| 第六回巡拝の旅 |
| 行 程 |
| 二日間 |
| 京都駅八条口(8:00)=〈明石海峡大橋・大鳴門橋>=(30)善楽寺=(31)竹林寺=(32)禅師峰寺=(33) 雪蹊寺=高知<泊> お宿=(34)種間寺=(35)清滝寺=(36)青龍寺=◎桂浜=◎西島園芸団地=<大鳴門橋>=<明石海峡大橋>=京都駅 |
| 第三十番 札 所 |
| 善楽寺 |
| ( ぜんらくじ ) |
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参道入口には土佐神社との共同門となっている山門がどっしりと構え、別当寺としての面影を残している。杉木立の参道を抜けた場所に善楽寺境内がある。境内入口に山門がないためか、寺内は実に開放的。昭和57年(1982)に建てられた本堂と大正年代に建てられた大師堂が、整然と佇む。現在的な本堂とはうって変わり、大師堂は情緒漂う姿を見せている。境内にある子安地蔵堂は、子宝祈願にご利益があるとか。やさしい顔つきのお地蔵様を見ていると、自然と心が和んでくるようだ。安産や子宝祈願に訪れる人の願いが込められている地蔵絵馬が、ぎっしいと水子供養堂の壁面にかけられている。 |
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| 第三十一番 札 所 |
| 竹林寺 |
| ( ちくりんじ ) |
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本堂である文殊堂は、寛永20年(1643)の火災の後、土佐藩主・山内忠義により造営され、行基作の本尊・文殊菩薩を安置している。本堂は五台山に現在する最古の建造物として国の重要文化財に指定。室町様式を彷佛させるこけら葺きの本堂は、軒の反りや、放射状に広がった扇垂木などに唐様式も見てとれる。学業成就を願う多くの人々から信仰を受ける本尊の文殊菩薩は、日本三文殊とされ、その姿はわが国に現存する文殊五尊像形式の中では最古の作例と言われている。50年に一度の御開帳が許されており、次回は、2014年に御開帳される。
また、場内にそびえる五重塔は、昭和55年(1980)に造られ、高さ31.2m、総檜造りで鎌倉時代の様式を持っている。 |
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| 第三十二番 札 所 |
| 禅師峰寺 |
| ( ぜんじぶじ ) |
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本尊の十二面観世音菩薩は、土佐沖を航行する諸船の安全を願って大師が刻んで安置したものである。のちの藩主山内一豊公が浦戸港出帆のときは必ず、当山の本尊に海上の安全を祈願した。ということから俗に「船霊観音」と呼ばれ、船人たちは崇敬している。 この寺の仁王門に立つ仏法護持の金剛力士二体は仏師定朝の作で国宝に指定されているし、寺宝には徳治三年と銘のある鐘、さらに、永禄十三年銘の鰐口などがある。また、本堂前の奇岩奇石の岩間には俳人芭蕉の 木枯らしに 岩吹きとがる 杉間かな の句碑がある。 |
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| 第三十三番 札 所 |
| 雪蹊寺 |
| ( せつけいじ ) |
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明治初期の廃仏毀釈で、廃寺の危機となったが、名僧・山本太玄の努力で再興される。太玄から「心眼を開け」との言葉を受けた弟子・山本玄峰は、全国の多くの寺を再興させている。境内にある梵鐘には「朝破無明夢 夕開清浄智」の文字が刻まれている。これは玄峰の弟子・中川宗淵から贈られたものだ。雪蹊寺は「鎌倉仏像の宝庫」といわれるほど名品が豊富。本尊の薬師如来像や、脇侍の日光・月光菩薩などはすべて宝物館に納められている。ちなみに、四国霊場の中で禅宗に所属するのは阿波藤井寺と雪蹊寺だけ。月峰和尚の頃、雪蹊寺には幽霊がでると村人の間で話題になっていた。ある夜、「和歌の下の句ができない・・・」と嘆く幽霊に出会った月峰和尚が「墨染を洗えば波も衣きて水も浮世をいとふころかな」と下の句を作ってやると、幽霊は出なくなったとか。 |
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| 第三十四番 札 所 |
| 種間寺 |
| (たねまじ) |
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この寺には山門がなく、境内にある本堂、大師堂、本坊は昭和45年の台風の後で再建されたもの、本堂には木像薬師如来立像が安置されているが、一般には公開されていない。百済の仏師が彫ったよされる本尊の薬師如来像は国宝に指定されており、1月21日にご開帳されている。薬師如来が安産に御利益があることから、昔から安産祈願に訪れる人が多い種間寺。境内には子育観音を祀った観音堂があるが、ここには底の抜けたひしゃくが多数奉納されている。これは妊婦が持参したひしゃくの底を抜いて7日間祈祷した、いわば安産のお守り。無事出産を終えたら寺にひしゃくを奉納するのが習わしとなっている。 |
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| 第三十五番 札 所 |
| 清瀧寺 |
| ( きよたきじ ) |
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養老7年(723)に行基が薬師如来を刻んで開基した。現在は厄除けの名寺として知られ、境内には厄除けの薬師如来が建つ。高さ12mの薬師如来像の胎内は、戒壇巡りができるようなっており、ご真言を唱えながら戒壇巡りをすれば、厄除けに御利益があるとされている。清瀧寺は弘法大師の高弟・高岳法親王(たかおかほうしんのう)ゆかりの寺でもある。薬子の乱に連座し、皇太子の座を追われた高岳法親王は仏門に入る。貞観3年(861)に高岳法親王は清瀧寺に来賜するも、さらなる仏理を極めようと入唐を決意。当時の唐への道は困難極まるものだったため、高岳法親王は逆修塔を刻み、翌年には九州の太宰府から唐に渡った。 |
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| 第三十六番 札 所 |
| 清龍寺 |
| ( しょうりゅうじ ) |
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明治時代までは土佐七大寺の一つに数えられる大寺院で、末寺四ヵ寺、脇坊六坊を有してたという清龍寺。江戸時代初期に一時期、寺運が衰退したが、荒廃した寺は土佐二代藩主・山内忠義が正保年間(1644〜1648)に再興したと言われている。また、宝永4年(1707)にも津波と地震の被害を受けたが、すぐに再建された。本尊の不動明王は波切不動明王と呼ばれており、海上安全や豊漁に御利益があるとされている。 何でも弘法大師が中国に渡る際、大変な暴風雨のため船はあわや沈没という危機に見舞われた。そこで大師が一身不乱に祈願すると、不動明王が姿を表して荒天を鎮めた。その不動明王を大師自ら刻んだのが、この寺の本尊です。 |
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