第八回巡拝の旅
行 程
二日間
京都八条口(7:30)=<明石海峡大橋・大鳴門橋>=(44)大宝寺=(45)岩屋寺=道後温泉<泊>
お宿=(43)
明石寺=(42)仏木寺=(41)龍光寺=<大鳴門橋・明石海峡大橋=京都駅
第四十四番 札 所 
大宝寺
( たいほうじ )
文武天皇の勅願所である。 往昔、明神右京・隼人という兄弟の狩人が当山で十一面観世音菩薩の尊像を発見し、小袖に包んで奉持、安置したのがはじまりである。
  のち文武天皇の勅願により、その年の年号にちなんで大宝寺と号して開創。
開創後の弘仁年間、寺に留錫した弘法大師が密教三密の修法を厳修され、この寺を四国霊場の四十四番、中札所と定めた。
その後保元年間(1156〜58)には後白河天皇が病気平癒を祈願され、全快後は仁平二年に焼失していた一宇を再興、帝の妹宮を住職として下向させる。
第四十五番 札 所
岩屋寺
( いわやじ )
深い深い山の中にある岩屋寺。寺の左右には50余りの礫岩峰があるが、これは全て数千万年前には海底にあったもの。それが断層運動により隆起し、さらには浸食されて独特の山容となった。この地は、もともと法華仙人という女性が修行をしていた場所。土佐から移り住んできた彼女は、法華三昧を成熟し空を自在に飛び回るという神通力を持っていたと言われている。この地を弘法大師が訪れたのは弘仁6年(815)、修行の霊地を求めて山に入られた。切り立った岩を明王鈴の音を頼りに登った大師は、法華仙人と出会う。仙人は弘法大師に深く帰依し、山を献上して往生する。木と石の不動明王を刻んだ大師は、木像を本堂に安置してこの寺を開基した。
第四十三番 札所
明石寺
( めいせきじ )
欽明天皇(539〜571)の時代に、円手院正澄(えんじゅいんせいちょう)上人が千手観世音を安置し、七党伽藍を建立して開基した。赤瓦の本堂に祀られた本尊の先手観世音菩薩については、1人の女神にまつわる伝説がある。深夜に願いをかけながら大きな石を運んでいた女神は、運んでいる途中で夜明けがきたことで驚き、消え去ってしまう。この女性こそ千手観世音菩薩とも言われており、「だいばんじゃくもかろくあげいし」というご詠歌もこの伝説からきているとか。この本尊は唐渡来の仏像といわれている。天平6年(734)には、寿元行者が12坊を建立して、修験の道場として、弘仁13年(822)弘法大師が巡錫され、荒廃した伽藍を再興し、霊場に定めた。
第四十二番 札 所
仏木寺
( ぶつもくじ )
大同二年(807)この地を巡錫中の弘法大師は、牛を引いている老人と会った。老人は大師を牛の背に乗せた。しばらく歩くと楠の大樹がありその稍に、在唐のとき投げていた光を放つ宝珠を発見した。大師は、ここを仏法流布の霊地と感じられ、その楠で本尊の大日如来を刻み、宝珠を眉間におさめ、草字心経、華厳経を書写したのち寺を開創し、仏木寺と名付けられ四国四十二番札所と定めた。本尊は俗に大日様と呼ばれ、ホウソウ除けと牛馬など家畜の守り仏として信仰されている。
第四十一番 札 所
龍光寺
( りゅうこうじ )
札所なのに大きな石の鳥居がそびえる龍光寺は、もともと本尊が稲荷大明神だったころ。現在でも地元の人たちからは、「三間のお稲荷さん」とよばれ、親しまれている。その愛称からも感じられるように、寺はのどかな農村地帯を見下ろす小山に建っている。
  大同2年(807)、弘法大師がこの地を訪れた時、稲を背負った白髪の翁に出会ったという。翁は大師に「我この地に住み、法教を守護し、庶民を利益せん」
  私はこの地に住みましょう。そして仏教の教えお守り、民に幸福をもたらしましょう   と告げ、姿を消したという。