| 第九回巡拝の旅 |
| 行 程 |
| 二日間 |
| 京都八条口(7:30)=<明石海峡大橋・大鳴門橋>=(60)横峰寺=(64)前神寺=(63)吉祥寺=(61) 香園寺=奥道後温泉<泊> お宿=(58)仙遊寺=(57)栄福寺=(59)国分寺=(62)宝寿寺=(65)三角寺=<大鳴門橋・明石海峡大橋=京都駅 |
| 第六十番 札 所 |
| 横峰寺 |
| ( よこみねじ ) |
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西日本最高峰である石鎚山は、標高1982mの霊峰。現在でも山岳信仰の聖地とされ、毎年7月1日の山開きの日には、白装束に身を包んだ多くの信者が登山している。横峰寺は山の北側中腹にあり、標高750mの地点に建つ。今でこそ山頂駐車場まで登山専用マイクロバスも運行しているが、いにしえのお遍路さんは延々と続く急な坂道をひたすら登り続けたのであろう。彼らの苦行がしのばれる。白雉2年(651)、開基である役行者小角は星が森(石鎚山遥拝所)で修行していた時、石鎚山頂で蔵王権限を見たという、その姿をシャクナゲの木の刻んで小堂に安置したのが始まり。天平年間(729〜749)には行基が入山し、さらに大同年間(806〜810)には弘法大師が42歳の厄除け開運祈願のために來錫した。 |
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| 第六十四番 札 所 |
| 前神寺 |
| (まえがみじ) |
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石鎚山は古来より修行の霊地であり、弘法大師は二度、石鎚山に登られている。大師の著書「三教指帰」の中に(或路石峰云々)というくだりが最初の登山である。大師はその後さらに四国霊場開創のとき来錫し、当寺で護摩供の秘法を修せられ四国霊場六十四番札所と定められた。 前神寺には文徳天皇をはじめ、高倉帝、須徳帝、後鳥羽帝、後醍醐帝、の歴代朝廷から仏像や、経巻などを数多く賜わり、宝物殿に保存している。 本尊の阿弥陀如来は役行者小角の作と伝えられている。 |
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| 第六十三番 札 所 |
| 吉祥寺 |
| (きちじょうじ ) |
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門柱にある「四国唯一体毘沙門天王鎮座」がお遍路さんの迎える。四国霊場の中で唯一、毘沙門天を本尊としている寺だ。弘仁年間(810〜824)、弘法大師が光を放っている楠を発見し、その木に一刀三礼して毘沙門天と脇仏の吉祥天、善尼師童子を刻んだのが始まり、大師が開基した頃、寺は現在地よりも南の坂元山にあり、寺域も広く、21坊を有するまで繁栄していたという。だが、天正13年(1585)、豊臣秀吉による四国攻めの兵火で焼失。万治2年(1659)に末寺の楠木寺と合併し、現在の場所に移されて再興を果たした。この寺は泌仏のマリア観音も所蔵 |
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| 第六十一番 札 所 |
| 香 園 寺 |
| ( こうおんじ ) |
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香園寺の境内に入ると、驚くほど近代的な鉄筋コンクリートの建物が目に飛び込んでくる。これは通称「褐色大聖堂」と呼ばれる建物で、昭和51年に建てられた本堂と大師堂を兼ねたものだ。1階が大講堂、2階が本堂と大師堂になっており、本堂だけでもも600席余りの広さを誇る。コンサートホールさながらの造りで、椅子に座ったままお詣りができるようになっている。正面に祀られているのは、本尊である黄金色の巨大な大日如来、脇侍の不動明王、子安大師。さらに250名収容可能な宿坊もあり、ホテル並の設備が素晴らしい。モダンな建造物とはうらはらに、 寺の歴史は聖徳太子の時代までさかのぼる。用明天皇(585〜587)の病気平癒を祈願して、聖徳太子が創建したと言われている。 |
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| 第五十八番 札 所 |
| 仙遊寺 |
| ( せんゆうじ ) |
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天智天皇(662〜672)の勅願により、国守・越智守興公が堂宇を建立したのが始まり、。本尊の千手観世音菩薩は、海から竜登川を登ってやって来た竜女が彫り上げたとの伝説が残る。竜女は一刀刻むごとに三度礼拝していた。このエピソードから作礼山の名が付いたとか。観音像を完成させた竜女は再び海に帰っていった。それから旧暦7月9日に竜燈が竜登川を伝ってきて、仙遊寺の桜の木にかかっていたという。現在、何代目かの桜の苗木の横に「竜燈桜」の石碑が残っている。 一方,仙遊寺の名の由来は、養老2年(718)までの40年間、この寺で読経三味の日々を送っていた僧・阿坊(あぼう)仙人は、突然姿を消しその様子が雲と遊ぶかのようだと伝えられ、いつの間にか寺の名を仙遊寺になった。 |
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| 第五十七番 札 所 |
| 栄福寺 |
| ( えいふくじ ) |
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貞観元年(859)には、男山八幡宮を創建するために宇佐を往来していた行教上人が、暴風雨に遭遇してこの地に漂着した。上人は府頭山が男山に似ていたこと、本尊の阿弥陀如来が八幡大菩薩の本地仏であったことに縁を感じて、山頂に登って祈願を行った。すると、夢で本尊よりお告げを受けたため、寺の境内に社殿を造営。八幡大菩薩を勧請して、神仏習合の岩清水八幡宮を創建したと言われている。しかし、明治時代の神仏分離令によって寺は現地に移転、岩清水八幡宮は寺の参道をさらに登った当時の山頂に祀られている。山の緑を背景にたたずむ 本堂は、いかにも古刹の雰囲気に包まれており、大師堂は山頂より移築したもので彫刻がせばらしい。 |
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| 第五十九番 札 所 |
| 国分寺 |
| ( こくぶんじ ) |
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弘法大師がこの寺に来錫したのは、第三世住職智法立師の頃。長く滞在し、五大尊の絵像一幅を残している。さらに大師の弟子であった真如も2年ほど滞在したという。その後は何度も焼失と復興を繰り返すことに。天慶2年(939)の藤原純友の乱により堂宇は焼失するが、国主の援助で復興。元暦元年(1184)の源平合戦で再び焼失し、この時も再興を果たした。貞治3年(1364)には讃岐の細川右馬頭頼之が進入して、三たび寺は焼かれてしまう。さらに天正12年(1584)の長宗我部元親と伊予国司河野通直の戦の兵火で、またもや堂宇は焼失。この時ばかりは寺を支援していた河野氏が敗軍の将となってしまったため、復興がわなかった。寛政元年(1789)に四十三代住職の恵光上人が現在の本堂を建立するまで、寺は茅葺きの小堂がたたずむのみだったという。 |
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| 第六十二番 札 所 |
| 宝寿寺 |
| ( ほうじゅじ ) |
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大同年間(806〜810)には弘法大師も来錫。光明皇后を型どった、十一面観世音菩薩を刻んで本尊とし、六十二番の札所に。しかし、幾多の河川氾濫に遭い、破損・再建を繰り返してきた。伊予水軍の大山祗神社の別当寺として名を馳せたことも。だが、天正13年(1585)、兵火により堂宇は焼失し、荒廃の一途をたどる。 寛永13年(1636)には宥伝上人により再建されたが、明治の神仏分離令によりは廃寺に。その後、明治10年(1877)に再建され、大正10年(1921)にJR予讚線開通にともなって現在地に移された。また、安産の観音札所として信仰を集めている。 |
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| 第六十五番 札 所 |
| 三角寺 |
| (さんかくじ) |
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標高450mの三角山の中腹に立つ三角寺は、伊予と讃岐の関所寺。仁王門の梵鐘が釣られており、鐘を突いて罪の汚れを除いてから入門するのが作法だとか。開基は天平年間(729〜749)、聖武天皇の勅願により、行基が弥勒菩薩の浄土を現したことによる。弘仁6年(815)は弘法大師が十一面観音を本尊として安置。 不動明王像も刻み、護摩壇を作って降伏護摩の法を修めたと伝えれている。後の嵯峨天皇(在位805〜823)が寺領三百町歩を下賜し、七堂伽藍が建立されるなど寺は繁栄を見せた。しかし、天正年間(1573〜1592)の兵火により焼失。現在の建造物は、嘉永2年(1849)に再建された。 |
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