第三回巡拝の旅
行 程
二日間
京都駅八条口(8:00)=<明石海峡大橋・大鳴門橋>=(16)観音寺=(15)国分寺、(14)常楽寺=(13)大日寺=(12)焼山寺=徳島<泊>
お宿=(20)
鶴林寺=(19)立江寺=(18)恩山寺=(17)井戸寺=<大鳴門橋>=◎淡路島公園=<明石海峡大橋>=京都駅
本堂には炎に包まれた女性が描かれた額が掲げられている。これはこの寺の境内で起こった不思議な実話に基づき描かれたもので、明治時代、淡路島からこの寺を訪れた6人連れが、ちょうど雨が降り出したので茶堂で休み、焚き火で白衣を乾かしていた。ところがこの時1人の女性の白衣に火が燃え移り炎に包まれたが、周囲の人々の救出で一命をとりとめた。災難だったとみんなで慰めていると女性は神妙な顔で、「実は昔、仲の悪かった姑を柱に縛りつけて、薪の燃え残りで叩いていじめたことがある」と告白。大師からその戒めを受けたと深く反省し、この絵を奉納したのだという。
  境内の中にあって一際目立つのが鐘楼門。和様重層の堂々とした門で見ごたもたっぷり。
第十六番 札 所
観音寺
かんおんじ )
第十五番 札 所
国分寺
( こくぶんじ )
天平九年、聖武天皇が諸国に六十六の国分寺を建てたことがある。この寺はそのときの阿波の国の一つだあり、天皇の勅命を奉じた行基菩薩が四国の地へ下向して党塔を建立したもので、寺号はその由来による。
  のち、天正年間の長曽我部の兵火にかかって堂塔はことごとく焼失。再建は長年月をかけて行われた。 まず寛保年間(1741〜3)に本堂が建ち、さらに年月を経た天保年間(1830〜43)に大師堂が完成している。
  境内にある鳥瑟沙摩明王堂は、不浄除けの仏様であり、弘法大師が十七日間にわたって修せられたのち刻んだもので、一つの願いは必ず叶えてくれるということで尊信されている。
第十四番 札 所
常楽寺
( じょうらくじ )
寺を訪れてまず目を奪うのが、石段の参道や、境内にむきだしになっている大岩盤でできた流水岩。これはこの地に境内を移転する際に、山を切り崩し埋め立て、岩盤の奥に堂宇を建てたために流水岩の庭ができたとされている。今でも雨や風など自然環境によって形が変化し続けているので、名作庭園としての評判も高い。
寺の歴史は弘仁6年(815)まで遡る。弘法大師がここで、修行をしていたとき、化身
した弥勒菩薩が多くの菩薩を従えて現れ、説法を行ったので、大師は霊木にその姿を刻んで堂宇を建てて本尊にしたという。
第十三番 札 所
大日寺
( だいにちじ )
弘法大師が建立した本堂は天正年間(1573〜1592)の兵火により焼失したため、現在の堂宇は明治時代に再建されたものとなる。明治時代に神仏分離令により本尊は行基の十一面観音菩薩となったももの、大日如来像も一緒に安置されているため、この寺には歴史的価値の高い仏像が2体あるということになる。本堂前に右手掲げて座っているのは撫で仏のおびんする様で、願い事を唱えながら撫ぜると願いが叶うと言われている。
  門を入った正面に合掌している両手の中に小さな観音像が入った「しやわせ観音」と言われる観音様が建っている。その名の通り幸せを願い祈るとよいとされ、多くの参拝者に親しまれている。
第十二番 札 所
焼山寺
( しょうさんじ )
ある日、弘法大師がこの地へ修行に訪れ、疲れから杉の木の下で眠っていると、夢の中に阿弥陀さまが現れ、周囲の異変ぶりを告げられた。目を覚ますと、山は火の海に、そこで大師が身を清め、真言を唱えながら山を上がると、火は徐々に消えていった。ところが9合目あたりに上って来た時、大蛇が姿おあらわし、大師の修行の邪魔をしようと向かってきたのである。その時、光と共に虚空蔵菩薩さまが現れ、その力を借りて大師が大蛇を岩窟に封じ込めたというのだ。その岩窟は、奥の院へ行く途中の道筋に今でも残っている。
第二十番 札 所
鶴林寺
( かくりんじ )
延暦十七年(798)桓武天皇は、当山を勅願道場として八堂伽藍を建立。その後、来錫された大師は、修行中に霊雲のたなびく中を雌雄二羽の白鶴が、黄金の地蔵菩薩を互いに守護しながら老杉に舞い降りるのを見た。
  霊を感じた大師はただちに三尺の地蔵菩薩を刻み、その黄金の仏(一寸八分)
を胎内に納めて本尊とし、堂塔を建立。寺号は鶴にちなんで鶴林寺と命名した。
また、山号は、寺周辺の山容が印度の鷲峰山に似ているところから霊鷲山と号し、はるかに見える向かいの山の太龍寺を金剛界そして鶴林寺を胎蔵界の道場ともなされた。
第十九番 札 所
立江寺
( たつえじ )
この寺は、聖武天皇の勅願によって、天平19年(747)に行基が光明皇后の安産を祈願しつつ、念持仏として金の地蔵菩薩「延命地蔵尊」を彫り、それを本尊として堂塔を建立したのが始まりだといわれている。そのため、境内にはいってすぐに子授地蔵尊があり、地元の人々から、「子安の地蔵尊」などと呼ばれ親しまれている。安産や、子宝を祈願する人々の心のよりどころだ。その後弘仁6年(815)に弘法大師がこの地に訪れ、行基が造られた像では後世なって紛失するおそれがあると、自ら6尺{約1.8m)の地蔵尊を刻み、小さな金の像をその胸の部分に納めて安置されたという。また、本堂の天井には東京芸大の教授や助教授ら40名余りが書き上げた絵天井があり、見事な物。
第十八番 札 所
恩山寺
( おんざんじ )
もともと、この寺は行基が厄除けのために薬師如来を御本尊として刻み、諸人の災厄を除く道場としてひらいた、女人禁制の寺であったという。その後、100年余りを経て弘法大師がここに滞在して修行をされている時に、大師の母君である玉依御前(たまよりごぜん)がはるばる訪ねて来られた。しかし、この山は女人禁制。そこで大師はひと七日(一週間)滝に打たれ修行をし、女人解禁の秘法を修めたという。
そうして大師は母君を迎え入れることができ、この寺で孝行を尽くしたそうだ。また、大師の母君はここで髪の毛を剃って出家された。その髪の毛は、今でも剃髪所に納められていて、そのことから、母養山恩山寺と寺号を改めたのである。
第十七番  札 所
井戸寺
( いどじ )
この寺の見どころは、面影の井戸。当時この地域の村人たちが水不足に苦労していたことを哀れみになった大師が自らの杖で一夜のうちに井戸を掘られたというものだ。その水に映った御自分の姿を石に彫られた御尊像は、日限大師(ひかぎりたいし)としてまつられていて、日を限って願い事をすれば、それがかなうといわれている。また、この井戸は、覗き込んで自分の姿が映れば無病息災、もし映らなかった場合は3年以内に不幸が訪れるという不思議な言い伝えを残している。
ぜひ覗き込んでみてほしい。