堕天使 〜Prinzipal der Finsternis〜

第1話 一回目の夏


堕ちよ堕ちよ 狂える白鳥
汝はすでに  病めるが故に
果てよ果てよ 狂える白鳥
汝はすでに  壊れるが故に

癒し欲せど  もう絶えて
温もり望めど もう冷えて
潤い探せど  もう枯れて
安らぎ求めど もう消えて

(マリアンヌ・ド・ラ・フォンテーヌ 『世界暗黒文学全集・詩賦編』より)


 凶暴としか言いようの無い陽光が、地上を熱していた。それはもはや陽光と言うような、生易しいものではないだろう。恵みを与える陽光ではなく、死を与える熱光のほうが当てはまりそうだ。昔、誰かが歌っていた、“Omega Zero Day(オメガ・ゼロ・デイ)”がすぐそこまで来ているような気がする。昨日まで命を与えていた太陽は、命を奪う太陽と化しているのかもしれない。
 この凶暴な熱光を破壊したい。そして、すべてを闇に戻したい……。破滅的欲望が全身を支配しようとしているのが、自分でもはっきりとわかっている。だが、今はそれ以上に、怠惰な感情と、そのことに退屈している二つの自分がどっしりと居座っていた。

 兵庫県西宮市、阪神甲子園球場。八月のとある熱い日。ここで何十回目かの全国高等学校野球選手権大会が開催されていた。その1日目、1回戦、第一試合。西東京都代表・武蔵学院高校は優勝候補の名にふさわしく、愛知県代表・弘成高校に対して、序盤からリードを奪い、3対0のスコアで、9回裏を迎えていた。この裏を抑えれば、順当に2回戦進出である。
 対する弘成高校は初出場と言うこともあってか、自分達の野球ができず、と言うよりむしろ、甲子園に出場したこと自体奇跡と言ってよいくらいの試合ぶりでここまで来たので、3失点でおさまっている事が、大健闘と言われるくらいの実力だった。だからこの第一試合も、武蔵学院があっさり勝ち進むための、ある意味「消化試合」だった。ただしそれは、9回裏が始まる前までの話だった……。
 武蔵学院のエース、松島は8番、9番打者からあっさりと2アウトを取り、試合終了目前まで来たが、1番・三沢泰和にセンター前ヒットを打たれると、続く2番・諸積正史にライト前ヒットを浴びる。一塁走者・三沢は三塁にまで進んだ。そして、3番でピッチャー、黒田経雄の打席の3球目、諸積が盗塁してツーアウト、二・三塁。武蔵学院バッテリーはやむなく、黒田を敬遠した。次打者は4番・山崎元春。ところが、ここで弘成高校監督、森田茂道がベンチを出て、主審に向かっていった……。

「平井! 平井! 起きろぉ!!」
 年老いても、芯の強い怒鳴り声が、耳から頭に響いていた。狸寝入りしようにも、こうも頭に響いては、かえって気分が悪い。
「狸寝入りしている場合か! 出番じゃ!」
 躯(からだ)を伸ばして両目を開けると、小柄だが眼光鋭く、しかし、なぜか反抗心の起こらない顔がすぐそばにあった。
「カントクゥ。終わりましたぁ?」
 平井と呼ばれたその少年は、まだ眠りの世界から覚めていないかのように場違いなことを言っていた。
「バカモノ! 代打じゃ! お前が打つんじゃ!」
 森田監督は平井の意識が覚醒するまでは、声が枯れようとも怒鳴り続ける気持ちで、この平井と言う少年を叩き起こそうとしていた。
「へ?代打? オレが? なんで?」
「せっかく、甲子園に来たんじゃ。結果はどうあれ、いい思い出を作って来い」
「すいません。それは、ツーアウト、ランナー無しの時に言うセリフで、今は一発逆転かもしれないでしょ? なんでオレ?」
「打てないのか?」
「全くです」
 この答えに、しかし森田はニヤッと笑って、
「お前がダメなら他の奴はもっとダメじゃ。とにかく、お前で最後じゃ。お前が行け!」
 と、言い放った。こうなっては出ざるを得ないことは誰でもわかる。それが、この老監督のやり方だった。
「いいですよ。負けて良いんだったら。オレ責任取らないけど」
「お前はそんなこと考えんでいい。思いっきり振って来い!」
 そう言われて、平井は自分のバットを持って打席へ向かったが、そのバットは、高校野球でおなじみの金属バットではなく、木製だった。しかも、アオダモではなくメープル材だった。
 日本野球界において、木製バットといえばアオダモだった。特に、北海道苫小牧産のアオダモは良質で、バットに最適の素材であった。しかし、乱伐によってその数は減少の一途をたどった。植林活動によってアオダモを育成保存する動きはあるのだが、育つのに最低70年はかかる。しかも、バットとして使えるのはわずかに30本に1本程度なのだ。
 高校野球でははじめは木製だったが、資源保護と折れることによる経済的負担の軽減という名目で、1975〔昭和50〕年より、金属バットに変更された。これにより、原辰徳(東海大相模高校)というヒーローが生まれたり、徳島県代表、池田高校が「やまびこ打線」と謳われたりするなど、甲子園で猛威を振るうことになった。
 しかし、時代が進むにつれて、“飛び過ぎる金属バット”が浸透。ついには、バッティング・ピッチャーが練習中に打球を受けて死亡する事故が起きた為、日本高等学校野球連盟は2002〔平成14〕年、細く重く打球のスピードの出にくい新基準の金属バットを採用することになった。
 さて、今、平井という少年が持っているメープル(かえで)材のバットは、従来のアオダモより硬く、反発力があるので、ボールが飛ぶという利点がある。もちろん簡単には折れない。メジャーリーグ、サンフランシスコ・ジャイアンツの本塁打王、バリー・ボンズが使用していることで有名になった。しかし、ミートした瞬間の手首にかかる負担はアオダモと比べると大きく、どんなに手首が強靭でも故障する確率が高くなる。とは言え、コツが分かればこれほど強力な相棒は無いだろう……。

『……弘成高校、選手の交代をお知らせします。4番、山崎君に代わりまして、平井文成(ふみしげ)君』
 その刹那、すべての観客が沈黙した。そして、さざなみの如くざわめきだした。
(なぜ、4番を引っ込めて代打を出すんだ?)
(この平井って、誰?)
(弘成高校の監督は野球を知らないのじゃないのか?)
 こういった声がはっきりと、平井文成の耳にも聞こえるような気がした。そんな声に対し文成は、
(オレに訊くな!)
 と、心の中で返していた。
 一方、武蔵学院バッテリーは勝ったと思っただろう。4番を引っ込めて出してきたのが、聞いたことも無い、まさにデータに無い控え選手である。貌すら知らない。しかし、近づいてくるその選手を見る限り、体型が明らかに細かった。まるで少女のように華奢なのである。もっと言えば、“お嬢様”なのだ。とても打ちそうに無い。木製バットを持っているが、格好をつけるにしても哂(わら)わせすぎである。わざわざ恥を掻くために出てきたとしか考えようが無い。もっとも、バッテリーはおろか、ベンチも、そして観客もこの不可解な代打には冷笑すら浮かべていた。あえて考えられるとしたら、4番の山崎が3打席無安打だったからなのだが、それにしても代打に出すなら他にいるだろうと思いたくなる起用だった。
 文成は右打席に入り、ヘルメットを取って、お願いしますと、武蔵学院の捕手、岩田に貌を向け、そして投手の松島にも顔を向けた。
 その時、武蔵学院バッテリーは、あっ、と、はっきりと驚嘆の声を上げ、そして息を飲んだ。“お嬢様”と思ったことがある意味、間違いではなかった。見目麗しきとは、この少年のためにあったのだ。そこに立ったのは、美少女といってもおかしくないほどの美少年だった。貌はまさに、象牙のように白く、眉は色濃く、それでいて太すぎることは無かった。鼻は高く、口元は引き締まり、しかも、唇はルージュを塗ったかのように赤い。それでいて、全く自然なのだ。えらは張っているが、いやらしさがない。
 だが、文成の最も美しいパーツはその瞳にあった。その黒く輝く瞳は、明らかに日本人のそれとはかけ離れていた。どう見てもヨーロッパ系の瞳としか思えない。そしてそれは、どこかで見たような瞳のような気がした。TVだったか、雑誌だったか、インターネットだったか……。まさに一度見てしまうと忘れられない、それどころか、その瞳から目を逸らすことのできない力が働いているかのようだった。ルネサンス時代の魔術師の目、と言うものを思い浮かべたりしたが、むしろ、“20世紀の楽聖”と呼ばれたElectric Wizard(エレクトリック・ウィザード)の魔蠱(まじ)に近いような気がした。

 ……茫然と眺めている岩田に向かって、松島が声を張り上げて正気に戻す。
「岩田! さっさと終わらせようぜぇ!」
 その声で岩田は正面に向き直った。しかし、この“お嬢様”を意識から振り払うことは不可能だった。そのあまりの意外性が岩田を動揺させたのだ。だが、いつまでも構ってはいられない。岩田はサインを送った。松島が満足げに頷く。セットポジションから放った1球目は真ん中低めの速球だった。
 文成はその球めがけておもいっきりバットを振った。が、振ったところは来たボールとは全く逆、高めだった。しかも、キャッチャーの頭上付近だ。さらに、勢い余ったか、バットを振った文成の躯は一回転した挙句、ド派手に尻餅をついたのである。もちろん、ヘルメットを落とした上で。
 一瞬、場内は静まり返った。そして沸き起こったのは、侮蔑と言っても差し支えのない、爆笑だった。まさにピエロが無様に転ぶのを喜ぶかのようだった。
 松島は思わず哄笑しかけるのを必死でこらえるような表情を出した。二死満塁、代打で出た選手がどれ程の者かと思っていたらド素人でもやらない空振りを見せたのだから。そして、岩田はと言うと、口を大きく開けて唖然としていた。
(なんだ? ほんとにコケ威し、と言うか、コケ威しにもならないじゃないか? ド素人でもやらない。野球知らないんじゃ……?)
 さまざまな疑惑が頭に浮かんだが、正直な話、困惑した。甲子園に来て、こんな醜態を平気で曝(さら)すとは。
 信じられないとは思ったが冷静に考えれば、いや、冷静に考えなくてもあっさり終わらせてくれそうな代打である。岩田はマウンドの松島に向かって、次のサインを出した。初球と同じである。
 さて、文成はと言うと、まるで何事も無かったかのように、すっと立ち上がり、再び構えた。その構え方は内股で、左踵をわずかに上げ、躯を反らし、両肘を上げてバットを寝かせている。全くもってお嬢様だ。誰が見ても、頭がおかしいか、それともナルシストか。
(カッコつけるにしたって、新庄剛志の出来損ないみたいだぜ……)
 松島はそうとしか思えなくなった。そして、満塁であるにも関わらずワインドアップ・モーションから、初球と同じ、真ん中低めのストレートを投げた。
(コースばっちり!)
 岩田の思い通りのコースだ。文成はまたバットを振ってきた。ところが、初球の振りとは全く違っていた。左足をしっかりと踏み込み、バットを上から叩きつけに来たのだ。が、バットはまたも空を切り、2ストライク。そして文成はまたも横転した。しかも、ある種期待に応えるかのように尻餅をついた。これでカウントは、2ストライク・ノーボール。
 再び沸き起こる冷めた爆笑。そんな中、キャッチャーの岩田は不安といったほうがいいような疑惑に捕らわれていた。空振りしたが、初球とは明らかに違う。
(今のは明らかに打ちに来た。でなければあんなにスムーズなステップはしないし、あんな鋭い振りはしない。次は絶対に当てにいくはずだ。1球遊んだほうがいい)
 岩田は外に遊び球を放るようサインを出した。しかし、松島は拒否した。
(こんな奴、遊ぶ必要もねぇ! 三球三振でゲームセットだ!)
 今度は松島が真ん中高めのストレートのサインを出した。いわゆる、“高めのツリ球”である。すると、岩田がそれを拒否した。
(バカ言うな! こいつはとんだ食わせ者だ! なめてかかったら手痛いしっぺ返しを食らうぞ!!)
 あくまで外角に外すよう要求する岩田。このとき、
「フワアァァ……」
 と、あくびが聞こえた。なんと、打席に立っていたはずの文成が打席を外してあくびをしていたのだ。岩田はまたも唖然とした。
(なんだ、こいつは……。やる気あんのかぁ?)
 この文成の態度には主審も不快に感じ、
「君、真剣にやりたまえ。日本中が君のだらしない態度を見てるんだぞ」
 と、注意した。
(そんなの、そいつらの問題であって、オレの責任じゃねぇよ)
 文成は、誰かが昔言ったようなセリフを心の中でつぶやきながらも、おとなしく打席に戻った。すると今度は妙なルーティン・ワークをはじめた。
 躯を屈めて、バットの先端でホームベースを二度叩いた。二度目を叩いた瞬間、跳ねるように伸び上がって、躯を反らした。そして相手を射すくめるかのような眼光を、マウンドに立つ松島に向けて放ったのだ。これには松島も驚いた。
「へぇ。男の顔になったじゃねぇかよ」
 岩田は文成のルーティン・ワークを見て、何か考え込んでいた。TVで見た覚えがあったのだ。
(どこかで見た気が…? 確かTVで…、そうだ! あの躯を反らす動作は、西武のアレックス・カブレラの動作そっくりだ!)
 そう思った瞬間、岩田は遊び球を使うことをやめた。さっさと仕留める事にしたのだ。
(こんなふざけた奴に構ってられない。俺達は優勝するために甲子園に来たんだから)
 3球目のサインを決めた。今度は内角低めの速球だ。しかも念を入れて、150kmを要求した。今大会No.1右腕、と言われる松島なら可能なことである。
松島も、ニヤリと笑いながら頷いた。自慢の速球で三振に仕留め、横転させてゲームセット。絵になる終わり方だと、ほくそ笑んだ。
 セットポジションに構え、一・三塁を見る。完全にランナーはあきらめ顔だ。松島はTV映えするかのようなアクションで、ウイニングショットを投げた。
(よし! 今日のベストボールだ!)
 キャッチャー、岩田が心の中で快哉をあげた。そして文成が案の定、バットを振ってきた。
(当たんないよ。ひっくり返るのがオチだ)
 そう思いながら、岩田は、文成が空振りして転倒するのを見届けようとした。
 その時だった。異様に甲高い音が岩田の耳に突き刺さった。
(え? 今のは、なんだ?)
 文成を見ると、倒れていないどころか、バットを下ろして、左中間方向を見ていた。岩田も左中間方向を見ると、ボールがバックスクリーン横のスタンドに向かって飛んでいたのだ。
『打球は伸びる。ぐんぐん伸びる。まだまだ伸びる!? こ、越えたぁ〜!! 場外ホームラ〜ン!! 何という事だ、何ということだ! 高校野球史上初の場外ホームラン!』
 TVの実況アナウンサーか、ラジオの実況アナウンサーか。脳卒中を起こすのでは、と思うくらい、異常に興奮して、文成のホームランを伝えていた。
『一体、この華奢、と言っては失礼ですが……、この細身の体のどこに、あの怪物・清原和博を上回るパワーがあるのでしょうか!? 平井文成選手、甲子園初打席が、代打逆転サヨナラ、場外満塁ホームラン! あまりにも劇的な結末です!』
 アナウンサーが一人興奮しているが、打った文成は至って平然としていた。むしろその表情は、してやったり、と言わんばかりだった。
 それ以外の人間。つまり武蔵学院バッテリー、と言うより、武蔵学院ナインと弘成高校ナイン、そして55,000人の観客は何が起こったのか、全くわかっていなかった。少なくともそんな表情だった。誰一人として、静まり返って声も出さない。
 そんな様子を見渡した文成は
「先輩! 歩いていいですから、ベース回って帰ってきてくださいよ。ベースをちゃんと踏んでくださいね。ベース踏み忘れて、ホームラン取り消しなんて、嫌ですから」
 と、大声で言った。ただそのセリフは、どうも素っ頓狂な気がしてならないが。
 だが、その素っ頓狂なセリフにようやく3人のランナーが、目覚めたように歩き始めた。それを見て、文成は悠然と歩き出した。その様は自分が最も優れていることを見せつけるようだった。そのことに気付いたのだろうか、ようやく観客がざわめき始めた。そして、大波乱が起こったことを認識したらしく、まるで恐怖から逃れようとするかのような絶叫を上げた。
「あぁ、うるせ。いきなり絶叫されると耳がおかしくなるって」
 二塁付近で文成はそう呟いた。そのとき、二塁手の顔が視界の端に入ったので、ちらと見たが、顔は青醒めて心ここにあらず、と言った感じだった。文成は、
「どうでもいいか。負けた奴のことは」
 と言って、ゆっくりと三塁を経て、ホームに向かった。ホームベース付近では、弘成ナインが、いまだに勝ったことが信じられないと言わんばかりの表情で文成を出迎えていた。と言うより、審判に整列を促されてきたんじゃないか、と思えるほど、オドオドしていた。
 ようやく、ホームランを打ってから1分以上過ぎただろうか。文成が本塁を踏むと、主審がゲームセットを告げた。
「平井。俺たち勝ったのか?」
「俺たちが次にいけるのか?」
 次々と尋ねる声に文成は、ややうんざりしながら、だるそうに、
「今、主審がゲームセットって、言ったでしょ。4対3で弘成高校が二回戦進出決定。さ、整列して校歌歌いましょ」と、答えた。
「整列!」
 主審が妙に気合を入れて号令をかけた。何でそんなにと思って、ふと武蔵学院ナインを見ると、全員が放心していた。ある種、現実から避けているようにも思えた。涙さえ見えない。
(ひょっとして、ド派手にやりすぎたのかな?)
 そんなことを文成は思い、笑みをもらした。
 校歌斉唱が終わり、一通りの挨拶が終わると、弘成高ナインは一塁側ベンチに向かって引き上げていった。帰り支度のためだが。文成はベンチに戻る直前、バックスクリーンのほうを向いた。凶暴な熱光はさらに高く昇っていた。まだまだ昇り続けるつもりなのだろう。
「こいつを……、ぶっつぶしてやろうか……」
 そう呟くと、虚無的とも取れる微笑を浮かべた。
「もう、始まったんだな。破滅へのカウントダウンが」
 そんな自分にしかわからない独り言を言う文成の表情は、復讐を胸に秘めた、かの堕天使のようだった。



第2話へ続く



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