んで近づき、語りかけた。
「はい、僕が平井文成です。ちょっと驚いた? そうでもなさそうだね。ふぅん……」
文成は名乗りながらも一人で勝手に喋った。相手の女の子はまだ呆然とした貌をしている。
「…………で、君の名前は?」
文成が問いかけてきたが、緊張のせいか、それ以外の理由のせいか、あどけなさを残す少女は上の空といった感じで、何の反応も示さない。
「……ねぇ、君の名前を教えてほしいんだけど。まさか、宮崎あおいじゃないよね?」
今度は額が触れ合うくらいにまで近づき、少しヴォリュームを上げて尋ねた。すると、心臓がジャンプしたのか、しゃっくりしたような声を出して、身を引いた。かなり驚いたらしい。
「は、はい! あ、あの……、何の話でしょうか!?」
ショートボブの少女は驚きのあまり、声が2オクターブほどつり上がって、かなり頓珍漢な受け答えをしてしまった。脇で見ていた観衆から、ちらほらと苦笑が漏れた。
しかし文成は、そんな少女を笑わないどころか、誰も予想しなかった行動に出た。なんと、女の子の右側に回ると、左手で背中をさすり始めた。
「はい、深呼吸して落ち着いて。あがってしまった時は深呼吸するのが一番だよ。ゆっくりと息を吐いて……、さあ、ゆっくりと息を吸って……、細く長くやるのがコツだからね」
まるで幼子(おさなご)をあやすように少女を慰撫する文成の眼は、さながら妹を可愛がる兄の眼であった。
三回深呼吸して落ち着きを取り戻した少女は改めて文成に貌を向けた。
「もう、大丈夫です」
「そう。じゃ、自己紹介してくれないかな」
文成は微笑を浮かべながら、非常に澄み切った声で促した。ただ、あまりにも透き通りすぎているようにも聞こえた。喩えて言うなら、バイカル湖のような、果てしなさを感じる清澄さだ。
「森村早紀と言います。1年A組です」
「早紀ちゃん、か。1年A組、という事は、1年C組の手前の手前のクラスだよね?」
また、なんでもないことを真顔で文成は言う。
「からかわないでください。そんなに人をからかうことが好きなんですか、平井さんは?」
早紀という名の女生徒が貌を紅潮させながら言うと、文成は両掌を彼女の肩に置いて、貌を近づけた。そして白い歯を見せながら言葉を返す。
「君をからかうつもりは無い。可愛がろうと思うんだ。君のように可愛らしい女の子はそうそう見られるものじゃない。偶然ではあるが、この出会いを大切にしたいんだ。かなうことなら、君と付き合いたいんだが……、ちょっと迷惑かな?」
文成が何の気もなしにさらりと言った言葉が周囲を騒然とさせた。衒いも臆面も無く、堂々とナンパするとは。しかも、“婚約者”の目の前で。
「でも、平井さんには婚約者がいるんじゃないですか?」
実際、早紀もそう思って、戸惑い声で問いかけた。
「あぁ、遥のこと? 気にしなくて良いよ。というか、婚約指輪を交わしてないし、今後も婚約する意思は無い。ガールフレンドと思ってはいるけど、婚約者だと思うことは無いよ。だから、気にせず堂々と僕と付き合わないか? 今すぐに出来ればうれしいけど、迷惑ならば諦めるよ。どう? それとも、すぐには答えを出せないかな?」
なぜか今日の文成は饒舌だった。これほど立て続けに喋ったことは滅多に無いのでは、と誰もが感じた。遥も呆気にとられながら、ギャラリーと同じように感じていた。
「あ、今思ったんだけど、君、急用があるのかな? なんか、急いでた感じだけど」
いきなり話を変える文成。
「あ、は、はい! これからクラブなんです」
急に話を変える“美少女”に翻弄されながらも、円らな瞳のかわいらしい少女は答えた。
「あ、クラブ。所属は?」
「はい、美術部です」
「美術部? 絵とか描けるの?」
「はい。水彩と、油彩も少し……」
「あ、油彩というと、油絵だよね。描けるんだ。じゃ、暇があったら、僕を描いてくれないかな? こう見えてもバレエをやっていたから、モデルとしては申し分ないと思うけど」
その瞬間、早紀の瞳がぱっと輝いた。噂の美少年が、絵のモデルになることを申し出たのだ。付き合う付き合わないは別として、今まで見たことの無い造形を描かせてくれるというのは、千載一遇の機会と言えよう。
「いいんですか、あなたを描いても? それに、わたしの都合に合わせてくれるんですか?」
戸惑いと期待を混ぜながら早紀は訊き返した。
「かまわないよ。君の都合の良い日が出来たら、僕が君に合わせるから。何かあっても、君を優先する。それじゃ、楽しみにしているよ」
そう言って、文成は早紀の額に唇を捺印した。誰がどう見ても、妹に対する接し方にしか見えない。
早紀の肩を、ぽんと叩いて送り出した文成に向かって、再び遥が近づいた。
「今の子、なんとなく雰囲気が久美子ちゃんに似てるわね?」
いきなり遥が確信を衝くように、小声で言った。
「うん? あ、あぁ。そうだね。なんとなくだが、確かに雰囲気が似てるような気がするね」
虚勢を張って努めて平静に語った文成だが、内心の動揺を隠し切ったわけではなかった。
「ふぅ〜ん。文成はさっきの子みたいな、妹のような女の子が好みなんだ」
「ただ単に、かわいらしいと思っただけだよ。かわいらしい女の子に興味が無いというなら、かなりの問題を抱えていると思うよ」
「それにしては、随分とかわいがっていたわね。今の出来事を平野先輩が知ったらどんな貌をするかしら?」
遥は横目で文成をにらみながら言った。
「今の君みたいな貌をするんじゃないかな?」
さらりと言って、文成は遥に目をくれることなく、その場を去った。
文成が去ったあと、潮が引くように生徒たちも去っていった。それぞれのクラブに向かったり、家路に向かったりなどさまざまだった。が、誰もが今起こった光景について、ひそひそと囁きあいながら散っていった。
そんな中、遥だけはひとり、小さくなる文成の背中をじっと見つめてその場を動こうとしなかった。
(はぁ〜あ。変な気起こして。後で厄介なことにならなければいいけど)
ため息をひとつつくと、ようやく振り返って、陸上部の部室に向けて歩を進めた。
着替えを終えてグラウンドに入ってきた文成に向かって、“牧神の大声”が飛んできた。
「平井ぃー!! どこで遊んでおったぁー!!」
この小柄な老人のどこからそんな大音声が出るのか。誰もがそう思うほどの声だ。グラウンドにいた部員たちはもちろん、周囲にいた他のクラブの部員まで、心臓が縮み上がったかのような貌をしていた。
「いやいやいや、すいません。遅刻しても良い男で」
森田監督の大声に驚き、動悸しながらも、最近になって会得したスタイルで挨拶した。
「なるほど、よく観ると良い男じゃのぉ」
監督は急に無表情になって答えた。
「ということは、よく観ないと、良い男じゃないということですね?」
「よく観ないと、良い女じゃがの」
表情を変えずに返す監督に、
「やられたね」
と、文成はつぶやいた。が、まったく気持ちがこもっていない。
「気が籠っておらんのぉ……。他のことに気を取られてるんじゃろ? おおかた、女の子に現を抜かしていると見た。どうじゃ?」
両性を兼ね備えたかのような少年に向かって、老監督がにらみながら問いただした。
「さすがですね、監督。先ほど、女の子とぶつかりまして、えらくかわいかったので、ついつい話をしていたら、こんな時間に……」
「ふぅん。どんな女の子なの?」
いけしゃあしゃあと語る文成の背後から、マネージャーの平野絵理子が声をかけてきた。振り向くと、表情こそいつもと変わらないが、目がかなりすわっている。
「そうですねぇ……。森迫永依ちゃんに美山加恋ちゃんを足して12で割って、そのあと因数分解して、出てきた解をフェルマーの定理に当てはめたような感じかな?」
「なんじゃ、それは!?」
あまりの適当、というより、出まかせに監督がまず呆れ声を出した。絵理子も今ので脱力してしまった。
「……森迫永依ちゃんに美山加恋ちゃん、というところが、文成君らしいわね。まるで妹みたいな感じ?」
ふぅっとため息をつきながらも、絵理子は核心を衝いた。
「う〜ん、当たらずとも遠からず、かな。いやぁ、蛯原友里みたいな、貌全体がVの字に切れ上がった貌じゃなくてよかったよ。あぁいう貌は嫌いなんだ」
「じゃかましわ! 遅刻した罰じゃ、2時間ほど走ってこい!!」
再び大音声を上げて監督が言った。
「えぇと、全裸で走るんですか?」
まだふざける文成に、すかさず監督が怒鳴る。
「もうええわい! 何にも考えられなくなるくらい、走りまくれ!!」
枯れることの無い大声に飛び上がりながら、文成は走り去っていった。グラウンド内で走るかと思いきや、とっととグラウンドを出て行く。
「おい、どこ行くんじゃ!?」
「ロードワークです!」
そう言ったきり、文成は一目散に駆けていった。
「あ奴……。最初来たときより、ずいぶんふてぶてしくなったな」
監督がポツリとつぶやいた。
「え?」
不思議そうに絵理子が振り向く。
「最初観たときは、かなり刺々しかったし、負けてたまるか、という気持ちが強すぎたんじゃが。今は、変に自信がついたんか、落ち着き払った言動をしとるわい。ふざけてしゃべっとるが、なかなか、強かな態度をみせておる。平野君に突っ込まれたときくらいかの。慌てたのは」
「え、あれですか? 妹みたいな女の子……」
「死ぬまで引きずるのかのぉ、妹のことを。ちと、不憫じゃて」
「え、えぇ」
監督はふぅっと細く長く息を吐き出し、絵理子は言い知れぬ不安に表情を曇らせた。
一方、文成と監督の一連のやり取りを眺めていたナインは大体において、侮りを含んだ冷笑を浮かべていた。ある者は肩をすくめ、またあるものは込み上げる笑いをこらえようとしていた。
「あぁ〜あ、平井君。思いっきり監督に怒られてら。ま、あれだけ遅れてやってきちゃぁなあ。しかし、あいつが遅刻するとは、珍しいこともあるもんだな。なぁ、中村?」
外野でトレーニングをしながら、球拾いもしていた高安穣(ゆずる)が中村康一に話しかけた。
「あぁ、そうだな」
あまり喋りたくないと言いたげに、康一が素っ気無く答える。
「なんだ、素っ気無いなぁ。前まで平井君のこと、結構気にしていたくせに、もう興味をなくしたのか? それともあの時以来、平井君が嫌いになったのかな?」
相変わらず浅黒い貌の筋肉を縦横無尽に使って、ベラベラと喋っている。
「うるさいなぁ。練習中に話しかけるなよ。おまえは一日中そうやって喋り続けるから、みんなから煙たがられるし、野球だってうまくならないんだ」
康一はあっちに行けと言いたげに、背を向け、左手で追い払う仕草をした。
「まいったな、こりゃ。中村にまで煙たがられてしまったよ。ま、野球はうまくならなくても構わないんだけどね、おれは。女の子にもてりゃ、それで十分」
「それは結構なことで」
「まぁ、そううんざりした貌をするな。人生、楽しむだけ楽しまないと損するだけだ。その点、平井君は見ているだけで楽しいよ。喋っているのを聞くのも楽しいが、ただ突っ立っているだけの姿を見ても楽しい。睨まれると怖いけど、それでもぞくぞくして楽しいねぇ」
からからと笑いながら高安は言った。妙に肝が据わっているようだ。あるいは、文成の怖さをまったくわかっていないせいか?
「楽天家のおまえがうらやましいよ。俺たち一年は早くレギュラーになりたくて必死に練習しているのに、おまえはそんなことなど、どこ吹く風。どうしたら、そう能天気になれるのか……」
ため息をつきながら康一はつぶやいた。
「ははは。十分悩むが良い、若者よ。悩みきった先に、悟りの世界がある、ってか」
「わけがわからねぇよ」
「わけがわからないといえばさぁ、話変えるけど、監督、いつまで経っても、平井君にバットを握らせないなぁ」
「あっ!」
高安がさりげなく言うつもりが、ものの見事に失敗した言葉に、康一は反応した。
「半月も体力をつけるだけのトレーニングしか、させないなんて、ちょっと異常だよな。130mも飛ばす実力があることは、みんなわかってるんだ。おまけに守備練習もさせない。こんなの初めてじゃないのか?」
「言われてみれば、あいつが素振りするところを全然見てないな。キャッチボールもしたことがない」
「だろ? バットとグラブはあるんだからさぁ。それに、あいつ遅れてきたくせに、すぐに外へ行きやがった。なのに、監督はそれを咎めやしない。なんか特別扱いしてないか? 違う意味で」
「自由放任なのか、それとも、ほったらかしにしてるのかなぁ……」
「それにしては、中途半端というか……、わからないよなぁ。前におまえ言ったよなぁ、平井君に。おれたちが最初のトレーニングでヘタばりかけるのに、君はまるで物足りないと言いたそうに、涼しい貌をしているって。こんなもの、トレーニングにもならないと言わんばかりに、君がため息をついているのを、俺は見てるんだ。そうとも言ったよなぁ。体力があるのは誰の目にも明らかなんだから、いまさら体力つける必要は無いはずだが。それとも、極秘でマンツーマンで教えてるとか……」
「危ない! 避けろ!!」
いきなり康一が叫んだ。
「え? なにがあぶな……」
月並みな言い方だが、気づいたときには遅かった。カァーン、と、まるで拍子木を打ったときのような音が、お調子者の頭から鳴り響いた。どうやら、誰かが打った打球がダイレクトに当たったようだ。打球は高安の額に当たった後、大きく跳ね上がってフェンスの上部に当たり、レフト方向へ落ちて転がった。
急いでナイン全員が駆け寄ってきたが、幸いなことに、急所に当たらず、またさほど強く当たったわけでもないのか、高安は頭を抱えてしゃがみこんでいるが、こぶができた程度で済んだらしい。
「ぼぅーっと、するなよ。思わず当てちまったじゃねぇか……」
やや憮然とした口調で、当てた張本人である、主砲の山崎がつぶやいた。そして、少し遅れてきた老監督が高安を覗き込んで、
「どうじゃ? これで、頭が良くなったか?」
と言った瞬間、爆笑が沸き起こったことを、ここに付け加える。
最終下校時刻が近くなった頃、練習も終わり、一年生部員たちが片づけを始めた。その中に文成の姿は無い。まだ走っているのだろうか? ちなみに打球が当たった高安は、大事をとって、絵理子に連れられて保健室に行った後、病院へ向かってそのまま帰宅となった。絵理子に連れられているときの高安の貌は、誰もが福笑いの失敗かと思うくらい、くしゃくしゃになっていた。美人マネージャーと一緒ということがよほどうれしかったらしい。
「それにしても、穣のやつ、間抜けだよなぁ。山崎先輩が打撃練習のときは飛ばすんだから気をつけろって、自分で言っといて、“宇野ヘディング”するから笑うよなぁ」
五十川慎司という、小柄な一年生が右袖で額の汗をぬぐいながら、康一に話しかけてきた。
「よそ見してると、自分みたいになるぞって、身をもって示したんだろ?」
最近の康一は不機嫌なのか、誰に対しても愛想が悪い。
「なんだよ、付き合いが悪いなぁ。最初の頃は、結構愛想が良かったのに。さては平井にふられて、自棄起こしてんのか?」
五十川はそう言ってからかった。
「別に。平井が俺のことをどう思おうが、それはあいつの問題であって、俺の責任じゃない」
「お! それ、平井のせりふじゃないか。しっかり感化されているみたいだな」
「うるせぇなぁ……。高安みたいなこと言ってると、おまえの頭にも打球が飛んでくるぞ」
「もう飛んでこないよ。飛んでくるとしたら、親爺の雷だ」
へらへら笑いながら五十川は答えた。
「それより、まじめな話。平井のこと、どう思う?」
急に声を潜めて、康一に話しかけてくる。
「だから、大して気にもしてないといってるだろ!?」
少し声を荒げて“修行僧”は言った。
「いや、最近、おかしいというかさぁ……」
「あいつはもともとおかしいだろう? 妹コンプレックスなのに、女嫌いで、愛想が悪くて。最近、変な芸を覚えたみたいだけど。高田純次とか」
「そうじゃねぇよ。おれが言いたいのは、あいつ、警察に尾(つ)けられてるらしいぜ」
康一の口から思わず、ぎょっ、という驚きの声が漏れ出た。警察とは尋常でない話だ。康一は五十川に貌を近寄せて、自分も声を潜めて訊き返した。
「警察って、どういうことだよ? あいつ、警察に付け回されるような事したのか?」
「知らないよ、そんなの。たださぁ、ここんとこ毎日、学校の周りで二人組のおっさん、おっさんといっても、一人はおっさんだけど、もう一人は二十代かな。そんな感じの二人がこの学校に張り付いてるんだよ。なんか気になるから、さっきトイレといって抜け出して、おっさん達に話しかけてきたら、春日井署の刑事とか言うんだよ。それで、その刑事たちが平井文成君を知らないかと訊いてくるから、今、ロードワークに出て、いつ戻ってくるかわからないと答えたら、その後何も訊かなかったよ。もっとも、おれも練習があるからといって、すぐに引き返したけど」
「おまえも案外、適当だなぁ」
やや呆れ声で康一が言った。
「それにしても気にならないか? あいつ、春日井で何かやったのか? まさか警察の世話になるようなことをしたんじゃ……」
「知らないよ、そんなもん。そういえば、平井って、春日井市出身だろ? 草薙さんと同じ」
「あぁ、そうか。さては、春日井で何か事件起こしたのかな?」
「だから知らないって、言ってるだろ。なんなら平井に訊けよ、直接」
康一はかなり苛立ってきたようだ。が、表情とは裏腹に、実際のところは気になって仕方ないことを隠せなかった。
「万が一、あいつが問題を起こしていたら……、ちょっとどころでは無いよなぁ……」
独り言を言うように五十川はつぶやく。
「ちょっとどころでは無いって、どういう意味だよ?」
「え、そりゃ、おまえ……って、え?」
五十川は隣ではなく、背後からかかった声に驚いた。振り返って声の主の貌を見ると。
「どうした? 誰か問題起こしたの? 無期限謹慎を言われるほどの問題?」
噂をすればなんとやら。当の文成が胸の下で両腕を抱えるように立っていた。こういうことをすると、余計に“美少女”と間違えられる。
「い、いやぁ、その、なに……。ちょっとな」
いきなり本人から声をかけられるだけでも十分に驚くのに、妖艶とさえいえる眼差しで問い掛けられるものだから、五十川はまともに喋るのも覚束なくなって来た。
「ちょっとな、とはなんだよ? はっきり言ってくれないとわからないじゃないか」
微笑をたたえながら尋ねる文成に、小柄な一年坊主は冷や汗を噴出していた。
「そんなことより、平井君。君は何で、片づけが終わるころを見計らって帰ってくるんだ?」
康一が話を逸らそうと、文成に詰問した。
「知らないよ、そんなの。オレはロードワークに夢中だったから、いつ練習が終わって、何時に片づけが終わるかなんて、見当がつかないもん。正直、他人のことは興味無いんだ。高安穣くんが“おでこキャッチ”に失敗して、たんこぶ作って病院に行ったって、オレには関係ないから」
文成はとぼけ顔で、いけしゃあしゃあと言った。
「え、平井君。穣が病院に行ったの、何で知ってるの? ひょっとして、さぼってたのか!?」
五十川が驚いて立ち上がった。
「いや。たまたま病院から出てきたあいつとばったり出くわしたんだ。話聞いたら、山崎さんの打球を額で受けたとか言ってたから。ま、どうでもいいんだけど」
本当に興味なさそうに文成は語った。さして愛情を持っていないようだ。
「じゃ、いいかな。もう帰るよ」
そう言うと文成はさっと背を向けて部室に向かっていった。
「お、おい。平井……」
康一はまだ何か言いたげに声をかけたが、文成はまるっきり無視して去っていく。
「ほんとに、あいつ、わけのわかんない奴だなぁ……」
遠ざかって行く文成の背中を眺めながら、誰に言うわけでもなく、康一はつぶやいた。心の奥底に引っかかるものを覚えつつ。
夕陽は完全に沈んでしまい、西の空に暮色がわずかに残っている時刻に、文成はようやく自転車置き場に着いた。とっとと帰るつもりだったが、部室を出る直前に森田監督に捕まってしまった。
「平井、これをやる。これを見て勉強しろ」
そう言っておもむろに渡したのは、一本のVHSテープだった。背を見ると、黒い太字のマジックで“田淵幸一”と書かれている。
「田淵幸一って……、この人、どんな人ですか?」
何の気なしに文成が尋ねると、監督はため息をつきながら、
「近頃の若いもんは、田淵幸一も知らんのか」
と、憮然として言った。
「知らないよ! オレは野球のことはぜんぜん知らないって、最初に言ったじゃないの!」
思わず文成は絶叫した。本人としては、突っ込みのつもりだったのだが、かなり気持ちをこめて怒鳴ったせいか、周りにいた部員たちが心臓を飛び上がらせて文成に注目した。中には驚いたあまり、尻餅を搗いた者までいた。
「そこまで怒ることは無いじゃろ。あ、そういえば最初に言うとったの。競馬場に行ったことはあっても、野球場には行ったことが無いと。すまんな。近頃、物覚えが悪くてのぉ」
「わざとらしいなぁ……。それにしても、VHSですか? DVD全盛時代にビデオテープって」
「やかましいのぉ。DVDは使い勝手が悪いんじゃ。ビデオデッキぐらいあるじゃろ?」
「貧乏学生なんだよ、オレは。そんな贅沢なものを買うほどの余裕は無い」
「お前なら、奨学金とかもらえるんじゃないのか?」
「別にもらう気はないよ。ま、親の遺産がないことは無いけど、それに甘えてるようじゃねぇ。男が廃る。それに高校生なんだから、義務教育が終わって好きこのんで高校に行ってるんだから、せめて自分の食い扶持ぐらいは責任もって稼がないと」
「ほう〜、感心じゃのぉ! 今の言葉、生徒はもちろん、生徒の親や教師どもにも聞かせたいくらいじゃわい。わっはっはっはっは」
よほど文成の言葉が気に入ったのか、監督は呵々大笑した。
「それはともかく……、ちょっと待ってくれ」
監督は笑いすぎたのか、声が掠れてしまっていた。一度よそを向いて、咳払いをしてから向き直った。
「ビデオが無いなら、これからワシの家に寄って観ていくか?」
「いえ、結構です。雪彦さんなら、VHSぐらい持ってると思うから、あ、雪彦さんと言うのは、遥のお父さんね。AV機器に関してはマニアだから、そこで観ることにします」
文成は無愛想に断った。
「なんじゃ。舅殿の家にあるのか。それならよい」
親爺が意識的に舅殿の部分を強調して言った。
「オレは最悪な婿になると思うよ。他所で愛人を作りまくって、いつも妻を嫉妬させるんだから」
意味深に頓珍漢な受け答えをして文成はその場を去ろうとした。
「なんじゃい、それは? 草薙くんの事を嫌っているのか?」
やや激して親爺が怒ると、文成は振り向いて少し醒めた目を向けて、だるそうに言った。
「草薙遥のことは大嫌いだ。日本語話せるから、一応話すけど」
この瞬間、聞いていたもの全員が呆気にとられ、笑っていいのか悪いのかわからない表情を一様に作っていた。文成はそんな連中にまったく目もくれず、部室を出て行った。
自転車に乗り、丁寧にもヘルメットを被った文成はゆっくりとペダルを漕ぎ出し、通用門に向かった。昼食時に生玄米粉のクリーム煮を少量摂っただけなので、腹は空き、ベータヒドロキシ酪酸が勢いよく脳内を駆け巡っている。とりあえずは水が欲しいところだ。そんなことを考えながら、通用門を出た瞬間、背中に向かって誰かが声を投げつけた。
「あぁ、君、君! ちょっといいかな」
妙に味のある掠れ声が飛んできたので、思わず文成は急ブレーキをかけ、前輪を浮かせてから自転車を止めた。さっと振り向くと、比較的頭髪が薄く、後退している中年男性と、長身で壮健な男性が駆け寄ってきた。長身の男性は30代前半に見えた。
どこかで見たような気がしたが、どこで見たのかはっきりわからなかった。そしてもうひとつ疑問に思ったのは、なぜ止まって振り向いたのか。この二人が何者なのかわかっているのに、逃げようとしなかったのはなぜか。
わかったことは、この二人は、別の意味での“使者”だからなのだろう。その意味するところは、実際に話を聞かないとわからないものであることだけは、はっきりと認識できた。
第30話へ続く
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