| 第十二回巡拝の旅 |
| 二日間 |
| 行 程 |
| 京都駅八条口(7:30)=<山陽>=<瀬戸大橋>=(78)郷照寺=(79)天皇寺=(81)白峯寺=(82) 根香寺=(80)国分寺=(83)一宮寺=高松花樹海温泉<泊> お宿=(84)屋島寺=(85)八栗寺=(86)志度寺=(87)長尾寺=(88)大窪寺(結願)=阿波の里= <大鳴門橋・明石海峡大橋>=京都駅 |
| 第七十八番 札 所 |
| 郷照寺 |
| ( ごうしょうじ ) |
| 青ノ山のふもとの高台にあるこの寺は、寺伝によると、神亀2年(725)行基
により草創。 弘仁6年(815)弘法大師42歳の時、自作の尊像を刻み厄除けの誓願をなさ れたことから、「厄除うたづ大師」として信仰を集めている。当時は真言宗で「 道場寺」と称していたので、御詠歌には「道場寺」の名が残っている。その後 、時宗の開祖・一遍上人により中興されたが、戦国時代の兵火で伽藍を焼失 。寛文4年(1664)、高松藩主・松平頼重により再興された。その際、一遍 上 人の功績をしのび、真言宗・時宗の両宗派を信仰することとなり、宗旨・宗 派を越えた寺として、また大師の法灯を絶やすことなく今日まで続 いている。 |
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| 第七十九番 札 所 |
| 天皇寺 |
| ( てんのうじ ) |
| 保元元年(1156)、保元の乱に敗れた崇徳上皇は讃岐国へ配流。現在の坂 出市内にあった配流地の雲井御所(くもいのごしょ)、木丸殿(このまるでん)で 過ごしたが、この寺(当時は妙成就寺摩尼珠院と号していた)にもよく来られた という。長寛2年(1164)8月、 上皇はこの地で崩御。都から葬儀の沙汰があるまでの約20日間、遺体は八 十場の泉に浸けて保存され、棺は当寺に安置された。その後、上皇の冥福を 祈願して、崇徳上皇社を建立。当寺はその神宮寺となった。天皇ゆかりの寺と いうことで『天皇寺」とも呼ばれるようになったという。朝廷などから荘園の寄進 を受け繁栄したが、戦国時代に兵火により焼失。跡地に摩尼珠院筆頭末寺の 高照院が移転し、本尊を移して「天皇寺高照院」と号した。 |
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| 第八十一番 札 所 |
| 白峰寺 |
| ( しろみねじ ) |
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弘仁六年(815)白峰山に登られた弘法大師は山頂に如意宝珠を埋め、閼伽井 を 掘って衆生済度を祈願された。ついで貞観二年(850)十月に来錫した智証 大師、白峰大権現の「海上まで届く異光あり、その霊木で本尊を刻むべし」とのご 神託 を 受け、早速その霊木で千手観世音菩薩を刻んで本尊として安置した。 この寺も盛衰の歴史を繰り返していて、本堂は慶長四年、高松藩主・生駒家が 再建したものであり、大師堂は文化八年、松平頼儀公が老臣佐藤掃部と共に再 建 している。 また、保元の乱で讃岐に配流、崩御された崇徳上皇の御陵、その菩提をとむら う 頓証殿 がある。 |
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| 第八十二番 札 所 |
| 根香寺 |
| ( ねごろじ ) |
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寺伝によると、弘法大師が五色台の5つの峰に金剛界曼陀羅の五智如来を感得され、 五大明王を まつり花蔵院を建立した。その後天長9年(832)、大師の甥の智証大師が霊木で千手観 音像を刻み 、これを本尊として千手院を創建。この2院を総称して根香寺と号した。戦 国時代、兵火により伽藍を 焼失したが、高松藩主の生駒家・松平家により再建された。 本堂は、信者が寄進した3万体余りの観 音像がまつられている回廊式前堂「万体観音 堂」を抜けた所にある。本尊の千手観世音菩薩(重要文 化財)は、33年に一度開帳 される秘仏。次の開帳は平成47年の予定だ。山門の前には、迫力ある牛 鬼(うしおに )の像が立つている。今から400年前、この山に牛鬼という怪獣が出現し、人畜を害した。 人々に牛鬼退治を頼まれた弓の名手・山田蔵人高清(やまだくらんどたかきよ)は当寺の 本尊に願い をかけ、みごと射止めたという。 |
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| 第八十番 札 所 |
| 国分寺 |
| ( こくぶんじ ) |
| 天正年間(1579〜1592)に兵火にかかり、本堂と鐘楼を残して焼失したが、慶 長年間(15 96〜1615)に讃岐国守・生駒一正(いこまかずまさ)により再興、江 戸時代には高松藩主松 平家によって庇護された。本堂はかつての講堂を再建し たもので、鎌倉中期の建築とされる 。本尊はケヤキの一木作りで、開帳されない 秘仏。この本尊には(弘治三丁六月二十八日四 国中辺路同行二人」「大永八年五 月二十日安芸宮島一之浦同行四人南無大師遍路金剛」という落書きがあり、室町 時代に遍路が来ていたことの証とされている。本堂、本尊とも に国指定重要文化 財。 当寺の梵鐘は、天正年間の創建当時に鋳造されたもので、四国最古級とされ ており、重 要文化財指定。 |
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| 第八十三番 札 所 |
| 一宮寺 |
| ( いちのみやじ ) |
| 大宝年間(八世紀の初)義渕僧正によって創建された頃は大宝寺と号して いた。 その後、田村神社を一国に一社建立せよとの勅命により、行基菩薩が創 建したのが、讃 岐一宮の田村神社であり、寺はその別当寺となって神毫 山一宮と改号した。 さらに大同年間(806〜10)弘法大師が来錫して、三尺五寸の立像 聖観世音菩薩を刻ん で本尊として安置し、前記の建立した堂塔を捕修、 伽藍を再興、そして四国第八十三番札 所と定められた。が、これらの 堂塔も天正年間、長曽我部の兵火にあって灰燼に帰してい る。再興は 宥勢大徳によってである。 延宝七年(1679)高松藩主・松平頼重公によって別当職を解かれ、つまり神仏が分け られても独立じとなった。 |
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| 第八十四番 札 所 |
| 屋島寺 |
| ( やしまじ ) |
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香川県を代表する景勝地・屋島の山上にある札所。天平勝宝5年(753)、唐 から来日し た鑑真和上が屋島北嶺にお堂を建てたのが開基とされる。その後、弘法大師が伽藍を現 在の南嶺に造営し、中興開山の祖と仰がれた。この造 営の際、あと少しで完成という時に 夕日が沈みそうになったが、大師は崖に突き出た岩の上に立ち、扇をあおいで 夕日を呼 び返し、一日で工事を終わらせたという伝説がある。この岩は「獅子 の霊巌」と名付けら れ、現在も展望台の名所として残っている。朱塗りの柱 が美しい本堂は、鎌倉時代に建 に建てられたもの。江戸時代に数度の改修 が行われているが、昭和32年がら2年をかけ て建築当時の姿に復元された。本尊は全身に漆を塗り金箔をおいた、カヤの 木の一木造 り。10世紀の藤原時代初期の作とされ、光背と御手は制作当時 のまま残されている。 |
| 第八十五番 札 所 |
| 八栗寺 |
| ( やくりじ ) |
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5つに別れた峰が特徴的な五剣山の中腹にあり、天長6年(829)創建とされる 。入唐前の 弘法大師がこの山に登り求聞持法を修した時、天から5本の剣が降ってくると 共に、山の 鎮守である蔵王権現の御神託があったという。また、8個の焼栗を埋めて旅の 無事を祈願 した。帰国後、再び当地を訪れると、8つの栗も無事に成長してい たので、五剣山八栗寺と 号した寺を建立した。中世は山岳修験の場としても栄えたが、天正の兵火によ り焼失。 文禄年間(1592〜1599)に無辺上人が再興に尽力し、江戸時代には藩主 松平家の祈 願寺とされた。また、この寺は「八栗の聖天(しょうてん)さん」と も呼ばれ、歓喜天霊場とし ても有名、歓喜天(聖天)は福徳財宝、商売繁盛、 夫婦円満のご利益ありとされる,インド 伝来の天尊。 |
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| 第八十六番 札 所 |
| 志度寺 |
| ( し ど じ ) |
| 推古天皇の御代園の子尼は漂着した霊木で十一面観音像を刻まんと腐心していると、仏師 姿の男が現れ単日に等身大の像を彫り上げ、「われは補陀落の観音なり」と告げて去った。 また、堂宇建立の際も閻魔王の出現があったという不思議な縁起を秘めた寺であり、事を 奉聞された推古天皇は当寺を勅願所に定めたという。後、藤原不比等が唐の皇帝の妃とな っている妹から賜られた、釈迦三尊彫刻の上下表裏なき面向不背の宝珠が、ここ志度浦の 龍神に奪われたのを取り返すため当地へ来て、房前の漁師の娘と夫婦となり、その妻が命 と引き換えに宝珠を取り戻したことが物語りとして残されている。不比等は妻の菩提をとむら おうと五間四面の堂宇を建て、志度道場と命名。現在の寺号したのは、その後訪れた 行基菩薩である。 |
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| 第八十七番 札 所 |
| 長尾寺 |
| ( ながおじ ) |
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天平11年(739)、行基が道ばたの柳の木で聖観音像を彫り安置したのが開基。大同年 間(806〜810)、弘法大師が入唐前に訪れ、年頭七夜の護摩祈祷を行った。この時、 集まった人々に向けて護摩符を投げたのが、現在正月7日に行われている福奪い(ふく ばい)の始まりとされる。その後、兵火で焼失したが、江戸時代に藩主の生駒家・松平家 により再興され、松平家の祈願寺となった。このため本堂には、葵の紋入りの丸瓦が残 っている。本尊の聖観音像は、松平頼重から讃岐国の観音像の名品7体の中でも随一 と称えられ(当国七観音随一」と指定された秘仏。仁王門前には左右1対の経幢(きょう どう、重要文化財)が建っている。経幢とは写経を埋めた上に建てるので、弘安年間の 銘があることから、元寇の役の犠牲者を鎮魂するものと見られている。 |
| 第八十八番 札 所 |
| 大窪寺 |
| ( おおくぼじ ) |
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遍路の最終地点となる。八十八番の「結願寺」(けちがんじ)」。海抜787mの矢筈山(やはずやま)山腹にあり、木々の緑につつまれた境内は、春の桜、秋の紅葉 冬の雪景色、と四季の彩りも美しい。 寺伝によると開基は養老年間(717〜724)、行基が堂を建立したことによる。 その後弘法大師が四国を巡錫中。山中の胎蔵ヶ峰(たいぞうがみね)の岩窟で求 聞持法を修し、薬師如来を刻んで堂宇を整えた。この時、大師は唐の恵果阿闍梨 (けいかあじゃり)がら授かった、三国伝来の錫杖も一緒に納めている。 その後は多くの信徒を集め、最盛期には100を越える僧坊があったという。また早くから女性の入山を許したため「女人高野」とも呼ばれた。天正年間の兵火で 焼失したが、高松藩主の松平頼重・頼常により再興され、本堂や仁王門の修復が 行われた。しかし明治33年(1900)の火災で、二天門を除く主な堂塔を焼失。現在の本堂はその後に再建されたもので、正面の礼堂と中殿、多宝塔のような奥殿 から構成され、本尊と三国伝来の錫杖は奥殿に安置されている。 |