| 第十一回巡拝の旅 |
| 二日間 |
| 行 程 |
| 京都駅八条口(7:30)=<山陽>=<瀬戸大橋>=(66)雲辺寺(標高921m。四国霊場で最高所にある寺) =(67)大興寺=(70)本山寺=(68)神恵院=(69)観音寺=琴平こんぴら温泉<泊> お宿=(75)善通寺(弘法大師生誕の地)=(74)甲山寺=(72)曼荼羅寺(弘法大師の先祖の氏寺)=(73) 出釈迦寺=(71)弥谷寺=(76)金倉寺=(77)道隆寺=<瀬戸大橋>=<山陽>=京都駅 |
| 第六十六番 札 所 |
| 雲辺寺 |
| ( うんべんじ ) |
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標高927mの険しい山中にあり、八十八ヶ所中最も高い場所にあることから「四国高野」とも呼ばれる高峰の寺。山頂には香川・徳島の県境が走り、境内は徳島県になっている。 延暦8年(789)、寺の建築材を求めて登山した16歳の弘法大師が、霊峰の趣に惹かれて堂宇を建設したのが起源とされる。大同2年(807)には嵯峨天皇の勅願を奉じて大師は再び山に登り、千手観音を刻んで安置し、仏舎利と毘廬遮那法印(びるしゃなほういん)を山中に納めて開基した。後世には僧侶達の学問を修める場として、また鎌倉時代には関所の役割も兼ねた大寺院として栄えた。 寺の境内のいたるちころには、様々表情をした五百羅漢像が建って参拝者を出迎える。 これは弘法大師が始めて唐の土を踏んで赤岸鎮福建省(せきがんちんふっけんしょう)の五百羅漢院の像を模したもの。 |
| 第六十七番 札 所 |
| 大興寺 |
| (だいこうじ) |
| 本尊には、何本もの赤い蝋燭が灯っている。これは「七日灯明」と呼ばれ、この蝋燭に願い事を書いて奉納すると、七日間灯して祈願してくれるのである。また、4月第3日曜に「うどん接待」が行われている。ダシには瀬戸内のイリコ、具にはあげと白菜という野菜を使う。 アクが強い白菜は生ではとても食べられないものだが、この時だけは独特の旨みを釀し出すそう。打ち上げてから長時間経つ麺も、ずっと強いコシを保つているとか。 これも仏の御利益かもしれないと、お遍路さんに大好評だ。 |
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| 本山寺 |
| (もとやまじ) |
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大同二年(807)平城天皇の勅願により、国家鎮護を祈願した弘法大師が、一夜のうちに堂宇を建立し本尊として馬頭観世音菩薩を刻んで安置したのがはじまりであり、本尊彫刻と同時に刻んだ阿弥陀、薬師の両如来とも国宝である。 本山寺は珍しいことに、戦国の兵火や火災などはまぬがれている。ために久安三年建立の仁王門、大同四年建立の五重の塔などは往古の姿そのまま残されている。 本堂は正安二年(1300)の建築で七間四面の堂宇は県内寺院では唯一の国宝建造物の指定を受けている。 前記の大同四年(809)弘法大師が建立したと伝えられている五重の塔は、長い年月で損傷激しいため、前住職・頼富美毅師が明治四十三年に再建された。 |
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| 第六十八番 札 所 |
| 神恵院 |
| (じんねいん) |
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観音寺から続く石段を登ると、神恵院へたどり着く。神恵院と観音寺は、1つの境内に2つの札所がある一寺二札所。納経所も観音寺と兼ねているという、非常に珍しい構えである。大宝3年(703)法相宗(ほっそっしゅう)の日証上人は琴弾山で修業していた。ある時、八幡大菩薩を乗せた神船が近くに漂着したのを発見。八幡大菩薩は一夜で海を林に替えたと伝えられている。感動した日証上人は、船と八幡大菩薩が弾いていた琴を山頂まで運び、社殿を作って琴弾八幡宮を祀ったという。後に弘法大師がこの地を訪れ、阿弥陀如来像を描いて本尊とし、第六十八番札所に定めた。 |
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| 観音寺 |
| (かんのんじ) |
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本堂は金堂とも呼ばれ、国の重要文化財にも指定されている。本尊である聖観世音菩薩と薬師如来、阿弥陀如来座像を納めており、緑の雑木林を背に朱塗りの柱が鮮やかに建っている。 大師堂は、神恵院へ続く石段の登り口に、愛染院と隣り合わせにある。本堂と同じく朱色の柱が美しい。天井に描かれた曼茶羅図も精微をきわめ、桓武、平城,亀山と歴代天皇の勅願所として栄えた往時を偲ばせる。 書院の向こうには、山の斜面や岩石、流木をうまく利用した回遊式庭園・巍巍園(ぎぎえん)がある。庭園の上方に高く突き出た巨岩は、須弥山(しゅみせん、仏説では世界の中心にあるとされる伝説の山)を模したものと伝えられ、またツツジの名所としても広く知られている。 |
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| 第六十九番 札 所 |
| 第七十番 札 所 |
| 第七十五番 札 所 |
| 善通寺 |
| (ぜんつうじ) |
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真言宗善通寺派の総本山である善通寺は、弘法大師生誕の地。高野山、東寺と並んで大師三大霊場の一つにも数えられる。創建は大同2年(807)、弘法大師が先祖の菩提を弔うため、唐の青龍寺を模した七堂伽藍を再現したことが始まり。御父、善通卿の名を寺号とし、山号は寺の背後に香色山、筆山、我拝師山、中山、火上山の5峰がそびえていることから「五岳山」と名付けたと言われている。弘仁4年(813)に金堂(本堂)が建ち、大師は薬師如来を本尊として安置。現在の金堂は貞亨2年(1685)に再建されたもので、この時に運長が刻んだ薬師如来を新たな本尊とし、大師が刻んだものは胎内仏として祀られている。寺宝も多く所有。 |
| 第七十四番 札 所 |
| 甲山寺 |
| (こうやまじ) |
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弘法大師は、善通寺と曼荼羅寺との間に伽藍を建立せんとして霊地を求め探していたとき、この山麓の岩窟から一人の老翁が現われ「ここが探し求めている霊地なり。一寺を建立せよ」との霊示をうけた。 大師は早速、石を割って毘沙門天を刻んで安置したのが始まりだと伝えられる。 そののち弘仁十二年。嵯峨天皇より満濃池の修築を下命された大師は、その年の五月に下向し、当寺で工事の完成祈願の秘法を修し、さらに成功を願って座像二尺五寸の薬師如来像を刻んで安置した。黒四ダム七分の一の貯水量を誇る満濃池は、弘仁九年に大決壊、朝廷が派遣した築池使の手には負えなかった。大師が監督するや、あれ程手を焼いていた難工事も僅か三ヶ月で完成した。 |
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| 第七十二番 札 所 |
| 曼荼羅寺 |
| (まんだらじ) |
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曼荼羅寺は推古天皇4年(596)に弘法大師の祖先・佐原家の氏寺として建てられ、世坂寺(よさかじ)と呼ばれていた。大同2年(807),唐から帰国した弘法大師は母の菩提を弔うため、伽藍を建立。大日如来を刻んで本尊とし、唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界の曼荼羅も安置し、寺号も曼荼羅寺と改めた。その記念に、大師は松を手植えしたと伝えられている。現在、樹齢1200年を超えるその松は「不老の松」と呼ばれ、約132畳の大きさで地面を覆っている。2つの菅笠を地面に伏せたような形をしているので、「笠松」とも呼ばれており、古くから神仏が降臨する依り代と考えれれてきた。また、平安末期の歌人・西行法師も曼荼羅寺近くに滞在し、寺の境内へ時々訪れていたとか。 |
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| 第七十三番 札 所 |
| 出釈迦寺 |
| (しゅっしゃかじ) |
| 標高781m我拝師山(がはいしざん)をすぐ背後にしたがえた出釈迦寺。我拝師山ははじめ、倭斬濃山(わしのやま)と呼ばれていた山で、弘法大師が7歳にして仏の道を志した場所として有名だ。幼少の頃から諸仏と語らう夢をよく見ていた大師は、7歳の時、仏道に入って救世の大誓願を立てようと倭斬濃山の山頂に登った。『仏門に入って多くの人々を救いたい。この願いが叶うならば釈迦如来よ、現れたまえ。もし願いが叶わぬならば、一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と願いをかけ、大師は断崖絶壁から身を投げた。すると、落ちていく大師の体の下に紫雲がたなびき、蓮華の花に座した釈迦如来と、羽衣をなびかせた天女が現れた。天女は雲の上で大師を抱き留め、『一生成仏」を告げたと言う。一命を救われれ、大願成就を約束された大師は、後に釈迦如来の像を刻み、これを本尊とした。 | |
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| 第七十一番 札 所 |
| 弥谷寺 |
| (いやだにじ) |
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遍路泣かせの難所としても知られている。弥谷寺へ登った行基が、四国中国地方の8国が、眺望できたことから、東の峰に阿弥陀所来、西の峰に釈迦如来を安置し蓮華山八国寺と名付けたのが寺の始まり。弘法大師が7歳の時にこの山で苦行し、大同2年(807)、再び登山して真言密教の秘法を修行していると5本の剣が降ってきて金剛蔵王権限のお告げを聞いたという。そこで山号を剣五山に変え、寺名も弥谷寺に改めて札所に定め、千手観音を刻んで奉納した。 本堂、大師堂とも岩山に取り囲まれ、まるで岩壁に埋め込まれたように建っている。「獅子の岩屋」と異名をとる奥の院は、大師堂のさらに奥にあり、獅子が口を開いた形の岩窟の中である。弘法大師が幼年の頃に学問に励み、再び入山した際に真言密教を修行場所だと伝えられている。 |
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| 第七十六番 札 所 |
| 金倉寺 |
| (こんぞうじ) |
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宝亀五年(774)長者和気道善の開基で当時は道善寺と号した。 もともと当山は弘法大師のおいでのち延暦寺五代座主となり三井円城寺を賜った智証大師の誕生地である。 のち唐から帰朝した大師が、先祖の菩提のために伽藍を造営した薬師如来を刻み、本尊として安置した。金倉寺と改称したのは延長六年(928)嵯峨天皇の勅命によるものであり、この地の郷の名をとって命名、山号は迦葉尊者の入定地にあやかってである。 その後、広大な寺領や百三十二坊、数十の神仏閣堂宇は建武の争乱、さらに永正、 天文とつづいた兵火にあってことごとく焼失した。 以来、境内の一隅に小庵を建て、そこに本尊を安置して法灯を守りつづけた。再興なったのは寛永年間の末期頃のことであり、讃岐の太守・松平ョ重公によってである。 |
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| 第七十七番 札 所 |
| 道隆寺 |
| (どうりゅうじ) |
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寺伝によると、開基は和銅5年(712)。当時、この一帯は和気氏の荘園の大桑園で、中に怪光を放つ桑の大木があり、領主の和気道隆(わけのみちたか)はその桑で薬師如来の小像を刻み、お堂を建てて安置した。道隆の子朝祐(ちょうゆう)は、唐から帰国した弘法大師に師事、大師は自ら薬師如来像を刻み、道隆の薬師如来像をその胎内におさめ本尊とした。その後は大師の弟・法光大師、甥・智証大師など名僧が代々の住職を務め繁栄したが、兵火により壊滅。江戸時代、歴代住職の尽力により現在の諸堂が再建された。本尊の薬師如来は、胎内にもうひとつ如来像があることから腹ごもり薬師、二体薬師とも呼ばれ50年に1度開帳される秘仏。次回開帳は2033年だ。 |
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