我が心の平井和正

No.5 『幻魔大戦deep』スタートを前に
 もうまもなくですが、4月1日、いよいよ平井和正入魂の最新作、『幻魔大戦deep』が携帯小説として、刊行されることになります。5年位前までは平井和正の作品を携帯電話で読むことになろうとは想像もつきませんでしたが、科学の進歩か欲望の進歩か(苦笑)美麗なフルカラーイラストがふんだんにあしらわれた(よね?)名作群が手軽に読めるようになりました。すでに、3月4日から『幻魔大戦』『ボヘミアンガラス・ストリート』『月光魔術團』といった旧作3作が順次発表されていますが、純粋の新作としていよいよ『幻魔大戦deep』が登場するわけですから、ファンとしては否が応にも盛り上がってしまいます。
 さて、ひさびさの『わが心の平井和正』で何を言うのかと言いますと、ここ最近の平井和正の精力的な活動に関しては目を見張るものはあるのですが、それに関して腹の中に抱えているものを出してしまおうということであります。
 随分、奥歯に物が挟まったような言い方ですが、結論を言いますと、「どうなんだろうなぁ……」と、不安になっているのであります。不安の理由は二つあるのです。
 まずは、「作家・平井和正」として、期待していいのかどうか? 2004年までは「平井和正に駄作なし」と私は自信もって言うことができました。あるいは、「平井和正は今まで傑作か佳作しか書かなかった。駄作なんてひとつも書かなかった」とも思っていました。『インフィニティー・BLUE』でさえ、展開が平坦でも駄作とは思いませんでした(終盤ようやく面白くなりましたけどね)それが揺らいだのが、『地球樹の女神』最終版の特典その1として収録された『その日の午後、砲台山で』でした。
 もう、いまさらどうこう言うつもりは無いし、言いたい事は『雑感雑念』のクロス・レヴューで言いましたから、それを見ていただければと思っています。それで思ったのが、これが『幻魔大戦deep』につながるプロローグ的な作品だとしたら、次は期待していいのか、それとももう期待できないのか。複雑な気持ちになってしまうのです。『インフィニティー・BLUE』は盛り上がりが足りない作品ではありましたが、そのあとの『ABDUCTION』は非常にすばらしい作品でしたし、「『インフィニティー・BLUE』でやろうとしたことがここで実ったな」と納得のいく仕上がりだったので、大喜びしました。(ついでに言うと、『ABDUCTION』を読んだおかげで、『マトリックス』が傑作だと言うことを理解することが出来ました。どういうことかはここでは言いませんが、後の機会にでも)
 じゃ、『その日の午後、砲台山で』がいまひとつなら、次は期待できるんじゃないか、と言うことになるはずなんですが、私はそんな風に思えなくなってきているのであります。ま、前回は期待しすぎたから個人的に盛り上がらなかっただけでは、と言うこともあるかもしれませんが、それにしても、あの展開の鈍重さは正直私、倒れてしまいました。あの平井和正がこれほど鈍重な物語を書くとは、と言う信じがたい思い。それを考えると、まさか次回も、と思わずにいられないのです。
 しかし、平井和正は今まで、良い意味でファンの裏をかいてきた作家ですから、「そう持ってきたか!」と、ファンをあっと言わせる作品を出してくるかもしれませんので、あまり軽率なことを言うことは無いのでしょうけど、今回は正直、どうなんだろうかと、ものすごく気になるところであります。しばらく私は様子を見ることになるでしょう。

 もうひとつの気になることが、はたして、携帯小説と言う形でファンを開拓することが出来るか、裾野を広げられるかと言うことであります。これは商業的戦略とも関わってきますので、一概にどうと言える事は無いのかもしれません。ただ思うに、1994年、おそらく世界初のオンライン出版を始めたようにそれこそ、10年先を見ていたその目の確かさはそのほかの人々がどんなに頑張っても持ち得ないものかもしれません。でも、その先見の明でもって始めたことによるアドヴァンテージがいまひとつ、生きていないというか、それほどでもないと思えてしまうのです。最低10年のアドヴァンテージが何らかの形となって現れてもいいはずなのに、それが大勢になんら影響力を及ぼしていないのが、「なんで?」と歯痒くなっています。このままだと「先を行き過ぎた人」で終わってしまう可能性が高いです。
 確かに今の世の中、右を向いても左を向いても、携帯を眺めている人ばかりではありますが、そのうちどれくらいの人が「活字」を読むのか、あるいは読めるのかという点でも疑問が湧いてきます。最近、高校生の学力が低下しているなんて言われていますが、TVの街頭インタヴューで「活字読みますか?」と訊かれた高校生が「活字って何ですか?」と答えたそうである。正直、ぞっとする話である。活字が何なのかさえわからない人たちが存在するんだから、果たしてそんな人たちが興味を持つのかどうか、持ったとしても一瞬のことであって、のめりこむ可能性は薄いと言わざるを得ないと思うのです。
 ま、読まない人はどこまでいっても読まないでしょうけど、では、読む人たちはどうなんだろうか? これも疑問を感じざるを得ません。これは読書に限らず、音楽や映画を鑑賞する人たちにも見られる現象なのですが、今の人たちは正直言って「醒めた感覚の持ち主」が多いでしょう。とことん熱をいれることは無いのです。
 これは読者の質の変化とも関わっているようでありまして、かつての読者はひとつの作品からたくさんのもの吸収しようとしました。その作品の背景、あるいは思想、そして籠められた想い、そういったものを読み取って咀嚼して吸収して、さらに深く理解しようとしたものでした。それからさらに深く理解しようといろんな違った作品にも手を広げていったものでした。
 ところが、今はひとつの作品を手にしても、そこから何かを読み取ろうとか、何があるんだろうという事を知ろうとはしなくなりました。その時気になったものに手は出すけど、興味が無くなったらそれまで、と言うことが多々見られるという状態なのです。こういった人たちが読書というものに深くのめりこむかどうかと考えるだけでも、不安に思ってしまいます。
 今回の携帯小説での刊行で売り上げが5桁を記録すれば、成功と言われるのかもしれませんが、それが後々まで発展するのか、一過性のものなのか。やればわかるものでしょうけども、展望は厳しいと言わざるを得ません、私は。
 かつて平井和正は「作者と読者の間には暗くて深い淵がある」と言いました。これは真実だと思います。じゃ、その暗くて深い淵を埋めるか、橋を架ける存在が必要ではないのか。そうする必要が無いと言われたらそこまでですけど、でも、そういうことをしなければ、見通しは悪いでしょう。作者と読者を繋ぐメディア(報道関係者という意味では無くて)、やはり、何か事を起こして盛り上げようと言うのなら、そういう存在も必要な気もします。不必要に大々的にやることは無くても、このままアンダーグラウンドの世界で収まると言うのは、憮然としてしまいます。
 ……と、ひさびさに好き勝手言いましたけど、こんな私の読みなんか当たるわけ無いだろう! と言わんばかりに携帯小説で大々的な成功を収めて、「平井和正と言う人は、こんなに素晴らしい作品を書く人なんだなぁ」という人がまた広がれば、私としてはすごくうれしいんですけどねぇ♪(どういう結論だか……苦笑)

(GABRIELE)


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