第一回、第二回目は、発心堂に寄ります、(発信堂は巡拝用品を売る店です)
ちなみに、私が買った物は、納経軸3万(2〜3万)、納経帳5千(3千〜5千)、白衣(袖なし)2100×2、
輪げさ1500×2、金剛杖1250、線香350、十三経本300×2、ロウソク200. 納め札200 
第七番 札 所
十楽寺
( じゅうらくじ )
現在の場所よりも3Km余り奥の十楽谷に堂ヶ原という場所がある。この地を訪れた弘法大師が阿弥陀如来を感得し、樟で本尊を刻み堂宇を建立して開基した。またその際、山号・
寺名を命名するにあたり、生・老・病・死・愛別離苦(愛する者といずれ別れなければならない苦しみ)、求不得苦(求めるものが得られない苦しみ)など、人間が持つ八つの苦しみを阿弥陀如来の慈悲によって克服し、十の光明に輝く楽しみを得られるようにという願いを寺名に込めている。阿波北方きっての大伽監を誇っていたことから、この辺りからは、平安時代からの瓦が出土している。
第八番 札 所
熊谷寺
( くまだにじ )
桜並木の参道が名所となっている熊谷寺。左右に仁王像を従えて堂々とそびえる山門は、高さ13.2mの和様と唐様(禅宗様)の県指定有形文化財で、貞享4年(1689)に建てられたものというのだからその歴史は古い。しかし寺が創建されたのは、時代をさらにさかのぼる弘仁8年(817)。弘法大師が熊谷寺の閼伽ヶ谷(あかがたに)で修行している時に熊野権限が出現し「長く衆生済度礎とせよ」と告げ、一寸八分の金の観音像を授かる。そこで大師は等身大の千手観音菩薩を刻み、その胎内に熊野権限から授かった観音像を納め、堂を建立して本尊として安置。その時熊谷寺と名付けたのがこの寺の始まりと伝えられている。

第十番 札 所
切幡寺
( きりはたじ )
標高155m、切幡山の中腹に位置。本坊は山麓の山門から、坂道と333段の階段を登ったところ(但し乗用車であれば境内近くまで、車乗り入れ可能)にある。この寺の開創には次のような伝説がある。弘仁6年(815)、旅僧姿で弘法大師がこの付近を巡錫中、衣が傷んだので機を織っていた娘に繕いの布を求めたところ、娘は織りかけていた布を惜しげもなく断ち切って差し出してくれた。この好意に感動した大師は娘の願いを聞き、一夜で千手観音像を刻むと、娘を得度(僧侶となること)させ、更に秘密潅頂を授けたところ、娘の身から七色の光明を放ち、たちまち千手観音の姿に変わってしまった。これがいわゆる即身成仏である。
第九番 札 所
法輪寺
( ほうりんじ )
広々とした田園風景の中にひっそりと建つ法輪寺。現在の場所から約3kmはなれた西方山麓にあったこの寺には、昔から仏法を守護する白蛇が棲んでいた。弘法大師はこれを見たことで開基され、白蛇山法淋を建立したのが始まりと言われている。本尊は八十八ヵ所唯一と言われている珍しい寝姿の涅槃釈迦如来像で弘法大師作。釈迦がクシナガラショラン沙羅双樹の下で入滅(亡くなられる)した際に、北枕に顔は西向き、右脇を下に横に寝ている姿を表していて、その傍らには釈迦を慕う弟子たちや動物たちの嘆き悲しむ像が置かれている。この寝姿は別名「賢者の寝相」とも呼ばれ、安静を保つに は最も最良の形とか、開帳は平成19年2月15日。
第十一番 札 所
藤井寺
( ふじいてら )
弘法大師四十二歳のとき、自他ともに厄難を除こうと薬師如来像を刻み、飯尾の郷に堂宇を建立して本尊とされた。さらに金剛不壊の護摩壇を三百メートル山上の八畳岩に築き、十七日間の修法を行い、しかるのち堂宇の前に五色の藤を植えたという由来から、現在の山号、寺号となる。
永遠不滅を祈願して建立した藤井寺はその昔、七堂伽藍が立ち並んで荘厳を極めたと伝えられる。が、天正の兵火、さらに天保三年の火災に罹り堂塔、寺宝のことごとく焼失している。これら両度の火災の都度本尊だけは不思議に厄難をまぬがれている。
第二回巡拝の旅
日帰り
行 程
京都駅八条口(7:30)=<明石海峡大橋・大鳴門橋>=発心堂=(7)十楽寺=(8)熊谷寺=(10)切幡寺
=(9)
法輪寺=(11)藤井寺=<大鳴門橋・明石海峡大橋>=京都駅