第十回巡拝の旅
二日間
行 程
京都八条口(7:30)=<明石海峡大橋・大鳴門橋>=(56)泰山寺=(55)南光坊=(54)延命寺=道後温泉〈泊>
お宿=(51)
石手寺=(50)繁多寺=(49)浄土寺=(48)西林寺=(46)浄瑠璃寺=(47)八坂寺=(52)太山寺=(53)円明寺=<大鳴門橋・明石海峡大橋>=京都駅
第五十六番 札 所
泰山寺
( たいさんじ )
淳和天皇の勅願寺であり、天長元年に創建されている。弘仁六年、弘法大師がこの地へ来錫したとき、丁度梅雨の最中だった。長雨は蒼社川に集まり、ために氾濫した水のため農民たちはひどく苦しんでいた。その様を見た大師は早速、川原に壇を築き、土砂加持の秘法を七座厳修され、満願の日に延命地蔵菩薩の尊像を感得した大師は、活水祈願が成就されたことを悟ったといわれる。
  大師はそのお礼にと感得した地蔵菩薩を八十八センチの大きさに刻み堂宇を創建、本尊として安置し、延命地蔵経十大願の第一「女人安産」から寺名をとられ泰山寺と名付けられた。
第五十五番 札 所
南光坊
( なんこうぼう )
明治初年までは大山祗神社の別当寺であった南光坊は、四国霊場で唯一「坊」が付く寺。今から約1300年前、越智玉興(たまおき)の弟、玉純は、大三島に大山積明神を歓請し、法楽所として24坊を建立。しかし、大三島までは海を渡らないと参拝に行けないため、その別宮を越智郡日吉村に移転すると同時に、別当寺院として南光坊を含む8坊を移した。その後、長宗我部氏の兵火によって8坊は焼失したが、南光坊だけは大山祗神社の別当寺として再建された。昭和20年の大空襲によって大師堂と文久年間(1861〜1864)創建の金比羅堂以外は焼失。本堂は戦後に再建された。
第五十四番 札 所
延命寺
( えんめいじ )
総欅造りの山門が迎えてくれる延命寺。この城門は、かつて今治城にあったものの1つを譲り受けたものだ、山門をくぐると、四季折々の花が参拝客の目を楽しませてくれる。 この寺の始まりは、天平年間(729〜749)に行基が不動明王を刻み、今治市の西北にある近見山頂に七堂伽藍を建立したことによる。平安時代に入り、弘法大師が嵯峨天皇の勅願をうけて来錫し、荒れていた寺を再興。近見山円明寺と名付けた、その寺名は明治時代になるまで使われた。つまり、それまでは五十三番と五十四番は同じ寺名を持っていたのである。大師が来錫してからは寺運を盛り返していたが、度重なる兵火に焼失。享保12年(1727)には現在の場所に移動した。
第五十一番 札 所
石手寺
( いしてじ )
神亀5年(728)、伊予大守・越智玉純が霊夢を蒙り伽藍を建立。翌年、行基が本尊の薬師如来の開眼を行った。その時は安養寺と名付けられていた寺が、石手寺と称するようになったのは寛平4年(892)。托鉢をしていた弘法大師に心ないふるまいをした衛門三郎は、次々に8人の男児を失う。自分の罪を悔いた三郎は、大師を追って札所を巡ったが、大師に会えぬまま徳島・焼山寺で倒れる。枕元に現れた大師が、彼の手に「衛門三郎」と記した石を握らせると、三郎は安心して息を引き取った。その後、領主・河野氏に男児が誕生したが手を開かず、安養寺に願いをかけたところ、男児の手からその石が出てきた。石は寺に納められ、石手寺と名がつけられた。
第五十番 札 所
繁多寺
( はんたじ )
天平勝宝年間、孝謙天皇の勅願により、行基菩薩が座像三尺の薬師如来を刻み、それを本尊として開基した。
  のち弘仁年間、弘法大師が留錫して修行され、現在の山号、寺号を名付けられ四国五十番札所と定められたという。
 それ以来、寺運は衰退し、境内や伽藍はさびれるにまかせていたのを源頼義が再興し、弘安二年には御宇多天皇の勅命(蒙古襲来の退散祈祷)を奉じて聞月上人が、この寺でその祈祷を行なっている。
  さらに天和の頃、龍湖という名僧が出て、徳川家の帰衣を得、四代将軍の念持仏の一つであった歓喜天を付託されて、聖天堂に祀っている。
第四十九番 札 所
浄土寺
( じょうどじ )
文明14年(1482)のこと、。伊予の豪族である河野通紀宣がてがけた。現在の堂宇は、その時の物で、慶安2年(1649)に大修理をして現在まで残っている。特に見ごたえのあるのが本瓦葺き、・寄棟造りの本堂。和様と唐様が融合した流麗な建物は、室町時代の代表的な建造物の様相を呈していて、国の重要文化財に指定されている。  この寺は、平安中期に市聖・空也上人が3年間滞在したことでも有名。空也上人は、南無阿弥陀仏の念仏を世に広めた人物で、念仏踊りの開基として知られている。境内には空也松の根株が残っているほか、寺の近くには空也上人が修行をした空也谷という場所がある。
第四十八番 札 所
西林寺
( さいりんじ )
天平十三年(741)四国を行脚中の行基菩薩がこの地に錫を留められ、伊予の国司である越智宿称玉純と語りあって、徳威の里に一寺を創建し、十一面観世音菩薩を刻んで本尊としたのがはじまりである。
  それから約六十数年後の大同二年(807)四国を巡錫中の弘法大師がこの寺に留錫され、国司の越智宿称実勝と共に徳威の里の寺を現在地に移して四国霊場四十八番札所に定め国家安泰を祈願する道場となされた。
 年代はさらにくだり、寛永年間の火災で堂宇は焼失したが、宝年四年に西林寺中興の祖、覚栄法印によって本堂と鐘楼堂の再建をした。

第四十六番 札 所
浄瑠璃寺
( じょうるりじ )
寺は荒廃と中興を繰り返し、さらに元禄年間(1688〜1704)には山火事により本尊と脇仏を除くほとんどの伽藍、寺宝を焼失してしまう。
  焼失から80年後、荒廃した寺を復旧したのが、地元の僧・尭音であつた。尭音は社会事業に熱心な人物で、岩屋寺から松山まで8つの橋を架けたことでも有名。現在の本尊は天明5年(1785)に再建されたものだ。
  浄瑠璃寺は別名「御利益のよろず屋」。境内には数々の御利益をもたらすものがある。仏足石・仏手石・仏手指紋があり、健脚、知恵・技能、心身強固や文筆達成に霊験がありといわれている。
第四十七番 札 所
八坂寺
( やさかじ )
一時は、末寺四十八ヵ寺を所有した修験道の根本道場として大いに繁栄したが、戦国時代には、長宗我部氏によって伽藍は焼失してしまう。これ以来、再興焼失を繰り返したため、本堂は鉄筋コンクリートで造られるなど、大師堂とともに近年、再建されている。本尊の阿弥陀如来は、平安中期の僧・恵心僧都作と伝わる。高さ約91cm
の寄木造りの像は秘仏。50年に一度の開帳が許されており、次回見ることができるのは2034年だ。また、鎌倉時代の宝きょう印塔(ほうきょういんとう)、層塔など寺宝も多い。本堂と大師堂の間に建つ閻魔道(えんまどう)には、極楽の途と地獄の途の2道がある。絵が描かれた短いトンネル状の道で、極楽には美しい浄土が、地獄には蛾鬼道、畜生道、修羅道などが描かれている。
第五十二番 札 所
太山寺
( たいさんじ )
用命天皇の御代、九州豊後(大分県)の国の真野長者が高浜沖で暴風雨に遭い、観音経を唱え祈ると、瀧雲山の方向から差した御光のお蔭で助かった。不思議に思って山に登った長者は、小さな草堂の中に十一面観世音菩薩の尊影を拝した。長者は助けられたお礼にと、本国で木組みした材料をここ迄運び一夜のうちに建立したと伝えられる。
  のち聖武天皇の勅願によって来錫した行基菩薩が十一面観世音菩薩を刻み本尊として安置、また天皇自身も経を納め山号、寺号を下賜されている。
  のちに来錫した弘法大師は、胡魔ヶ森で護摩供を修せられしのち札所に定められる。
第五十三番 札 所
円明寺
( えんみょうじ )
円明寺では日本最古と言われる銅製の納め札が見つかり、話題になった。大正13年、四国霊場を巡拝していたアメリカのスタール博士が、本堂の厨子に打ちつけられていた縦24cm、横9.5cm厚さ1mmの札を発見。これには「慶安三年」(1650)という文字があり、「四国仲遍路同行二人 今月今日平人家次」とある。
  本堂での最大の見どころは銅製納め札だが、堂内もじっくり拝観していきたい。
欄干にはゆうに4mは超えていそうな龍の彫刻が掲げられている。一説によると、名工・左甚五郎の作ではないかと考えられ、今にも天に昇ってしまいそうな迫力がある。