堕天使 〜Prinzipal der Finsternis〜

第11話 NOCKING AT YOUR BACK DOOR


 9月も中頃に入った火曜日になっても、喜田嶋に関するニュースは依然報じられていなかった。まだ死体は見つかっていないと見て良いだろう。滝田が消えたというニュースも出ていない。文成が射殺したやくざについては、死体を隠さなかったこともあって、新聞・ニュースなどで報じられていたが大きく取り上げられることは無く、噂でもちきり、と言うほどの事にはなっていないようだ。警察は対立組織との抗争に巻き込まれたと見て捜査しているようだ。
 文成は目だけで笑うと、何一つ纏っていない、絹のように白い自分の躯をベッドに横たえて、天井を眺めた。そして、ここ最近の自分を振り返った。やくざを殺して38スーパー・ピストルを奪ってからの自分は、まったく違う誰かのような気がしてならない。自分の中に潜んでいた他者ではないかと思う。そうでなければ、わざわざ知多まで行って、火薬工場に忍び込んで弾薬を200発も盗み出すことなど考えもしなかっただろう。それにしても、38スーパー弾がこの時代にまだ転がっているとは思わなかったが、おかげで自分を虐めていた山村のグループの人間をさらに4人消し去ることができた。まだ生き残っている奴らは今頃、仲間が次々と姿を消すことに不気味さを覚え始めたはずだ。待っていろ。オレをズタボロにして、コールタールに突っ込むようなことをした奴らは必ず何十倍、いや、何百倍もの利子をつけて叩き返してやる。搾り取れそうな物はすべて搾り尽くしてやる。
 文成は黒々と輝く瞳の奥で、暗い欲望の炎を揺らめかせて冷たく笑うと、眠気を覚えてそのまま眠ってしまった。
 翌日、文成は始業式以来ひさびさに登校した。
 二週間ぶりの学校はいくつかの小さな問題を除けば、概ね平穏無事に終わった。生徒や教師の誰一人として、文成に話しかけようとしなかったくらいの問題だけだった。文成にしてみれば、今さら近づいてこられても迷惑だと考えているが、ただ、彼らの避け方が少し気になった。文成を疎外しようと言うのではなく、逃げるように避けているのだ。まるで、触らぬ神に祟り無し、と言わんばかりだった。
 とは言え、この学校の生徒や教師に一切の興味を失った文成にとってはどうでもいい事だった。自分に危害を加えないならそれでいい。加えようというなら、闇に葬り去ればいいだけの話だから。そんなことを考えると、残虐な笑みが浮かびそうになったので、文成は首を振って気持ちを落ち着けた。
 授業がすべて終わり、荷物をまとめてさっさと帰ろうとした時、担任の川上先生に呼び止められた。
「平井君、今から先生と一緒に視聴覚室へ来て頂戴。話があるの」
 川上先生はなぜか低く声を落として、手短に言った。いつものように凛然とした貌なのだが、今、文成に見せているその貌はどこか必死さが漂っていた。何か切羽詰ったものがあるような気がした。しかし、それが何なのかまでは、文成にはわからなかった。
「はい、わかりました」
 やや無愛想に文成は答えた。そして、川上先生とともに教室を出て、視聴覚室へと向かった。
 視聴覚室へ行く間、文成は腋の下に汗を掻きながら、口を引き結んでいた。懐にコルト・スーパー.38を隠し持っていることがばれないだろうかと、不安になっていたのだ。今、ここでピストルを持っていることを悟られるわけにはいかない。まして、相手は川上先生だ。文成がこの学校で唯一好きな先生である。最悪、自分の手で先生を殺すことは避けたい。文成は袖で冷や汗を拭った。
 視聴覚室へ入ると、先生は真ん中の机を指して着席を命じた。そして自分は視聴覚室の扉に鍵を掛けた。
「1時間ほど、時間はとってあるの。その間、誰かが入ってくる心配はないわ」
 先生は少し意味深なことを言ってから、文成の前に座った。
「先生、何の話ですか? 簡潔にお願いしたいんですが」
 文成のこの問いかけに先生は少し驚いた。今までの文成からは想像できないほどのふてぶてしさが言葉と声音に現れていた.
「じゃ、簡潔に言うわね。最近、うちの中学校の生徒が何人か行方不明らしいの。その中には、喜田嶋君に滝田君も入っているの。平井君、何か知らないかしら?」
 先生がそう訊くと、文成はあからさまに不愉快な貌をした。
「知りたくもありませんね、あんなクズども。とっとと、死にゃあ良い」
「平井君。あなたの気持ちがわからないとは言わないわ。でも、この十日の間にこの学校の生徒がわかっているだけでも4、5人、行方がわからなくなるなんて異常よ。警察に捜索願は出してるけど、まだこの話は表に出してないの。まさかこの学校で行方不明者が続出してるとわかったら、大騒ぎになるし、みんな不安になるのよ。それで、今、手がかりを探しているの。だから、平井君、何か知らないかしらと思ったんだけど……」
 文成は内心、舌打ちした。警察が本格的に動き出したのなら、復讐が達せられない可能性がある。まだ本格化しないうちに片付けなければならない。文成は焦りを覚えた。
それでも文成は心の焦りを貌に出さずに、息を大きく吐き出してとぼけて見せた。
「おおかた、北朝鮮の工作員にでも拉致されたんじゃないですか? 別にどうでもいいけど。というか、葬り去ってほしいんですけどね」
「平井君、あなた変わったわね。どうすればたった二週間でそこまで変われるのかしら?」
 先生が、失望したとでも言いたげに嘆息するように言った。
「昨日の彼は彼ならず、です、先生。よくある話です。それより、先生。まさか、こんなくだらない話をするために1時間も取ったんじゃないでしょうねぇ」
 文成は平然と言ってのけた。確かに今の彼はふてぶてし過ぎる。
「前と違って、すごくふてぶてしいわね。ひょっとして、喜田嶋君たちが行方不明になったのと関係あるのかしら」
「さあ、知りません」
 先生がさりげなく核心を衝くような事を言ったが、文成はなんら狼狽することなく、白を切った。そこで先生はもうひとつ別の話を切り出した。
「実はもう一つ問題があるの。草薙遥さんが先週の月曜日から登校してないの。平井君、何か聞いてないのかしら?」
 これには文成も少し驚いた。言われてみると、今日は遥を全然見ていなかったことに気づいた。
「今、初めて聞きましたよ。まさか、遥も……」
「そうではないわ。お母様からしばらく休むとの連絡が入っているわ。体調不良で寝込んでいるらしいの。でも、先々週の金曜日はちゃんと登校していたのよ。それが、週が変わって10日近くも寝込むようなことになるなんておかしいわ。とても体調不良とは思えないの。平井君、何か心当たりは無いかしら」
「単に生理痛なんじゃないのですか? あるいは夜更かしが過ぎて風邪でも引いたんでしょ。お尻を冷やしたのかな?」
 文成の以前の姿からは考えられない、人を食った態度に先生はとうとう血相を変えて怒った。
「いい加減にしなさい、平井君! 先生は真剣なの! 今日やっとあなたが戻ってきたというのに草薙さんはまだ休んでいるなんてどうなっているのと、すごく心配しているのよ。あなたも真剣に考えなさい!」
 先生に厳しく言われた文成は大きく息を吐き出して、目を上に逸らしながら下唇で上唇を隠す、珍妙な貌を作った。一呼吸置いた後、おもむろに口を開いて言った。
「……これから見舞いに行ってきます。ひょっとしたら、休んでる本当の原因がわかるかもしれない。何かわかったら連絡します」
 そう言って文成は立ち上がって視聴覚室を出て行こうとしたので、先生はすばやく文成を制するように声を発した。
「待って、私も一緒に行くわ」
「いやです。一人で行きます。先生がついてくると、上手くいくことも上手くいかなくなりますから」
 文成はまるで先生を振り切るように、無下に断った。度重なる文成のぞんざいな態度に、先生は完全に激昂した。
「何様のつもりなの、平井君! いったい何があなたをそうさせたの!? どうしてそんな傲慢不遜な態度をとるの! 言いなさいよ!」
 先生の甲高い叫び声が窓ガラスを割りそうだ、と思った文成は醒めきった瞳を先生に向けて、渇いた声で言った。
「……遥なら何か知ってるかもしれないよ。オレがどうしてこうなったのかが、ね。知りたいことがあるなら、オレに訊かずに直接遥に訊けば良い」
 文成の意味深な言葉に川上先生は怒気を削がれた。が、完全に消えたわけではない。吊り上ったままの眦がそれを物語っていた。
「ずいぶん、意味深なことを言うのね。いいわ、草薙さんに直接会って訊いてみるわ。一緒に来なさい」
 そう言って、先生は文成の腕をつかんで引っ張るように視聴覚室から連れ出した。文成は先生の果断なやり方に驚きながらも、心の中で苦笑いして言われるままにした。

 川上先生が運転するブリティッシュ・グリーンマイカ・カラーのダイハツ・ミラ・ジーノ・ミニライトが遥の家に着くのに10分もかからなかった。着いた途端、文成はさっさとミニライトを降りて呼鈴を鳴らした。インターホンから女性の声が聞こえると、文成は来意を告げた。
「あ、奈穂美さん。文成です。遥の見舞いに来ました」
 文成が遥の母に対してまるで友人のような口の利き方をしたので、後から出た先生が早速注意した。
「平井君、年長の人に対してそんな失礼な口の利き方をするもんじゃないわよ」
 すると文成はこう返した。
「以前おばさんと言ったら、おばさんと言わないの、奈穂美さんと言いなさいと、いわれました。文句があるんだったら、奈穂美さんに言ってください」
「呆れたわねぇ。でも、そんな口の利き方をすると誤解されるわよ。遥さんのお母様とできてるんじゃないかって」
「冗談きついです、先生」
 文成は不足そうに言った。まもなくして、玄関のドアが開き、遥の母、奈穂美が現れた。かつてバレリーナだったこの女性は結婚を機に引退したが、それでも土日には近くのバレエ教室で子供向けにバレエを教えている。すでに35歳だが、とても中学生の娘がいるとは思えないくらいのスレンダーな体型だった。セミロングの髪が艶やかに輝いていた。ただ今日に限って言えば、美しい貌がなぜか翳っていた。それでも文成が来たことを喜んでいた。
「いらっしゃい、文成君。あら、川上先生まで来てくださったんですか。どうもありがとうございます。せっかく来てくださったのに申し訳ないのですが、遥は気分が優れずずっと寝込んでいまして、誰にも会いたくないといっておりますので……」
 奈穂美は心から申し訳なさそうに言った。
「誰にも会いたくない? なんか変だなぁ……、あれだけオレにへばりついていた遥がねぇ」
「そうなの、文成君。こういうことは言いたくなかったんだけど、遥はあなたに会いたくないと、言っていたわ。あれほど好きだった人に会いたくないなんて言うとは思わなかったわ。食事もほとんど喉が通らないの。水しか飲んでないわ」
「水しか飲んでないの! 大変よ、それは。どうして医者に診せないんですか!?」
 先生が驚いて中に割って入ってきた。
「医者には遥が倒れたその日に診せました。医者が言うにはなにかショッキングな出来事に遭遇したんじゃないかと。遥に訊いても口を閉ざして何も言わないから、どうしようもないんです」
「倒れた? 失神したってこと?」
 文成はやや素っ頓狂な声を上げた。この男らしからぬ間抜けな声だった。
「お母様、遥さんが倒れたのはいつですか?」
 間髪いれずに先生が奈穂美に尋ねた。
「先週の月曜日ですわ、先生。朝になっても起きてこないので見に行ったら、頭から布団を被って、学校に行きたくない、誰とも会いたくないなんて言い出すから、最初、駄々を捏ねているかと思っていたから、そんなこと言ってたら文成君に笑われるわよといったら、突然、まるで発狂したかのように泣き喚きだしたの。もう必死になって抑えようとしたんだけどダメでしたわ。そのうち、崩れるようにしてそのまま倒れて……、もう、何がなんだか全然わからなくて」
 奈穂美が少しやつれたような表情で、それでも毅然とした声で語った。そんな奈穂美を見た文成は悄然とした表情を作って言った。
「……奈穂美さん、お願いがあるんですけど、いいですか?」
「何、文成君?」
「いや、大したことじゃないんです。これを遥に渡しといて欲しいんです。落ちていたよって」
 そう言って文成はズボンのポケットからエメラルドグリーンのブローチを取り出して、奈穂美に手渡した。遥の10歳の誕生日のときに、文成がプレゼントしたブローチである。さらに文成は言った。
「それから、遥に伝えてください。早く決めろ、と」
 謎めいた言葉を発した文成に対して、二人の女性は対照的な態度を表した。川上先生は何のことかまったくわからず、目をぱちくりさせていたが、奈穂美はわからないまでも文成の意図するところはいくらか読み取ったようだ。
「わかったわ、文成君。ちゃんと遥に言っておくから」
「ありがとうございます。では、失礼します」
「ごめんなさいね、本当に」
 文成があっさりと辞去したので先生はあわてて文成を留めようとした。
「ちょっと、平井君。どういうつもり?」
 すると文成は先生に貌を向けずに低い声で答えた。
「遥が会いたくないと言ってるんだから仕方がない。それに、オレの知りたかったことはもうわかった。後は遥がどうするかだけだ」
「一人だけわかったような事言わないの。何かわかったら、私にちゃんと報告すると言ったはずよ、あなた」
「大丈夫、遥は戻ってくるよ。元気にね。でも、昨日の彼は彼ならず、だろう。今までの遥とはまるっきり、変わっているはずだ。それじゃ、先生。オレは帰らせてもらうよ」
 そういって文成は最後まで先生に貌を向けずに去っていった。そんな文成の背中を呆然と眺めながら、先生は考えた。
(そういえば、あの子。自分のことを〈オレ〉と言ってたわ。今まで〈僕〉と言っていたのに。どうしてそこまで変わってしまったのかしら……)
 陽はまだ沈んではいなかったが、辺りの風景はすっかり暗くなったように思えた。まだ暑さが残っている季節なのに、薄ら寒いような気がしてきた。先生はおぼろげながら、何か恐ろしいことが起こっているのではないかと思った。
「ま、平井君、嘘をついたことはなかったから、草薙さんが元気になるのは間違いないわね」
 そう明るく言って先生はミニライトに乗り込んだ。しかし、胸の奥ではわずかに鉛色の不安が消えずに残り続けていた。嘘はつかないが、隠していることはいくらでもあるんじゃ。先生は首を振ってからミニライトを発進させた。まるで文成に対する疑念を振り切るかのように。

 西日が射し込む部屋の中で、遥は悄然とベッドの上で上半身を起こしていた。西日を背に受ける形で座っているので、彼女の表情は陰になっているが、それはそのまま彼女の精神状態を表しているようだった。つややかな亜麻色の髪は色褪せてすっかり痛んでしまい、ろくに食事を取らないので躯は痩せ衰えていた。夏の花のように華やかだった貌はまさに枯れ果てようとしているかのようだった。
 今の遥は恐怖と懊悩に苛まれていた。自分の目の前で起こった恐ろしき現実を両親に言うべきか。しかし、それを言えば、遥は大切にしていたものを失ってしまう。もう、元に戻らないかもしれない。それどころか、大切にしていたものに自分が壊されるかもしれない。自分が好きだった人間に殺されてしまう。
(あたし…………、どうしたらいいの…………)
 遥は胸が張り裂けそうになっていた。そしてまた、あのときのおぞましき光景が蘇るかと思うと、遥は躯を小刻みに振るわせた。
 遥は見ていたのである。文成が悪鬼羅刹と化して喜田嶋を惨殺するところを。あの日の晩、文成が植物園に向かおうとしているのを偶然見た遥はタクシーを捕まえて、尾行していた。そして、植物園に入ったのを確かめると、自分もこっそり忍び込んだ。文成を驚かせるつもりでついていったのだが、しばらくしてから木陰で盗み見たのは想像さえできなかった光景だった。そこには集団で辱められて泣いてばかりいた少年はいなかった。それどころか、天使のように無垢な輝きを放つ瞳を持ち、花のような匂いを漂わせる子供もいなかった。いたのは復讐という名の歪んだ欲望をさらけ出し、虐殺に興じて喜悦に浸る人間の形をした獣だった。およそこの世の存在とは思えなかった。
 遥は、自分の好きな人間が人殺しを楽しんでいることにショックを受け、恐慌に陥った。そしてその場で、失禁を繰り返したのである。
 さらにこのことは遥を四六時中苦しめることとなった。寝ても覚めてもその光景がヴィヴィッドに浮かび上がったのだ。バットを振り下ろしては怪鳥(けちょう)のように叫び笑う文成の姿に遥はうなされ、パニックになった。両親に縋り付いても震えは止まらず、文成の名前を聞くだけで発狂しそうになり、とうとう失神してしまったのだ。
 十日たった今、最初のときほどではないにしろ、いまだ文成のおぞましき姿が脳裏に浮かんできては、遥を苦しめていた。
(文成は今も復讐といって人殺しを楽しんでいるはず。もし文成が見られたことを知ったら、そのままでいるはずが無いわ。その前に警察に知らせるべきなのかもしれない。でも……、そうなったら、文成と永遠に離れなければいけない。文成より好きな人なんてどこにもいない。だけど、文成があたしを殺しに来るのなら……)
 恐怖でまた躯が震え始めたその時、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「遥、入るわよ」
 母の声だった。
「いいわよ、ママ」
 ほとんど力の入っていない声で遥は答えた。その姿はあまりにも心が痛みそうだった。
 ドアが開くと、母だけでなく、父の雪彦も入ってきた。音楽大学の教授を務める雪彦は帰宅がいつも遅いのだが、今日は遥のこともあってか、早く帰ってきた。
「まだ、起き上がることができないのかな、わがお姫様は。それとも、今起き上がるところだったのかな?」
 雪彦は明るく陽気に、遥に話しかけてきた。その貌には翳りというものが一切無かった。そんな父が遥にはうらやましく思えた。
「パパがうらやましいわ。どうすれば、そんな風に明るくいられるのかしら?」
 遥の口から今思ったことがそのまま出てきた。
「遥、パパに向かって憎まれ口を叩くんじゃないの」
 奈穂美がたしなめると、それを抑えるように雪彦が言った。
「いいじゃないか、ママ。昨日までと比べたらずいぶん元気が出てきたじゃないか。良い傾向だ」
 雪彦は遥の言葉にあまり応えていない様子で奈穂美に言った。
「もう、パパはいつも遥に甘いんだから」
 不満をこぼす奈穂美に対して雪彦は悪びれることなく言った。
「ははは。遥はかわいいお姫様だ。ついつい甘くなってしまう。でも、遥。いい加減、塞ぎこんでいる訳をパパやママに言ってくれないと、このままでは遥は衰弱死してしまうんじゃないかと思って、すごく心が痛む。遥、訳を話してくれないか。文成君にも会いたくないという遥の悩みとは何なのだ?」
 雪彦が文成の名を口にした途端、また遥の躯が発作を起こしたかのように震えだした。すぐさま雪彦は遥の躯を抱きしめて抑えにかかった。そして、遥の躯を抱きかかえた。
 どうにか震えを抑え込むと、雪彦は嘆息するように言った。
「どうやら、悩みの種は文成君のようだな。しかも、ただ事じゃない」
 そこへ奈穂美がすかさず切り出した。
「遥、今日文成君が見舞いに来て、これを渡しておいてください、と言っていたわ」
 そういって、文成から預かっていた、遥のブローチを見せた。その瞬間、遥の貌はシベリアの薔薇の如く凍りついた。双眸はこれ以上無いというくらい大きく開かれ、血色の衰えた唇は開いたまま、固まってしまった。文成からプレゼントされたブローチをあの時無くしていたことは知っていたが、どこで無くしたかはわからなかった。それが……。
(やっぱり、文成は知っている……!)
 遥は確信した。文成はおのれの殺戮欲に狂った貌を見られたことを知っている。そしてそれを見たのが自分であることもわかっている。それを伝えてきたのだ。
「それと、遥。文成君の伝言。早く決めろ、そう言っていたわ。どういう意味なのか、ママにはわからないけど、あなたはわかっているはずだわ。そうでなければ、文成君、あんなわけのわからない言い方はしないはずよ。遥、文成君にどう答えるつもりなの?」
 この奈穂美の言葉が、不思議なことにそれまで遥を苦しめていたパニックを振り払った。そして遥は覚悟を決めた。早く決めろ、文成はそう言った。つまり、自分の復讐を見てみぬ振りをして見逃すか、それとも、両親に打ち明けて止めようとするか、それとも他の手段に訴えるか、お前が決めろと言ってきたのだ。決めないならば是非もない、と言いたいのだろう。遥はそう考えて、ついに決断した。
(文成と命がけで戦おう。好きな人に殺されるのなら、本望だわ)
 凍りついていた貌が融解した。そして、内なる炎のなせる業か、遥の貌つきが今までに無く逞しさを表した。
「パパ、もう降ろして。こんな状態では大事な話ができないわ」
 声音に力強さが戻った。いや、今までの遥には無かった強さがそこにあった。もう躯はまったく震えていない。
「そうか、よしわかった。それじゃ、聞こうじゃないか。遥の大事な話を」
「ママも聞いて頂戴。私の大事なフィアンセに関わる話だから」
 やや緊張しているのか、普段、あたしと言っているのが、この時は〈私〉になっていた。
「やっぱり、文成君、何かあったのね。今日、川上先生と一緒に来てたんだけど、今まで川上先生に頭が上がらなかったのに、今日はなぜか、先生を無視して勝手にしゃべっていたわ。蔑ろにしていたと、言うべきね。それも何か関係があるの、遥」
 奈穂美がそう言うと、遥は、やっぱりと言わんばかりの貌を見せた。
「関係あるわ、ママ。結論から言うけど、驚かないで。平井文成が人を殺すところを、私見たの。この目ではっきりと。間違いないわ。そして、文成は私に見られたことを知っているわ。だから、早く決めろと言ってきたのよ。僕をどうするつもりだと言ってきたのよ」
 遥はそれまで溜め込んでいたものを一気に吐き出すように喋りきった。それはまるで自分に溜まっていた毒や膿をすべて吐き出すような感覚だった。そうすることによって新たな力が賦活されたような気がしてきた。
 遥の告白に、両親は声が出なくなった。雪彦は厳しい表情で黙り込み、奈穂美は両掌で口を覆った。夢にも思わなかった娘の発言にショックを隠せなかった。
 しばらく滞った重い空気を振り払うように奈穂美が口を開いた。
「そういえば……、文成君、自分のことを〈僕〉と言わずに、〈オレ〉と言っていたわ。あの時気にも留めなかったけど、遥の話を聞いて思い出したわ。あんなに人格が180度も変わるものなのかしら」
「変わると思うわ、ママ。だって、ただ復讐するだけなら、ひとおもいに刃物で刺すとかすればいいのに、文成は金属バットが折れるほど、何百回も殴ったわ。もう原型なんてなくなっていた。最後は骨の灰すら残らないんじゃないかと思うくらい、燃やしてた。もう、文成は昔の文成じゃない。というか、あれは人間じゃないわ。はっきり言って獣よ。今の文成は復讐と言って殺戮に血道をあげる餓えた獣でしかないわ」
 文成と戦おうと決めた瞬間にわきあがった情念が突き動かしたのか、遥は文成を獣と断じて、いかに恐ろしい存在になっているかを両親に訴えた。
「遥、怖いことを思い出させるようで、気が進まないが、その時のことを詳しく、順を追って話してくれないか。ものすごく大事なことだから」
 雪彦はゆっくりとした口調で遥を促した。
「いいわ、パパ。あたし、決めたから。もう、文成から逃げないって」
 一人称をあたし、に戻して遥は、文成が復讐を始めるに至った経緯から、実際に見た文成の殺人の様子、そして、これからも文成が虐殺を繰り返すだろう、いや、もう何人かが文成によって消されているかもしれないと語った。
 雪彦はしばらく両掌を貌の前に組んで聞いていたが、遥が語り終えると、大きく息を吐き出した。胸が詰まる思いだったのだろう。しかし、そのあと先ほどと同じようににっこりと笑い、明るい声で言った。
「大丈夫だよ、遥。パパが必ずなんとかする。いや、してみせるよ。遥も文成君も悲しむようなことはさせない。パパに任せなさい。遥はただ待っていれば良い」
 そう言った父の明るさに、ようやく遥の心が和んだ。緊張しきった躯が解れていくのがわかる。
「ありがとう、パパ。あたし、ほっとしたわ。必ず文成を助けて。……あぁ、なんだか眠くなっちゃった」
 緊張感が無くなった反動が大きかったのか、安堵した途端に遥は眠気を催した。
「なんだなんだ、遥。もうすぐ、夕食だぞ。寝てしまうのか?」
「だって、文成のせいで全然眠れなかったのよ」
「ははは、しょうがないな。ママ、この眠り姫のために、おいしいココアを作ってやってよ」
 雪彦が、何も心配しなくて良いと言わんばかりに、ウィンクして頼んだので、奈穂美もほっとした表情で答えた。
「はぁい。それじゃ、少しだけ待っててね。その代わり、残しちゃだめよ」
 そう言って、一階へ降りていった。
「パパ、あたしが眠るまでずっとここにいて」
 遥が甘えるようにいったので、雪彦は少し苦笑いしながらも遥の要望に応えた。
「あぁ、いいよ。一緒にいてあげる」
 雪彦はこう言ったあとで、遥の貌を見ながら、亡くなった文成の父、和弘のことを思い浮かべて、心の中でつぶやいた。
(和弘君、僕たちが思っていたよりあまりにも早く、その時が来てしまったよ。君の自慢の息子の文成君も、君と同じ道を歩み始めた。まだ、単なる殺人鬼でしかないが、どうやら僕が文成君を育てることになりそうだよ。そして、あの人に仕えることになるみたいだ……。運命とは、皮肉にできているものなのかなぁ……)
 雪彦はおもむろに遥の右手を両手で包み込んだ。やわらかく暖かい愛娘の手に、雪彦はなぜか寂しさを覚えた。だが、寂しがっている場合じゃない。もうその時が来たのだと、確信した。運命の使者が後ろからノックしている音がはっきりと聞こえていた。



第12話へ続く



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